前回(第三回 古代・北辺の交流の要、「こしの国」の古墳を巡る)に引き続き、今回は古代の北辺の交流の要の地「こしの国」から、内陸部、そして太平洋側へ、つまり「みちのく」へと続いていく古墳の旅をレポートする。
「みちのく」とは「陸奥国」(むつのくに)のことで、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県の全域と秋田県の一部を指す。

この地の概念ができたのは7世紀後半といわれ、当時は、古代の道である東海道、東山道の「道の奥」の最北端に位置するという意味があった。ヤマト王権から見ても、日本の北限のイメージがあったのだろう。
 今回は、「みちのく」の中で福島県の古墳を巡った。三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土した日本列島最北端の古墳、会津大塚古墳をはじめ、個性豊かな古墳を紹介していきたい。





【ライターからひとこと】
この連載は、考古の世界への旅の先達、専門ナビゲーターとして、毎回、考古学の専門家にさまざまなアドバイスをお願いしています。今回の先達は、関西大学非常勤講師 今尾文昭先生です。文中に先生のコメントも登場しますのでお楽しみに…! 



【会津盆地最古の古墳のひとつ、杵ガ森古墳へ】

 会津盆地では、大きく3つの古墳群が営まれた。会津大塚古墳がある「一箕古墳群」(いっきこふんぐん)、「雄国山麓古墳群」(おぐにさんろくこふんぐん)、そして「宇内青津古墳群」(うないあおつこふんぐん)の3つの古墳群だ。まず最初に、「雄国山麓古墳群」の中の一基、杵ガ森古墳を訪れた。
 
 現地に行くと、なんてことはない普通の公園?のようなところが、古墳だという。柔らかな草に覆われてなんとものんびりした場所に、ほんの少し、こんもりと高まりを感じる。ここが福島県の中でも最古級クラスの一基と言われても、ちょっとピンとこない。



 説明看板を読むと、杵ガ森古墳は『新編会津風土記』に塚として記され、その存在は古くから知られていたという。



 1990年の発掘調査で周濠の存在がわかり、全長45mの前方後円墳だということが判明した。周濠から、布留式(ふるしき)の最古段階と同じ土器群が出土し、さらに墳丘の下の地層に弥生終末期の変化が見られる土器を持つ竪穴式住居跡が発見された。このことから、古墳時代前期、その中でもさらに古い時期の古墳ではないかと考えられるそうだ。



 面白いことに杵ガ森古墳の地層の下に稲荷塚遺跡が見つかっており、たくさんの方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)があった。その後も、次々と古墳の周りに周溝墓が造られていったようだ。古墳に眠る人物の配下にあった、我々のような一般の人々の墓と考えていいらしいが、大きな古墳の築造に関わった人々は、弥生時代から続く、昔ながらの周溝墓に埋葬されたのだろう。
 
 つまりここに、周溝墓から前方後円墳へと変わっていく墓制の変遷を見ることができる。会津盆地には、ここから近い場所にある男壇(おだん)遺跡の周溝墓と亀ケ森古墳・鎮守森古墳のように、周溝墓と前方後円墳という組み合わせがよく見られるそうだ。
 
 今回は訪ねなかったが、ここから北に行ったところに、「臼ガ森古墳」という古墳もあるそうだ。杵と臼という名前の組み合わせも面白いが、この地域一帯が、弥生時代から古墳時代にかけて栄えていたことが窺い知れる。今も周囲には田畑が広がるが、古代から豊かな作物に恵まれた田園地帯だったのだろうか。



 この辺りは会津盆地の西部にあたるが、弥生終末期の変動の時期に、北陸系の人々が移住した地域と言われているそうだ。前回の「こしの国」でも、北陸系の人々が移住してきた証を見てきたが、会津でも、周溝墓が多く発見された中西遺跡や男壇遺跡、宮東(みやひがし)遺跡などの調査で、土器、住居、墓などに北陸の特色が色濃く見られるという。これらの集落の数からも少数の移動ではなく、集団として移動してきたのではないか?と言われているそうだ。他のルートの可能性ももちろんあるけれど、彼らの足跡とともに、北陸経由でヤマト王権の文化が伝わり、彼らを通して、当時、画期的な前方後円墳がこの地に築かれたのかもしれない。
 
