新型コロナウイルスに対する「言論人」の見解が大きく分かれたのはなぜか? 新型コロナ軽視論を垂れ流し続けた「知識人」の胸の内はどのようなものなのか? 評論家・中野剛志氏と、作家・適菜収氏が、「知識人ごっこ」をして悪ふざけをする連中に鉄槌をくだす。ふたりの対談の新刊『思想の免疫力』では実名で糾弾する!発売は8月10日(Amazonでは12日)発売決定。







■「筆を折る」と宣言した人間



中野:以前に小林秀雄が未知の事態の対応に失敗した例として秀吉を挙げた話をしました。その同じ講演では成功例として信長の桶狭間の戦いを挙げているんです。



 今川義元の大軍が押し寄せて来たとき、織田家の家臣団は清洲籠城を信長に進言した。こういう時は、籠城がスタンダードな理論だったからでしょう。でも信長は、圧倒的な不利をひっくり返さなければいけないという「未知の事態」に対して、既存の理論つまり清洲籠城ではダメだと判断した。それで、突如打って出て、桶狭間で今川義元を討ち取ることができたのだというのです。



 これは「事変の新しさ」という講演ですが、小林は、信長は決して賭けに出たのではないとはっきり言っている。そうではなくて、信長は、現状を把握し、現実を直視した上で、そこから新たな理論を生み出すことで、未知の事態に対応したと言っているのです。



 しかし、丸山眞男は、この講演を引きつつ、いきなり論理を飛ばして、「小林は、理論一切を否定して、絶体絶命の決断を原理化する決断主義に走ったんだ」と小林をカール・シュミット的な決断主義者だと決めつけた。前回の対談で扱った「直観」の問題とも関係しますが、丸山のような近代主義者は、理論以外の判断は、全部、決断主義にしてしまう。小林の話が通じないのですよ。





適菜:ああ、なるほど。

いろいろ分かってきましたね。伝わらない奴には伝わらない。知識や能力がある人でも、人間の根幹のところで、共有できるものがなければ、伝わらない。





中野:まさに、そういうことです。直観というものは、その人のいる状況、その人のキャラクター、過去の経験その他もろもろと密接に関係があって、決して明示化できない。信長の例で言えば「清洲籠城は嫌だ。打って出るぞ」と言ったときに、家臣団は信長の真意を誰も理解できなかった。それは、信長が独断専行だからということでは必ずしもなくて、仮に信長がどんなに言葉を尽くしても誰も彼の直観を理解できなかっただろうということです。





適菜:テレビと同じで、レセプターがないと受信しない。「理性的に判断しましょう」と言い続けている人には、理性だけで判断することの危険性を指摘する中野さんのことは理解できないんでしょうね。あいつは「真善美に反している」と見えるのでしょう。





中野:そうでしょうね。

昨年われわれは「新型コロナはどうも相当やばそうだ」と直観したけれど、われわれは疫学者ではないから、思ったよりやばいと思った理由を完璧には説明できないんですよ。だけれども、尾身茂先生や西浦博先生の訴えを聞いたり、海外の状況を総合的に判断したりして「これは、大変なことになりそうだから、気を付けた方がいい」と感じたわけです。



 私も大衆迎合は嫌いだし、みんなが同じような台詞ばかり言っているときは、それと違うことを言いたくなることはよくありますよ。でも、今回の新型コロナは違う。これは、少なくとも自分は経験したことがないし、こいつはまずいという直観が働いたのです。その段階では、人には明瞭には説明できませんよ。だから説得は難しいわけですし、それについては、多分、感染症のプロたちだって難しかったと思います。というか、感染症のプロたちも、初めの頃は、「これは、新しい未知の事態だ。気をつけろ」という直観で動いていたという面はあるのでしょう。





適菜:そうですね。だから常識がある人は政府の方針でおかしなところがあればそこは批判していましたが、感染症そのものについては黙っていました。素人が専門分野に口出しできるわけがないですからね。

