「東京オリンピック」という祭りの後に残ったものは、新型コロナウイルスの感染爆発による第5波だ。もうすでに各地で医療崩壊が始まっていると言っても過言ではない状況。

自分が感染することはもちろん、他人に感染させてしまうかもしれないということで慎重に行動している国民を大いにバカにしてきた大学院教授がいる。彼は「コロナウイルスなんて飲めますよ!」「風邪やインフルエンザと一緒だからこんなもの!」「過剰自粛で怖がっているのはコロナ脳!だから日本国民は大っ嫌いだ!」などと言い放ち、いまだに楽観論を振りまいている。一方で、この「コロナ禍」を深刻に受け止め、慎重になる人たちは多くいる。その不自由さを考えたとき、コロナとの長期戦をいったい何を参考しに、どのように行動したら良いのか? そのヒントが福沢諭吉の思想にあると語るのが、評論家・中野剛志氏と、作家・適菜収氏だ。新刊『思想の免疫力——賢者はいかにして危機を乗り越えてきたか』(KKベストセラーズ)が発売直後から話題だ。「コロナ禍と自由」について、福沢諭吉の思想をヒントに語り合った特別対談第1回を再配信。







■福沢諭吉が語る「私立」と「自由」



中野:福沢諭吉は、「私立」という言葉を強調していますよね。言い換えれば「自由」ということでもいいと思うんですが、この「私立」の意味がちゃんと理解されていないと思っています。小林秀雄も「私立」というのを非常に強調しているんです。



『小林秀雄の政治学』(文春新書)でも書いたことですが、私は丸山眞男の福沢諭吉の理解は誤解があると思っています。丸山は戦前の不自由な時代を戦後は変えたいという意識が非常に強かった。丸山の解釈によると、福沢の啓蒙の目的は封建社会の不自由な「気風」を自由な「気風」に変えること。

この「気風」つまり、社会的な風俗とか風潮とか文化を福沢は重視した。人間が自由でいられるか、いられないか。私立でいられるか、いられないかは、「気風」によって変わる。だから、社会の気風を自由にしなきゃいけない。それが福沢が目指したことだ。そう丸山は言っているんですね。つまり、「自由」なり「私立」なりっていうのは、社会に依存するということになります。





適菜:はい。





中野:ところが小林の解釈は、そうじゃない。不自由な気風、自由な気風とかに関係なくて、気風に依存すること自体が間違い。気風に依存しないことが「私立」なり「自由」なんだ、と。もう一つ、小林が『考えるヒント』とかで、よく好んで引用したのが中江藤樹の「天地の間に己一人生きてあると思うべし」という言葉です。

これは、福沢諭吉の「私立」と同じ意味合いなのです。



 藤樹は江戸時代の人ですから、丸山の解釈だと、封建社会に私立はあり得ないということになるんですけど、小林は、そうはとらない。「天地の間に己一人生きてあると思うべし」、すなわち「私立」は江戸時代でもあり得たということなんです。





適菜:要するに、前近代にも「私立」「自由」はあったと。





中野:「天地の間に己一人あると思うべし」とか「私立」というのを、現代人は自意識過剰な個人主義と誤解しそうなんですが、もちろんそうじゃない。「私立」と福沢が言ったものは、制約や負荷がなくなって楽になるようなものではなくて、反対に、自分に負荷がかかる、かなり厳しいものです。



「私立」は「自由」のことですが、小林は、自由には、リバティーとフリーダムがあると言います。リバティーは制約から逃れるという意味の「自由」のこと。「自由」というと普通、そう考えられますよね。しかし、もう一つの「自由」、すなわちフリーダムは、逆に制約がないとあり得ない。制約されることが自由というのはわかりにくいけれど、フリーダムは自分が生まれ落ちた制約、環境、こういったものを運命として受け入れて懸命に生きる、そういった意味合いなんですね。「天地の間に己一人生きてあると思うべし」というのも同じで、自分の運命とか宿命とかを自覚し、それを積極的に背負う。

そういうときの内的経験のことを指しています。例えば、職業について、「天職」という言葉がありますね。職業を好き勝手選べますとか、一つの仕事に拘束されないとかはリバティーかもしれません。しかしフリーダムは逆で、自分の仕事は「天職」、つまり「これしかないんだ、これ以外は自分にはできないんだ」という思いで仕事に打ち込む時、人は充実感を感じる。恐らくその充実感がフリーダムであるということなんです。





適菜:福沢は自分が置かれている場所に常に自覚的でした。日本という狭い世界における制約だけではなく、世界史における日本や自分のいる場所を考えた。そして過渡期に生きていることをただ恐れおののいたり、目を背けるのではなくて、好機として捉えるべきだと考えた。小林秀雄は福沢についてこう言っています。