 杵ガ森古墳を訪れて、みちのく・会津の古墳時代の黎明期に、いきなり出くわした感が迫ってくる。こんな早い時代に、ヤマトから遠く離れたこの地に前方後円墳が築かれたことの謎。その目で改めて古墳を見ると、先ほどの微かな高まりがはっきりと感じられるから不思議だ。











 【どうしても会いたかった古墳、会津大塚山古墳へ】

 戊辰戦争の折の白虎隊の名でもよく知られる会津若松の地。筆者は維新好きでもあるので、以前ならば、白虎隊ゆかりの地を訪れるという思いで胸がいっぱいになったかもしれないが、今は違う。もっと遥か昔、古代のこの地への思いで、胸が高鳴ってくる。



 古墳へのアプローチは古墳がある丘陵の東側に隣接する公園墓地の長い階段を登ることから始まる。結構息を切らしながら登っていくけれど苦にはならない。

会津大塚山古墳。東北の古代史の常識を大きく揺るがしたこの古墳には、どうしても会いたかった。



 会津大塚山古墳は、墳丘長114mの福島県内で最大級の前方後円墳だ。この古墳の調査は、1964年、最初の東京オリンピックの年に行われた。東北大学名誉教授で、東北地方の古代の時代研究に大きな業績を残した故・伊東信雄博士が調査の指揮をとった。このとき、伊東博士にはなみなみならぬ決意と意気込みがあった。というのも当時、会津盆地、ひいては東北地方には見るべき重要な古墳はほとんどないと考えられていたそうだ。ヤマトから遠い東北の地に、もし古墳というモニュメントを築造する考えが伝わったとしても、それは時間が相当かかり、おそらく7世紀以降だろうという考えが主流だったという。



 ―伊東博士にとって会津大塚山古墳の発掘調査は、孤軍奮闘の感があったみずからの主張を実証するまたとない機会であったのだろう。(中略)。伊東博士は調査開始前に「東北の古墳は貧乏古墳だから掘っても何も出ないかもしれないがそれでもいいか」と尋ねたと伝えられる。―(「東北古墳研究の原点 会津大塚山古墳」新泉社より)



 意気込みと熱意と、掘ってみるまではわからないことへの隠せない不安。

考古学者の方が発掘調査をされるということに、素人の筆者は強い憧れを抱くが、当事者にはいろいろな思いがせめぎ合いながらも、粛々と発掘が行われるのだろう。緊張と期待をはらんだ発掘調査が、会津大塚山古墳でもいよいよ始まった。



 しかしその不安は杞憂に終わった。まず、後円部で南北に2基の割竹形木棺(わりだけがたもっかん)の跡が見つかった。まず北棺から調査が始まった。中からは鉄製剣や刀、首飾りなどが続々と出土した。





 さらに南棺からは、すごいものが見つかっている。弓の矢を納めて腰や背につける筒=靫(ゆぎ)が現れたのだが、光り輝く青銅の鏃(やじり)とともに、朱で覆われた鮮やかな靫が出土したのだ。発掘に当たった人々が息を飲む美しさだったという。



 福島県立博物館で出土状況のパネル写真を見たが、朱の鮮やかさに見とれてしまった。貧乏古墳と言われていた東北の古墳から、これほど見事な、素晴らしい証が出土したのだ。無関係の筆者でさえ、胸のすくような思いがした。



 ほかにも南棺から青銅鏡や勾玉、管玉、ガラス玉でできた首飾りや鉄製品などが続々と出土したが、その配置はヤマトのそれと同じだった。前期のヤマト王権の古墳とほぼ一致する配置法から、この被葬者がすでにヤマトとのパイプを有していたことが伺える。