そして、専門家も新しい事態に直面して、説明するための言葉を必死に探していたわけです。





中野:その通りです。こうした中、京都大学大学院教授の藤井聡氏はなんて言ったのか。昨年の6月に「もし僕が間違っていたら人前には出ません。筆を折ります」と言ったわけですよ。それで筆を折るのが嫌なもんだから、今は事実や論理をバキバキ折っているところです(笑)。



 昨年の2月から4月頃、私は、自分の周囲で、新型コロナを軽視する知り合いに、「これは気を付けた方がいい」となんとか説得しようとしたことがありますが、失敗しました。説得どころか、小馬鹿にされた。でも、確かに、当時はまだ直観の段階でしたから、そんな私の直観を人と共有するのは無理だったんです。とりわけ、既存の理論にしがみついている人、間違った直観にとりつかれた人を説得するのは不可能ですね。それは、私の言葉足らずという問題もあったでしょうけれども。



 でも、感染症や公衆衛生の専門家が「これはヤバいから、気をつけろ!」って言っているんだから、素人は、まずは専門家の言うことに従っておこうというのは、直観以前の常識的な話でしょう。

それを、素人が突然「専門家」を名乗って、いきなり本物の専門家を名指しで批判しはじめ、挙句の果てに「僕が間違っていたら筆を折る」って、これ、どう理解したらいいんですかね。





適菜:絶望するしかないですね。福田恆存も西部邁も最後に「言論はむなしい」と言いましたが。







■MMT(現代貨幣理論)と藤井聡



中野:新型コロナって恐ろしいもので、新型コロナを軽視する「知識人」を嘲笑うかのように、次々と変異していますね。若者でも重症化するようになったり、感染力が強くなったり。新型コロナは、その発生が未知の事態だというだけでなく、自分でさらなる未知の事態を次々と作り出しています。感染症や公衆衛生の専門家も、変異や状況の変化に合わせて、臨機応変に対応していかなくてはならない。「間違っていたら筆を折る」なんて言っていたら、筆が何本あっても足りない。これこそ、まさに、本当の危機というものです。だから、本物の感染症のプロで、「間違っていたら筆を折る」なんて大見え切った人は一人もいなかったわけです。もっとも、ワクチンの開発が奇跡的に早く成功したので、光明が見えてきましたが、もしワクチン開発が遅れていたら、もっと深刻な危機になっていたのでしょうね。



 ところが、藤井氏は、2020年12月、「WeRise」という団体のイベントに参加し、講演で「コロナがあったら、飲んでもいい」などと発言しています。

コロナって、ビールのコロナじゃないですよ。挙句の果てには、ギターをかき鳴らし、飛沫飛ばして「Oh,Yeah,Oh,Yeah」などと叫んでいるのです。ツイッターで流れて来たその動画を見た時は、言葉を失いました。



 これは、さすがに限度を超えているでしょう。藤井氏が「Oh, Yeah, Oh, Yeah」と歌っていた頃、すでに大阪の医療機関は逼迫していました。そして、その後、大阪は、医療崩壊状態になったんですよ!藤井氏とつるんでいる連中は、この「Oh,Yeah, Oh, Yeah」の動画を見ても平気なんですか?





適菜:「WeRise」って、武田邦彦や内海聡といった陰謀論者が集まっているトンデモ集団でしょう。ウェブサイトでは、《新型コロナウイルス感染症はメディアが作り出した怪物》などと謳っていた。藤井聡は新型コロナという危機に対峙できないだけではなく、自分自身の危機にも対峙できなかった。都合の悪い現実を直視せずに、自己欺瞞を続けてきたわけですから。例えば、結構いろんな人が指摘しているのですが、藤井はMMT(現代貨幣理論)の話をずっとしていましたよね。ところが、新型コロナの補償の話になると、それを引っ込めてしまう。