《洋学は活路を示したが、同時に私達の追い込まれた現実の窮境も、はっきりと示したという事が見抜かれていた。そこで、彼は思想家としてどういう態度を取ったろうというと、この窮地に立った課業の困難こそわが国の特権であり、西洋の学者の知る事の出来ぬ経験であると考えた。この現に立っている私達の窮況困難を、敢て、吾を見舞った「好機」「僥倖」と観ずる道を行かなければ、新しい思想のわが国に於ける実りは期待出来ぬ、そう考えた》(「福沢諭吉」)



《西洋の学者は、既に体を成した文明のうちにあって、他国の有様を憶測推量する事しか出来ないが、我が学者は、そのような曖昧な事ではなく、異常な過渡期に生きている御蔭で、自己がなした旧文明の経験によって、学び知った新文明を照らす事が出来る。

この「実験の一事」が、福沢に言わせれば、「今の一世を過ぐれば、決して再び得べかざる」「僥倖」なのである》(同上)



 「自由」にせよ近代的理念にせよ、日本人は西欧人とは違った立場から見ることができる「特権」を持っている。近代という必然を直視し、その中で生き抜くために、その目の力を最大限に利用しろということですね。



 小林はそれを「めいめいの工夫」と言っています。未知の事態には、答が用意されているわけではない。イデオロギーにあてはめて、答えを導きだせるようなものでもない。過渡期とはそれぞれが、工夫によって処すべき「困難な実相」だと小林は言うわけですね。



 こうした内的な経験が、福沢の説いた「私立」なのだと。中野さんとは新型コロナについてこれまで対話を続けてきましたが、それと同じことです。既存の概念を用いて安心するのではなくて、めいめい「工夫」して考えなければならないということです。







■福沢が「瘠我慢の説」を解いた理由



中野:そうですね。もちろん新型コロナも明治維新も大きな出来事なので、「一身にして二生を経る」というような歴史の過渡期を経験することは、そう滅多にないのかもしれない。しかしながら、その一方で小林は「過渡期でない歴史はない」とも言っている。

これも非常にいい言葉です。歴史は常に動いている。だから「一身にして二生を経る」ような今までの経験が通用しない、その環境に自分で処していかなきゃいけないことというのは、実は、常にある。人間はいつでも、多かれ少なかれ、変化する環境に制約され、それに対処しなければならないということがある。現在、我々は、コロナ禍という厳しい制約の下で生きざるを得なくなっています。



 そういう時代の制約から逃れる、つまり「新型コロナがなければ自由なのに」というのは、リバティーという意味の自由です。しかし、それがフリーダムであるとは限らない。もしかしたら大変ご苦労されているので勝手に想像したら悪いかもしれないけど、例えば、尾身茂先生をはじめとする公衆衛生や感染症の先生方、あるいは現場の医療従事者の方々は、大変な事態に巻き込まれて、自分の好きなこともできないし、休む暇すらない。リバティーって意味では、極めて不自由な生活をされている。けれども、なんとかこの難しい状況を打破して国民を説得しなきゃいけないとか、いろいろ努力されている。先生方は科学者として、公衆衛生の専門家として、あるいは医師としての自分の職業・使命から、ご苦労されているときには、リバティーはないんだけれども、実はフリーダムはあるんじゃないか。感染症の学者や医療従事者として、今ほど使命感を覚えるときはないはずだからです。





適菜:なるほど。それこそ天職ですね。





中野:そういうフリーダムとしての自由というものを、日本に限らず、近代社会はきちんと理解してこなかった。



 福沢が言った「私立」とは、日常的に言われている自由とはかなり違う。自由にも「リバティー」と「フリーダム」があると言いましたが、いわゆる「リベラリズム」は、その言葉のとおり、リバティーのほうの自由の主義なんです。それは近代以降の比較的新しい概念です。マキャベリのいた頃のルネッサンス期とか、あるいは古代ギリシャの自由には、フリーダム的な意味がある。「共和主義的な自由」とも言います。要するに、自分が生まれた国で自分の役割を果たすという意味合いが強かった。この「フリーダム」のほうの自由を福沢は「私立」と呼んでいたと思うのです。つまり、環境制約とか自分の職業の制約の下、その自分に課された役割を全うすることが自由だという意味として、「私立」というものを考えていた。そう解釈することで、初めて福沢が「瘠我慢の説」を書いた理由が分かってくる。福沢が「リバティー」を説いているのだとしたら、なぜ福沢が「瘠我慢の説」を唱えたのか、理解できないはずなんです。





適菜:福沢の「瘠我慢の説」を小林は重視していました。





中野:その通りです。「瘠我慢の説」というのは、簡単に言うと、幕末から明治にかけて、勝海舟とか榎本武揚とか幕臣だった人間が、明治政府と妥協したり明治政府に仕えたりしたのを福沢が批判して、「三河武士たる者、敵側につくなど、けしからん」「瘠我慢してずっと明治政府には協力しないということを貫けよ」と言ったのです。そのため、世間は「 お前、文明開化って言ってたのに、三河武士って、急に何なんだよ」と驚いた。ところが福沢が説いた「私立」をフリーダムのほうで考えると、むしろ幕臣として三河武士以来の武士道を背負い、それを全うすることが「私立」であり「自由」であるのです。