 さらに、である。南棺からは三角縁神獣鏡まで見つかったのだ…!三角縁神獣鏡がヤマト王権から付与されたということは、そこにヤマトとの強力な絆の存在を意味する。



 会津大塚山古墳の南棺の被葬者は、早くからヤマト王権と同盟を組み、ヤマト側からも重用された人物と想像できる。三角縁神獣鏡と同じく見つかった三葉環頭大刀(さんようかんとうたち)もまた非常に貴重なものだった。おそらく4世紀ごろのものとされるが、その数はごく少ないという。三角縁神獣鏡と三葉環頭大刀という重要な副葬品を有した被葬者とはどんな人物だったのだろう。









 とにもかくにも、東北地方には7世紀以降の古墳しか存在しないという考えを、会津大塚山古墳は、4世紀にまで遡らせて、根底から覆したのだ。



 もう夕暮れ間近だったが、なんとか、この古墳に会うことができた。墓地からの階段を登り切って、鬱蒼とした森に入っていく。木々に深く埋もれるように墳丘があった。

なだらかなフォルムを描きつつも、前方部が低くなっている。



 日が傾いてきたこともあって、しんと静まる古墳は、触れるべからずのもののような空気をじわじわと醸してくる。後円部から前方部を見渡す全長114mという大きさが、量感を持ってぐっと迫ってくる。





 東北の古墳に対する概念をひっくり返すことになった会津大塚山古墳。古墳自体は そんなことは知らないよ、という風情で、ひっそりと静かに佇んでいた。





 その後の調査で東側に不思議な土手のような張り出し部があることがわかったそうだが、なぜそのような形なのかはよくわかっていない。墳丘の周りは鬱蒼と木々が茂って、張り出し部の存在はよくわからなかった。





 前方部の端っこまで行くと、墳丘がそそりたつ様子がよくわかる。この丘陵の地形をうまく生かして築造されたのだろうけれど、当時、下から見上げれば、この古墳はどれほど圧倒的な存在だったことか。



 その後の調査で東側に不思議な土手のような張り出し部があることがわかったそうだが、なぜそのような形なのかはよくわかっていない。





 古墳の森から抜け出ると視界がさぁっと開ける。街並みが広がり、古代のそれとはもう風景は違うだろうけれど、この開放的な気分は、古代のリーダーも味わったかもしれない。ヤマトから遠く離れたこの北の地は、どんな人物がどんな風に治めていたのだろうか。



 登ってきた階段を降りて、もう一度、振り返って見ると、古墳はもはや墓地の後ろのこんもりとした森にしか見えない。でも、会津の、東北の、古代の歴史を大きく塗り替えた素晴らしい古墳がここにある。研究者たちの意気込みと熱意の果てに多くのことを明らかにしてくれた会津大塚山古墳は、忘れがたい一基になるはずだ。



 ―会津盆地の古墳時代には大きく三つの勢力があったと言われているようですね。会津大塚古墳を擁する「一箕古墳群」(いっきこふんぐん)、杵ガ森古墳や舟森山古墳など前方後円墳がある「雄国山麓古墳群」(おぐにさんろくこふんぐん)、そして福島県最大の前方後円墳、亀ケ森古墳がある「宇内青津古墳群」(うないあおつこふんぐん)がそれです。これらの地域では古墳築造が継続して営まれ、4世紀の後半頃に、それぞれの地域に最大の大型古墳が現れます。「こしの国」の旅で「波動」の話をしましたが、会津盆地にも古墳を築造するという波動が伝わっていたことが実感できますね。我々も「こしの国」から阿賀野川沿いに会津盆地に入ってきましたが、古代にも同様のルートがあったとみなされます。新潟平野の方から、土器類なども入ってきています。そして、この会津大塚古墳です。1964年、東北大学の伊東信雄先生が発掘調査をされたのですが、もう、副葬品の質・量ともに桁違いのものが出土しました。三角縁神獣鏡や三葉形環頭大刀や、とにかくこれだけの副葬品が60年代当時、東北の会津盆地に見つかるとは思わなかったといわれていました。それだけに考古学史的にも価値ある古墳です。要は東北地域の古墳時代の認識を一新したというわけです。これは逆に汎列島的に地域を見直すことにもつながって行きます。
 ただし、前方後円墳築造の分布や三角縁神獣鏡があるからということが、イコール、ヤマト政権の政治権力がおよんだ地域だと短絡的につなげることは、しないほうがいいとは思います。副葬品の儀礼行為―埋葬施設のなかでの扱われ方の違いなど、近畿中部の同時代の古墳とは異なる点もあります。
 しかしながら、やはり、波及による文化の連続性は確かにあると思います。「こしの国」と「みちのく」は非常に緊密な関係にあり、その向こうに「畿内」というものがあった…、そんなふうに見ていくとまた面白いですね。福島県立博物館にて、会津大塚山古墳からの出土品や発掘時の資料などを見ることができますので、古墳を訪ねて、さらに博物館もぜひ訪ねてみてほしいですね」(今尾先生談)