中野:そうなんですよ。

それは、MMTの理解に基づけば補償が可能だということになると、経済的損害を理由にした自粛批判ができなくなるからでしょうね。でも、MMTを引っ込めるなら、永久に引っ込めておいてもらいたいですね。あんな「Oh,Yeah」男に「MMT!」とか言われると、MMTまでトンデモ扱いされてしまうから、迷惑です。



 この件について、改めて説明すると、こういうことです。



 まず、MMTというのは、ごく簡単に言うと、「自国通貨を発行する政府は、変動相場制の下では、財政破綻することはなく、財源の制約はない」という理論で、それが正しければ、日本政府は、財政危機ではないということになります。本当は、もっといろいろあるのですが、MMTを議論するのは、この対談の本題ではないので、詳しくは、例えば『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』をご覧ください。



 さて、新型コロナを早期に収束させるには、ロックダウンなどによって人流を激減させる必要があるが、そうすると経済が止まって、人々は経済的に困窮し、経済苦による自殺者も増えかねない。でも、厳しく人流を減らす措置を講じても、MMTが正しければ、日本政府は財源の懸念がないわけだから、補償や金銭的支援などを十分に措置できる。したがって、経済的な打撃は大幅に緩和できることになります。しかも、外出制限措置が厳しければ、措置の期間はより短くて済むので、経済的ダメージもより小さくできると言われています。実際、人流の「8割削減」を唱えた西浦博先生は、休業補償が必要だと言っていた。



 もちろん、西浦先生は、ご自身も承知されているように、経済や財政の専門家ではない。そこでMMTの出番で、MMT論者は「休業補償の話でしたら、財政的に可能ですよ」と論じるべきなのです。そうやって、感染症の門外漢でも、新型コロナ対策に貢献できる。不肖私めも、微力ながら、国会議員の先生方にそう申し上げてきました。



 補償つきの自粛については、佐藤健志さんも藤井氏に直接、説いています。ところが、藤井氏は、MMTを唱えていたにもかかわらず、昨年7月、「財政政策が行われるとは思わない」と断じ、さらに感染症の専門家でもないのに「半自粛」を唱え、挙句の果てに、尾身先生と西浦先生を公開質問状で断罪するという挙にでた。で、先ほど言ったように、昨年12月にはコロナを飲んでもいいと発言し、人前でギターをかき鳴らし飛沫飛ばして「Oh,Yeah, Oh, Yeah」ですからね。



 その「Oh,Yeah, Oh, Yeah」の頃、大阪では医療機関がすでに危機的でしたが、四月にはついに医療崩壊し、死亡者や重症者が大勢出た。すると、藤井氏は「病床を増やさないから、医療崩壊するんだ」などと批判したのです。でも、財政政策が行われないというなら、どうやって病床を増やすんだよ。



 それに、新型コロナの感染者って、指数関数的と言われるように、急激に増えるものなんでしょ。だったら、感染者数自体を抑制しないと、病床を増やしても追い付かないような事態になる可能性があったわけです。しかも、病床だけではなく、医療従事者も確保する必要があるのですが、それはもっと難しい。だから、感染拡大を防ぐために、感染症の専門家や医師たちが必死に警鐘を鳴らしていたというのに、藤井氏は警鐘ではなくギターを鳴らして「Oh,Yeah, Oh, Yeah」とマスクもしないで叫んでいたわけです。それで感染が拡大して医療崩壊したら「病床増やせって、言っただろ」って、いったい何なんですか、この人は。





適菜:本当にご都合主義ですね。







■オウム真理教が出てきたときの知識人の反応



中野:新型コロナを巡る知識人の言説で特にあきれかえったのが、新型コロナ対策で外出を自粛するのを「生命至上主義だ」と批判する連中が出て来たことです。



 生命至上主義を批判するというのは、「自分の命よりも大切な価値があると構えるべし。自分の命が何よりも大事だなどとやっているようでは、みっともない生き方しかできない」というような議論ですね。西部邁先生は、戦後日本人の精神構造を批判して、よくそういう議論をしていました。