 とは言え、「自由」「私立」という言葉もなかなか福沢の言いたい意味に合致しないものだから、福沢自身がそれに「瘠我慢」という言葉を当てた。「瘠我慢」と言えば分かるだろうというわけです。そのことについて小林がいたく感心している。確かに「瘠我慢」というのは面白くて、我慢だから制約されていることなんだけど、瘠我慢は「俺は自発的に我慢してるんだ」ということでしょう。だから環境制約を受け入れるという意味の「自由」は、まさに「瘠我慢」だなということです。フリーダムという、共和主義的な自由を「瘠我慢」という言葉で表現する福沢のセンスはすごいと小林は感心しているわけです。





適菜:この「瘠我慢」という言葉を、今の時代に当てはめるとすると、どうなりますかね?





中野:先ほど言ったように、感染症の専門家や医療従事者は、大変な事態の中で使命感をもって頑張っておられるから、「瘠我慢」ですね。それだけではなく、緊急事態宣言下での外出自粛も、「瘠我慢」と言っていいんじゃないですか。もっとも、政府は、国民の「瘠我慢」にばかり頼っていないで、もっと支援を手厚くすべきだとは思いますが。とにかく、多くの日本人は、人の命を守るため、コロナを収束させるために、立派に「瘠我慢」していますよ。その「瘠我慢」を「コロナ脳」だとか「社交を知らないから自粛できるんだ」とかいって騒いだ知識人がいました。その知識人は、自由と言えば「リバティー」だけで、「フリーダム」のことは知らないのでしょう。







適菜:今の日本で真っ当な保守思想を唱えている人間は、ほとんど死に絶えている。バカが保守を自称するので、世間的には「保守=バカ」ということになってしまっている。それでも保守を死滅させてはならないと考えている人は瘠我慢しているのかな?





中野:今の保守論壇の中に、そんな立派な人、いるんですかね?





適菜:保守論壇とか言っているけど、頭のおかしい連中ばかりでしょう。





中野:頭のおかしい連中と言えば、適菜さん、最近『コロナと無責任な人たち』(祥伝社新書)を出されましたね。





適菜:新型コロナに関してデマを流し続けてきた連中がいます。 新型コロナで重症化するのは老人だけ、基礎疾患がある人だけ、若者は大丈夫、騒ぎすぎ、ただの風邪のようなものとか。でも、若者が重症化したり、死んだりするケースも増えている。後遺症の問題もある。専門家の間でもいろいろな議論があったのに、今回はズブの素人が大声をあげて、デタラメなことを言い出した。現実を直視できなくなり、そのうち説明も支離滅裂になり、陰謀論にすがりつく人も現れた。これは危ないなと思ったので、一度経緯を振り返ったほうがいいと思い、『コロナと無責任な人たち』にまとめました。いい加減なことを散々言いながら、平気な顔をして、しらばっくれている連中は多いですからね。





中野:我々と佐藤健志さんの鼎談で話題になった藤井聡・京大教授の名前が出ていなかったのが、意外でしたね。一章分もうけてもよかったんじゃないですか。





適菜:たしかにそのとおりです。ネットでも同様の指摘は多かったです。そこは反省しています。今回の本は主に政治家を対象にしたのですが、ド素人は基本的に外したんですよ。小川榮太郎についても論及していませんし。





中野:なるほど。論じる価値もないと。





適菜:でも、この中野さんとの対談では、藤井聡という名前を出して批判していこうと思います。危機に直面したときに人間はどのように振る舞うのかという問題を考える上で、非常に参考になる事例だと思いますので。



(続く)





著者紹介



中野剛志(なかのたけし)



評論家。1971年、神奈川県生まれ。元京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治思想。96年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。01年に同大学院にて優等修士号、05年に博士号を取得。論文“TheorisingEconomicNationalism”(NationsandNationalism)でNationsandNationalismPrizeを受賞。主な著書に『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『日本の没落』(幻冬舎新書)、『日本経済学新論』(ちくま新書)、新刊に『小林秀雄の政治哲学』(文春新書)が絶賛発売中。『目からウロコが落ちる奇跡の経済学教室【基礎知識編】』と『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)が日本一わかりやすいMMTの最良教科書としてベストセラーに。



適菜収(てきな・おさむ)



作家。1975年山梨県生まれ。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?」(以上、講談社+α新書)、『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)、『なぜ世界は不幸になったのか』(角川春樹事務所)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志・中野信子との共著『脳・戦争・ナショナリズム近代的人間観の超克』(文春新書)、『安倍でもわかる政治思想入門』、清水忠史との共著『日本共産党政権奪取の条件』、『国賊論 安倍晋三と仲間たち』、『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』(以上、KKベストセラーズ)、『ナショナリズムを理解できないバカ』(小学館)、最新刊『コロナと無責任な人たち』(祥伝社新書)など著書40冊以上。「適菜収のメールマガジン」も配信中。https://foomii.com/00171



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