【古代・北の防御ラインを見る~白河へ~】

都をば 霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く 白河の関
 
 平安時代に能因法師によって詠まれた白河関。古代から、ここは北への防御の最前線だった。人やものが東国から北上し、また北から南下する、その往来を監視し、さらにヤマト王権の敵、蝦夷の侵略を防ぐ最北のボーダーラインだった。



 白河関のすぐ南は栃木県との県境。東国とみちのくの、まさに国境の関が、白河関なのだ。



 筆者は以前、栃木県の古墳を取材で巡ったことがあるが、栃木といえば最北エリアである那須の地に築造された上侍塚古墳と下侍塚古墳、さらに駒形大塚古墳、那須八幡塚古墳、ともに前方後方墳の4基を思い出す。案内してくれた研究者の方は、被葬者はいずれもヤマト王権から派遣された司令官のような立場の人物ではないか?という説を教えてくれた。



 那須の地には那須官衙(かんが)跡があり、国境を北に越えれば、白河郡衙(ぐんが)遺跡がある。古くから、栃木~白河関にかけての、「東国とみちのく」の境は、なんとしても守り抜かねばならない軍事境界線だったのだろう。





【もしや国造の墓?下総塚古墳(しもうさづかこふん)】

 この白河の地に、なんとも魅力的な古墳がある。



 突き抜けるような青空の下をてくてく歩いていくと、田んぼの真ん中に明らかな高まりが見えてきた。ああ、いい古墳だ。緑の草に覆われて、田園風景の中で風に吹かれ、実に気持ちよさそうに深呼吸をしているような古墳である。



 このあたりは「舟田中道遺跡(ふなだなかみちいせき)」といって、古墳時代の有力な豪族の居館があった場所だという。



 下総塚古墳は調査の結果、基壇を有するタイプの前方後円墳で、墳長は71.8m、埋葬施設は、後円部にあって、南に開口する横穴式石室であることがわかった。築造はおそらく6世紀後半。古墳の規模や前方後円墳という形、埴輪も見つかっており、また、「舟田中道遺跡」の居館との関係や年代が近いことなどから、被葬者は「白河国造」ではないか?という説があるそうだ。





 古墳の周囲には、「舟田中道遺跡」のほか約1300年前から250年間にわたって古代白河郡を統治していた白河郡役所跡、「関和久官衙(せきわくかんが)遺跡」や、借宿廃寺跡(かりやどはいじあと)などがあり、古墳、国造、役所、地域のリーダーなどの点と点が結びつき、当時の政治や社会のあり方を連想させる。