 この議論自体は、自分自身の生き方の規律としては、正しいとは思いますよ。でも、この議論は、感染症対策に当てはめるようなものじゃないでしょう。



 当たり前の話ですが、感染症対策は、自分の命を守るというだけではなく、他人に感染させて、他人の命を奪わないようにするためのものです。「俺は、自分の命なんか惜しくはねえぞ」ってイキがるのは勝手ですが、「俺は、他人の命なんか惜しくはねえぞ」ってイキがっている奴がいたら、そりゃ、取り締まらなきゃ駄目でしょう。



 生命至上主義批判をしている知識人は、もし自分のせいで他人が感染して死んだら、嘆き悲しんでいる遺族に「命より大切なものがあるだろ」って諭すんですか? 自分の御大層な死生観を、人に押し付けるのはやめてくれって話ですよ。



 ところが、藤井氏は、小林よしのり氏との対談の中で、こんなことを言っている。



《「もう寿命も近いから、コロナだろうが何だろうが、死ぬのは構わない。それなら残り少ない日々を、外に出て楽しく過ごしたい」という気持ちだって、何人たりとも妨げることはできないはずです。そこが通じない現状には、全体主義的な生命至上主義の怖さを感じてしまいます》





適菜:つっこみどころが多すぎますが、そもそも「気持ち」を妨げることなど不可能だし、誰もやろうとしていない。「そこが通じない現状」ってなんなんですかね。





中野:そうです。「何人たりとも」とか大げさな表現をしていますが、実にナンセンスな発言です。そもそも、外出したいという「気持ち」を妨げようなどとは、誰もしていないし、できない。妨げようとしているのは、外出という「行動」でしょう。



 もっとも、藤井氏は、緊急事態宣言など、外出という「行動」を妨げることを指して、全体主義的な生命至上主義だと言いたかったのでしょう。それなら、まあ、批判としては一応成り立つので、そう読み換えておきましょう。



 でも、そうだとすると、今度は、「何人たりとも妨げることはできない」って、何を根拠に、そんなことを言っているんでしょうか、って話になりますね。



 そもそも、一般論として、自由主義国家であっても、公共の福祉のために、私権を制限することはあり得るというのは、憲法の教科書レベルの話です。ましてや、人にうつして感染を拡大させてはいけないという公衆衛生上の立派な理由があるんだから、政府が規制によって外出を妨げることはできるでしょう。いや、むしろパンデミックから国民を守るために公衆衛生上の規制措置を講じることは、政府の義務ですらある。その公衆衛生上必要な外出制限措置に「全体主義的な生命至上主義の怖さを感じてしまう」というのは、極端な自己中心主義者だけです。しかも、日本の緊急事態宣言は、欧米で実施されたロックダウンほど厳しい措置ではなかったのですよ。



 結局、生命至上主義批判って、気を付けないと、単なる知識人の自己中の裏返しだったりするわけです。(くどいですが)「Oh, Yeah, Oh, Yeah」したいという自分勝手を、生命至上主義批判で正当化しているだけ。生命至上主義を批判して「俺は、死んでみせる」と大見えを切るのは結構ですが、人様に迷惑をかけたり、巻き添えにしたりしないで、一人で勝手に死んでくれよっていう話ですよ。





適菜:保守を自称しながら、都合よく自由主義者になってしまう。いや、こういう言い方は自由主義者に失礼ですね。校則がおかしいと言って、イキがってみせる中学生レベル。





中野:そういう言い方も、中学生に失礼ですよ(笑)。それはともかく、この藤井氏の発言は、彼自身が感染対策として「高齢者は、徹底的に隔離すべし」と言っていた話とも矛盾する。外に出て楽しく過ごすのを何人たりとも妨げることができないなら、どうやって、高齢者を徹底的に隔離するつもりなんですか。



 要するに、物事をまじめに考えずに、単に生命至上主義批判というテンプレートを使えば知識人ぶることができると思って、それを当てはめてはいけない事象について当てはめて論じてしまったということです。実に、タチが悪い。



 ところで、新型コロナを巡ってデタラメを言う知識人には、オウム真理教が出たときの知識人の振る舞いを思い出させるものがありますね。



 あれは、80年代から90年代にかけて、バブルでみんながふざけまくっていたときです。その後も構造改革とか言ってふざけまくって日本をダメにしてしまったわけですが、当時は言論も弛緩していた。商業主義でウケればなんでもいいとなっていたんでしょうね。ちょっと気の利いたことを書いては、新しい知識だ、新しい理論だと言って調子に乗っていた。あの頃の知識人は、何を書いてもカネが稼げた時代だったと聞いたことがあります。当時は、「朝まで生テレビ」なんていう番組が全盛期だったですね。



 当時の知識人というのは、そういうふざけた連中ですから、オウム真理教に対しても、高をくくっていた。この平和な日本でテロ行為を宗教集団がやるなんて夢にも思わずに、麻原彰晃を面白がっていたんです。ポストモダンの理論なのか何なのか知りませんが、もっともらしく解釈してみせて面白がっていたんですよ。





適菜:中沢新一、島田裕巳、荒俣宏、吉本隆明……。テレビ朝日の『ビートたけしのTVタックル』に麻原彰晃を呼んだり。国家による宗教弾圧だとか言っていた「知識人」もいましたね。それをまたオウムが教団宣伝の材料にしていた。







中野:自分がテロに加担するとは夢にも思っていなかったから、そういうふざけたことが言えたんでしょうね。取り返しがつかなくなる可能性に気づいていたり、責任感があったりしたら、そんな危ないものには近づかないはずです。だから、1995年に地下鉄サリン事件が勃発すると、麻原を面白がっていた知識人連中は総崩れになった。



 新型コロナも同じです。パンデミックを経験したことがないもんだから、最初は、まさか新型コロナで大勢人が死ぬとは思わなかった。甘ったれていた、世の中を舐めていたのです。それで、なんとなく、人とは違う、気の利いたことを言いたい気分になって、あるいは、世間の風潮に反発したくなって、いつもの生命至上主義批判だの、全体主義批判だのをやってみた。「単に『国民は自粛しろ。政府は補償しろ』なんていうだけの平凡な議論では、何も面白くない」とでも思っていたのでしょう。



 その知識人連中は、一年たった今、どんな議論をしているのでしょうか。当初の主張を意固地になって言い張っているか、さもなくば「まあ、新型コロナ対策なんか、初めから、たいして関心がなかったんだよな」と斜に構えるか、そんなところでしょうか。そんな態度も、どうせ自分が新型コロナに感染して苦しい思いをしたら、コロッと変わると思うけれど。





適菜:だから平和ボケなのは、彼らなんですよ。山梨県の上九一色村にオウム真理教が入ってきたときに、地元の住民は反対したんです。そしたら「オウムにも自由がある」みたいなことを言い出す「知識人」が出てきた。「オウム信者の人権はどうなってるんだ?」とか。吉本隆明が「宗教の倫理と世俗の倫理は違う」とか当たり前のことを言い出して、吉本の信者もオウムの信者もありがたがってその御託宣を聞いているわけです。常識をからかうというか、相対化するというか、軽視する浮ついた時代だったんですね。その後、オウム事件の検証みたいなのもありましたが、今回の新型コロナ騒動を見る限り、なにも反省していなかったんだなと感じます。オウムと同じように被害妄想と陰謀論に辿り着き、狭いコミュニティーの中でカルト化していった集団もありました。頭はそれなりにいいが孤独な人がカルトにはまりやすい。カルトの内部では世の中を整合的に説明してくれるし、自分と似たような考えを持つ人が周辺に集まってきます。そこではじめて自分を認めてくれる人たちに出会い、居場所を見つけたような気分になる。居心地がいいから、外部の世界と乖離していても気づかない。