 古墳は被葬者の姿が具体性を帯びると、途端に生き生きと蘇ってくる感がある。その地を統治した首長、それを慕う人々が敬愛するリーダーのために築造した古墳。



 想像に過ぎないけれど、古代、この地に確かに人の営みがあり、現代へと続いているのだと思いながら、墳丘に立つと、なんとも言えない感動が寄せてくる。



 実におおらかで気持ちの良いこの古墳は、古墳と遺跡がダイナミックにつながる、その真ん中にあって、存在感が光る。





【畿内へと繋がる2基の古墳~谷地久保古墳と野地久保古墳~】

 古墳と遺跡がダイナミックにつながりを、さらに、ダイナミックに広げる古墳2基を訪ねた。





 阿武隈川の左岸、標高350mほどの山の南向きの斜面に位置する「谷地久保(やちくぼ)古墳」は、幹線道路から山に向かって、なだらかな坂道を歩いていくとたどり着く。



 のんびりとした山の斜面に、なかなか立派な石を組み合わせた石室がどんと現れる。墳丘は大きく削平されているけれど、二段築成で築かれた直径17mの円墳だという。



 昭和58年(1983)に関西大学考古学研究室が測量調査を実施していて、「畿内地方に見られる切石を用いた古墳と同じ構造を持つ古墳」という知見が得られたそうだ。主体部は横口式石槨の埋葬施設で、付近で産する白河石(安山岩質溶結凝灰岩・あんざんがんしつようけつぎょうかいがん)を加工したもの用いて、底石の上に奥石と左右の側石を立てて、その上に天井石を架けるように載せる。加工された石の表面は滑らかで、畿内の終末期古墳によく見られる切石積みの石槨であることがわかった。



 三方が丘陵に囲まれた南に向いた緩やかな斜面での築造、また墳丘を守るように背面には弧を描く崖があったという。築造場所の選定や、石室の構造などは、畿内の影響を色濃く受けていて、また、7世紀後半~8世紀初頭ごろという築造時期なども考え合わせると、被葬者は畿内とのパイプを持つ有力者=古代白河郡の郡司などの役職にあった人物ではないかと考えられている。









 この谷地久保古墳の南東450mのあたりの丘陵の先端部に「野地久保(のじくぼ)古墳」がある。山の中の古墳を訪ねてみると、古墳の高まりはほとんど分からず、杉の木がボンボンと生えまくり、杉林、というか、山林の一角にしか見えない。



 市教育委員会の調査によると、葺石をもつ上円下方墳であることがわかった。「ここは古墳?どのあたりが上円下方墳?」と思わず自問してしまう。





 下方部の一辺16m、上円部は直径10mという規模で、谷地久保古墳と同じように横口式石槨で、石室には加工した白河石の切石を用いているという。



 今は古墳の面影はほとんど見られないが、この古墳は白河の歴史を考える上で、大変、重要だそうだ。谷地久保古墳とさして遠くない位置にあって、築造時期も近いという。さらに畿内の性格を持つ横口式石槨を有することから、この古墳の被葬者も白河地域の盟主、重要な位置にいた人物と予想できる。もしかすると古代有力者の墓域が、ここに展開していたのかもしれない。この地の発展には、物資の流通に欠かせない阿武隈川という川の存在も無視できない。河川の流通や交通を抑えていた有力な豪族がいく筋かに分かれて、地域を治めていたのだろう。



 国造を配置し、全国に律令制が進んでいく時代に築造された前方後円墳、円墳、上円下方墳という個性的な3基の古墳。その繋がりは、国造と地元有力者との関係を知る手掛かりになるはずだ。





 下総塚古墳、谷地久保古墳、野地久保古墳の3基の存在は非常に興味深いですね。まず谷地久保古墳は、山の斜面を利用して、山寄せの地形を造成して南向き、しかも切石細工を用いて、横口式石槨を備えている。それも近畿中部の、奈良の飛鳥であったり、大阪の磯長谷などの地域で見られる終末期古墳の特色と共通性が高い。本当に面白いですね。このまま奈良や大阪に持ってきても決して遜色しない終末期古墳です。典型的といっても良い終末期古墳が遠く離れた白河の地域に展開している。それにはすごく意味があると思います。さらに、南北の方位を意識した古墳には、風水のような発想があったのかもしれないし、とにかく畿内に展開していた造墓思想=墓を造る思想が極めて厳格に共有されていると思います。被葬者像も、飛鳥の都と直結するような政治的・文化的・社会的位置にあった人ではなかったかと想像します。(今尾先生談)