 一方、途中で気づいたまともな人たちは、そのコミュニティーから離れていきます。こうなると、教祖の周辺はイエスマンばかりになるので、おだてられてますます暴走していく。オウム真理教の信者たちは目の前にある現実を無視し、何が起こっても、「尊師は悪くない」「尊師はむしろ被害者だ」の一点張りでした。そして批判されればされるほど、外部の声を聞かず頑なになっていく。自分たちは正しいことを言っているのに、それを理解できないバカがいると思い込むわけです。





中野:それで思い出しましたが、前回の対談で、小林秀雄の「政治」と「思想」の区分に触れつつ、学問上の師弟関係と、思想運動や徒党とは違うという話をしましたね。学問の師は、徒党の指導者とは違うのです。



 学問では、弟子が師匠を批判してもよい。いや、批判できるなら、むしろした方がよい。それによって思想は磨かれるし、正当な批判であれば、両者の信頼関係は崩れない。小林秀雄も正宗白鳥を激しく批判しましたが、小林は正宗に敬意を表していました。



 ところが、徒党では、指導者を批判するのはタブーです。ですから、思想運動の徒党では、指導者とメンバーの関係は、師匠と弟子ではなく、それこそ、尊師と信者の関係のようにになってしまうのです。



 学問における師弟関係と徒党との違いは、指導者に対する批判が許されるか否かの違いですね。指導者に対する批判もできないような知識人のグループは、単なる徒党に過ぎません。その徒党の極端な形態が、カルト教団でしょう。



 徒党では、もし、メンバーが指導者を批判するようなことがあると、指導者や他のメンバーたちがよってたかって批判者を抑圧したり、排除したりして、徒党の秩序を守ろうとします。知識人の徒党の場合、カルト教団とは違って、物理的な暴力で抑圧するわけではありませんが、吊し上げとか、あるいは陰口やゴシップとか、もっと嫌らしい手口を使うんですよ。実に、みっともない話ですが、まあ、指導者やら徒党やらに依存するのは、福沢諭吉の言う「私立」ができないような情けない知識人ですから、当然、そういうことになるわけですね。



 話を戻すと、オウム真理教事件の教訓が生かされてないから、「知識人」の悪ふざけがまだ続いているのではないでしょうか。「朝まで生テレビ」もそうですし、最近ではネット番組の荒れた言論もそうですが、「どっちが勝った」「言論で対決する」「論破した」といったレベルのことをやっている。大声を張り上げて自説を押し通すか、屁理屈をこね続けて、相手がうんざりして黙ったら、「勝ち」という下劣なゲームです。そういう「勝ち負け」のゲームになった瞬間に、そんな議論はもうダメですね。





適菜:新型コロナの変異の問題など、状況の変化はそっちのけで、「俺はカッコいい」「自分は議論に勝った」ということにするためだけに全精力を傾けているような人もいますよね。自分を騙し続けることにより、信者と共に自閉していく。オウム事件当時、「なぜ有名大学を出たインテリがあんなばかばかしい宗教にハマってしまったのか」とメディアが騒いでいましたが、今回の新型コロナ騒動ではっきりわかったと思います。







中野:小林秀雄は、勝ち負けを争うような政治や論争を嫌悪していました。「政治と文学」という講演の中で、小林はこんなことを語っています。



《政治家の変節を、人は非難するが、をかしな話で、政治思想といふものが、もともと人格とは相関関係にはないものなのである。さういふ次第で、同類を増やす事は極めて易しい。だが、それは裏返して言へば、敵を作る事も亦極めて易しいといふ意味になります。空虚な精神が饒舌であり、勇気を欠くものが喧嘩を好むが如く、自足する喜びを蔵しない思想は、相手の弱点や欠陥に乗じて生きようとする。収賄事件を起した或る政治家がテーブル・スピーチでこんな事を言ふのを私は聞いた事がある。「私は妙な性分で、敵が現れるといよいよ勇気が湧く。」ちつとも妙ではない。低級な解り切つた話であります》(「政治と文学」)



 小林はまた、ヒットラーの『我が闘争』を読んで衝撃を受けています。《紋切型を嫌ひ、新奇を追ふのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼等は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかつたか、と思ひたがるものだ》(「ヒットラアと悪魔」)





適菜:ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの「嘘も百回言えば本当になる」というやつですね。要するに連中は人間を徹底的にばかにしているんです。だから、算盤を弾いて人間の獣性だけに訴える。それで社会の空気を動かそうという発想になる。こうしたプロパガンダを駆使するデマゴーグとして優秀なだけの人間が、今の日本ではのさばるようになってしまいました。





中野:そういえば、藤井聡氏が、ゲーテがどうたらって、やたら口走るっていう話、ご存じですか?





適菜:何回か聞いたことがあります。『ファウスト』の「時よ止まれ、おまえは美しい」というのは、土木は大切という話、みたいなことを言っていました。あれは、ファウストが勘違いして、自分の墓が掘られている音を聞いたときの言葉なのですが。





中野:その話だったら、ここに書いていますよ。





適菜:これ、すごすぎますね。以下、引用しておきます。



《要するに,ゲーテのファウストが言いたいのは,皆で協力して,大自然の中で自分達の暮らしの住処を作り挙げる土木の姿,防災まちづくりの姿こそが,どんな宝石よりも恋愛よりも芸術作品よりも人間のなし得る全ての行為の中で最も美しい姿なのであり,それには,どれだけ美しい夕日であろうが風景であろうがモーツァルトの音楽であろうが,何ものも優ることはできない──ということだったのです.そしてそのことが,ヨーロッパの歴史の中でも最大の知の巨人と言い得るゲーテの最終的な結論だったのです》





中野:恐れ入りました(笑)。『ファウスト』の解釈にもいろいろな説があるのでしょうし、私も詳しいわけではないけれど、そうは言っても、さすがに、こんな安っぽい話じゃないことくらいは分かりますよ。



 防災まちづくりの土木事業が重要なのは認めるけれど、そもそも、なんでそこでゲーテの『ファウスト』をわざわざ出さなきゃいけないんですか。この調子だと、三島由紀夫の『金閣寺』を引っ張り出して「三島の最終的な結論は、火の用心ということだったのです」とか言いかねない。





適菜:ははは。今回の新型コロナの件もそうですが、知らないことに口を出すからこういうことになるんです。





中野:そこで、面白いことに気づいたんです。藤井氏はファウストの土木事業の話を「土木は大事だということだ」などといった小学生みたいな解釈をしましたが、実際は、ざっと、こんな話です。



 ファウストは干拓事業に邁進するのですが、海辺の土地に菩提樹の木と小屋があって、その小屋に住むピレモンとバウチスという老夫婦が立ち退きを拒否するので、事業が進まなくなる。そこでファウストはメフィストフェレスに老夫婦を立ち退かせるよう命じますが、メフィストフェレスは老夫婦を殺害してしまい、菩提樹の木と小屋は焼け落ちる。ファウストは焼け跡を見て「あとをきれいにすれば、四方をくまなく見わたすことができる」という台詞を吐いて、干拓事業を先に進めるのです。



 このように、ファウストは、ピレモンとバウチスという高齢者を邪魔者扱いして排除するのですが、これは、『ファウスト』を土木万歳の話と理解した藤井氏が、新型コロナに関して「新型コロナ対策は、高齢者の徹底隔離『さえ』すればいい」とか言ったり、「コロナで死ぬのは、ほとんどが高齢者だ」と強調したりしたように、何かにつけて高齢者を邪魔者扱いしているのとぴったり符合する。ちなみに、藤井氏は、今年の5月17日にも、エマニュエル・トッドの言葉を都合よく引用しながら、こんなツイートをしています。



《「高齢者は重症化し死亡リスクが高い(が)高齢者なので人口全体の構造への影響はほとんどない」「(自粛で若者は)これから何十年という単位で影響を受ける」「まあ自分が救急病棟に入っ(た)瞬間に『大事なのは若者を救うことだ!』なんて言えるかどうかわかりませんが」こういう議論が重要ですね》