【そして、北辺の防御の最前線、白河関へ】

 旅の最後に白河関を訪れた。関東平野のどこまでも広がる平野部を抜けて北上すると、栃木県の北辺から白河関のあたりで地形が急激に変わってくるそうだ。峻険な山々が左右に迫り、さらに北へ、みちのくに向かうほど地形が狭まってくる。その奥まったところにあるのが白河関だ。天然の要塞のような地形を活用して、古代から重要な防衛拠点になったのだろう。



 静かな白河神社の参道を登っていくと、思った以上に深さと高さがある土塁と空堀が姿を見せ始める。ここは落ちたらそう易々とは登れないだろうと思わせる空堀がくねくねと続いていく。「曲輪(くるわ)」と呼ばれる防御施設はなかなかスケールが大きい。





 白河関は奈良時代から平安時代頃かけて重要な国境の関だった。蝦夷(えみし)の南下を防ぎ、人や物資の往来を監視する役割を果たしていたが、律令制が衰退していくとともにその機能も失ったという。



 が、都人にとっては、『歌枕』として、どうやら憧れの地となったらしい。北の辺境の関は、寂寞とした思いと見知らぬ国への憧れを併せ持ち、旅心をくすぐる魅力があったのだろう。



 俳人・松尾芭蕉もまた、白河の関に思いを寄せていた。元禄2年(1689)に白河の地にたどり着いた芭蕉は、ここから、「奥の細道」=みちのくの旅へと踏み出した。



「白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ」



という有名な句を残している。
 





 白河で立ち寄った古代の名残を思い浮かべてみる。東北地方の後期古墳の中では最大規模といわれる6世紀築造の下総塚古墳、7世紀後半~8世紀初頭に築造されたと考えられる畿内的な特徴を色濃く持つ谷地久保古墳と野地久保古墳、さらに古代の居館、郡衙、官衙、寺院、窯跡など、時代の流れを追うような遺跡が半径2km以内に点在している地域というのは、全国的にも稀だという。



 古墳の築造によって社会がまとまりつつある古墳時代から、国造、律令制へとダイナミックに社会が変化していく様子を、白河の地は古墳や遺跡を通してリアルに見せてくれる。一つの土地で体感する歴史ストーリーを、ここではテンポよく、見て回ることできた。



 一つひとつを個別に見ているうちは、まだその繋がりはよく分からない。たとえばこの古墳の被奏者は誰だったのか?この居館にはどんな人物が暮らしていたのか?などと断片的に考えるほかない。けれど、それらが徐々に結ばれていくにつれ、祖先がどう考え、行動し、何を造り、社会がかたちづくられていったのか?そのイメージが濃く立ち上り、謎もまた深まっていく。



 古代の遺跡や古墳は、だから面白くて、やめられない。



 最後に白河関を訪ねて、旅の足跡を振り返ると、律令国家の地方警衛の初期の姿をこの地に見ることができると思います。白河一帯は6世紀から7世紀にかけても遺跡分布が濃密で東北の関門として盛行していました。その地域が、律令国家の成立期にも継受されたようです。寺院が建立され、官衙ができる。おそらく、地元の豪族たちはその下で官衙につとめる役人になる。在地勢力の官僚化ですね。地域全体が中央政府の組織機構の中に組み込まれていったわけです。そのなかで、終末期古墳も築造されていたわけで、この旅では、ずっと古い、古墳時代から律令国家成立までの壮大なストーリーを眺めていくことができたと思います。古墳から白河関までの道程を追ううちに、大和からみた時の境界領域の在り方を古墳や遺跡を通して、考古学という学問の評価を得て、見ることができたのではないでしょうか。単にそこに古墳があるということに留めず、なぜ造られたのか、造墓の思想はどこから来たのか、何のために伝わってきたのか。その先に律令国家があり、さらに中世、近世の歴史につながっていくところまで見据えると、古墳の存在がさらに際立ってくると思います。近畿からも数時間で訪ねることができるようになりましたが、白河の地はみちのくの玄関口として、今もそこにあるのです。(今尾先生談)