 藤井氏が何を言いたいのか、わかりますよね。ちなみに、高齢者を排除した後のファウストですが、次第に不安にかられるようになり、そして視力を失います。盲目のファウストは、それでも干拓事業に邁進し、穴を掘る鍬の音を聞きますが、それは実は、自分の墓穴を掘る音だった……とまあ、こんな話なのです。で、ゲーテが言いたいことは、防災まちづくりの姿が何だって?(笑)





適菜:軽く眩暈が……。まさに彼は「墓穴」を掘ったわけですね。





■俗物図鑑



中野:ここまでくると、知識人や言論人って、喜劇というか、何だかモリエールの風刺小説に出てきそうな感じですね。







適菜:仮にわれわれが合作で小説を書いたとして、風刺喜劇用の登場人物をつくりあげるとしたら、どんな感じになりますかね?





中野:そうですねえ、あくまで風刺小説に出て来る想像上の俗物ですが、こんなイメージかな。



 深刻そうな顔にチョビ髭つけて、大学教授か何かの肩書を振り回し、やたら「アウフヘーベン」とか哲学用語・外国語を口走ってもったいつけ、人前で葉巻を吸って見せたりする。権力者にはペコペコするのに、学生や飲食店の店員とかには威張り散らし、講演ではすぐに興奮して「僕は、そういう日本人にムカついているんですよ~!」とか叫んで大演説。挙句の果てに、取り巻きにおだてられて、代議士とか市長とかになろうとしちゃったり。



 こんな絵に描いたような俗物、明治・大正時代はともかく、令和の現代にいたら凄いわ(笑)。





適菜:かなり味わい深い人物ですね。喜劇というより悲劇に近い。そのモリエール風の小説には、こんな架空の登場人物が出てきたら、面白いかもしれない。「僕はホンコンさんの友達なんですよお」とネトウヨのゴミ芸人とのつきあいを自慢する人。私塾の途中でいきなり携帯電話をとりだし、政治家に電話して、ツーカーの関係を一生懸命アピールする人。居酒屋のアルバイトの若くて一番弱そうなやつを狙ってネチネチと絡む人。





中野:やけにリアリティがありますね(笑)。さて、ノンフィクションの話に戻りますが、この対談を読んでいる読者の中には、我々が藤井氏ばかり批判しているのを不審に思う方もおられるかもしれません。しかし、藤井氏の問題の中には、知識人・言論人の問題、さらには現代日本の問題が凝縮されているように、私には思われるのですよ。コロナ禍という危機が炙り出した現代日本の知識人の問題。これを論じる上で、彼ほどふさわしい人物はいないでしょう。その意味では、藤井聡教授こそ、現代日本を代表する知識人の一人と言っていい(笑)。





適菜:その通りです。ニーチェは『この人を見よ』でこう言っています。



《ただ私は個人を強力な拡大鏡として利用するだけだ。危機状況というものは広くいきわたっていても、こっそりしのび歩くのでなかなかつかまらない。ところが個人という拡大鏡を使うとこれがよく見えてくるのである。私がダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのもこの意味においてであった》



《またこれと同じ意味において、私はヴァーグナーを攻撃した。もっと正確に言うと、すれっからしの人を豊かな人と取り違え、もうろくした老いぼれを偉人と取り違えているドイツ「文化」の虚偽、その本能‐雑種性を私は攻撃した》



 要するに、時代や危機状況といった曖昧なものは、特定の人物を論じることにより、具体的に見えてくる。単なる悪口にはなんの意味もありませんが、社会の病を把握するためには、俗物について論じるのは大切なことなのです。





◆「小林秀雄」をめぐる評論家・中野剛志氏と作家・適菜収氏の対談(4回分)+〈続〉対談(5回分)の公開は今回が最後です。公開したのは全体の約半分です。未公開の対談とこれまでの対談の加筆修正されたものは、当社から単行本として8月に発売する予定です。



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