【古代旅の先達からのメッセージ】



◆今回の旅のナビゲーター
関西大学非常勤講師 今尾文昭先生





◆プロフィール◆
今尾文昭 いまお・ふみあき
1955年兵庫県尼崎市生まれ。78年同志社大学文学部文化学科文化史学専攻卒業後、奈良県立橿原考古学研究所へ入所、その後、学芸課長、調査課長などを経て、2016年定年退職。現在、関西大学文学部非常勤講師・NPO東海学センター理事長。博士(文学)。専門は日本考古学。著書に『律令期陵墓の成立と都城』(青木書店)・『古墳文化の成立と社会』(青木書店)・『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』(新泉社)・『世界遺産と天皇陵古墳を問う』(思文閣出版)・『古墳空中探訪』[奈良編]・[列島編](新泉社)『天皇陵古墳を歩く』(朝日選書)ほか。




『天皇陵古墳を歩く』
奈良・大阪に点在する大型前方後円墳はその大多数が天皇陵に治定、立ち入りが制限されてきた。近年、研究者への限定公開が進められている。第1回の公開から立ち合ってきた著者が主要な大型古墳の周囲を踏査。年代観を示す。
発行:朝日新聞出版
定価 :1,870円




『飛鳥への招待』
高松塚壁画発見以来、重要な遺跡の発掘が相次ぎ、歴史的景観の整備も進んだ飛鳥。また、『万葉集』の故地として、あらたな魅力を発信しつつある。読売新聞奈良版に足かけ三年にわたり連載された「飛鳥学」は、考古学・古代史・万葉学・民俗学など分野を横断した研究者の最新知見をわかりやすく紹介し、好評を博した。本書はその連載に加え、第一線の研究者による座談会、現地を体感する周遊紀行の三部立てで構成。飛鳥の魅力を一冊に凝縮した決定版ガイド。
発行:中央公論新社
定価:2,090円



◆ちょっと立ち寄り~古代を学び、古代に触れる~◆



◆福島県立博物館
 福島県の古代から現代までの歴史・文化を紹介する博物館として、考古、歴史、民俗、自然、美術の資料を展示している。常設展示のほか、季節ごとの企画展、個別のテーマを設けたテーマ展・ポイント展を開催。展示をより深く知るための講座や、ワークショップも行っており、こどもからおとなまで楽しめる博物館となっている。常設展にて「会津大塚山古墳」からの出土品やパネルを見ることができる。



◆住所   〒965-0807 福島県会津若松市城東町1-25 
◆電話番号 0242-28₋6000
◆開館時間  9:30~17:00(入館は16:30まで)
◆休館日  毎週月曜日(月曜日が祝日・振替休日の場合は火曜日)
        祝日の翌日(土・日にあたる場合は開館)
        6/29(火)、12/21(火)は館内整備休館日
        12/27(月)~1/4(火)は年末年始休館日
◆観覧料  常設展 一般・大学生280円(20名以上の団体は220円)
高校生以下無料  ※企画展によって料金が変わる







◆福島県文化財センター白河館(愛称「まほろん」)



福島県教育委員会が発掘調査した遺跡の出土品と調査写真・図面等の記録を一括収蔵・保管するとともに、これらを活用した体験型フィールドミュージアムとして、文化財に親しむ機会を広く提供している。常設展示では、現代から旧石器時代までの各時代の居住空間の情景、野外では、竪穴住居や古墳、中世の館などを復元展示している。また、収蔵資料を基にした、文化財にちなんだ各種の体験活動も行っている。



◆住所    福島県白河市白坂一里段86
◆電話番号 0248(21)0700
◆開館時間 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
◆休館日  毎週月曜日(国民の祝日・振替休日の場合は除く)、国民の祝日の
        翌平日、年末年始
◆観覧料  無料







◆協力・株式会社国際交流サービス

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