なぜ人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。

いつも流し台の狭い縁に“止まっている”おじさん。50年以上入院しているおじさん。「うるさいから」と薬を投与されて眠る青年。泥のようなコーヒー。監視される中で浴びるシャワー。葛藤する看護師。向き合ってくれた主治医。「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた牧師がありのまま生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ヶ月を綴った著書『牧師、閉鎖病棟に入る。』が話題の著者・沼田和也氏。沼田牧師がいる小さな教会にやってくる人たちはどんな悩みをもっているのだろう? 今回は3-40代就職氷河期世代がパワハラでも苦しみ、他責自責の念に駆られているというひとたちに対して沼田牧師が静かに語った。





 



 現在30~40代の、長い就職氷河期やリーマンショックを体験してきた人たちが、バブル絶頂期を現役で生きた50代以上の人たち、あるいは高度経済成長期に若者文化を謳歌した団塊の世代の人たちを、しばしば目の敵にする。その趣旨としては、彼らが贅沢三昧を過ごし、時代のうまみを吸い尽くした、そのツケを我々ブラック企業社員/派遣労働者/ひきこもりが払わされている、というものが多い。

そうした血を吐くような言葉を読んでいると、わたしは聖書に遺された、次の言葉を思い出す。



 



'お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。 「先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く」と。 'エゼキエル書 18:2 新共同訳(以下、翻訳は同じ)



 



 



 子孫、すなわち自分たちの歯が浮いてしまったのは、先祖、すなわち父や祖父ら前世代が酸っぱいぶどうを食べたせいだ、という意味のことわざが引用されている。前世代までの人々がやらかした失態の尻ぬぐいを、自分たちが負わされていると。紀元前586年にユダ王国は新バビロニアに滅ぼされてしまい、おもだった人々は首都バビロンに捕虜として連れ去られた。捕虜たちは挫折感のなかで「自分たちがどんな悪いことをしたというのか。こんなことになったのは父や祖父たちの愚行のせいではないのか」と、前世代までの人々を憎んだことだろう。状況はまったく違うけれども、今の30代や40代の人々が苦しみのなかで団塊の世代やバブルを楽しんだ(かもしれない)世代に恨み言をつぶやく状況に、わたしはこの聖書箇所を重ね観る。 



 ところで、上で引用したのと同じエゼキエル書のなかには、こんな言葉も載っているのが興味深い。



 



 



'人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。

「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」と。 'エゼキエル書 33:10



 



 



 こんどは他人のせいにするどころか、激しい自責と後悔の念に満ちている。上述のような歴史的状況に置かれた人々は、一方では自分たちの苦しみの原因を父祖たちの堕落に求め、それゆえ父祖たちを憎んだのだが、同時に、こんなことになってしまったのは自分たちが神に背き過ちを犯したからだ、だから自分たちはやせ衰えて死んでいくだけだという絶望にも陥っていた。これもまた、やはり30代や40代の人が、「自分なんてクズだ、こうなったのもけっきょくは自分のせい。自分になんの能力もなかったからこんなことになったのだ」と自嘲する姿と重なってくる。





 



 このように、他罰性や自罰性がそれぞれに聖書の時代にも現代にもみられるというだけでなく、他罰性と自罰性とがどちらも併存しているということ自体が、やはり聖書の時代だけでなく非常に現代を表してもいる。なぜなら、高度経済成長期やバブル期をリアルタイムで知っている人々を憎み、自分たちがそのツケを払わされていると感じている、その同じ人たちが同時に、今の自分を情けなく思い、自分自身を呪い、「死にたい」とさえ呟いている姿が、きわめてツイッター的でもあるからだ。



 



 苦しい状況に陥って、しかも、なぜそうなったのかの明確な理由も分からず、今後、事態が改善するという見通しも立たない。原因すなわち過去についても、見通しすなわち未来についても、明確な言葉にできない。言葉にしようとしても、あいまいなことしか言えない。それはときに、耐え難いほどつらいことである。

だから「こうなったのは上の世代のせいだ(先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く)」と言いたくもなる。しかも同時に「こうなったのは自分のせいだ(我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか)」と自分を責めもする。



 



 わたしたちは誰一人として世界の外にも、時間の流れの外にも出ることはできない。この事実を考えるとき、わたしは『ベルリン 天使の詩』という1987年の映画を思い出す。天使は永遠の場所に生きている。つまり、天使は世界の外、時間の外に存在している。天使が人間のすぐそばにいても、誰も天使に気がつかない。あるとき、天使はビルから飛び降りようとする人のそばにいた。天使は超越的存在として、おだやかに、すべてを理解しつつ、その人の絶望に耳を傾ける。
だがその人はビルから飛び降りてしまう。振り返った天使は声なき声で絶叫する。

「人間と出遭いたい、関わりたい」と切望した天使は、世界のただなか、有限な時間の流れに生きることを決意する。



 



 わたしたちは歴史を学んで、知ることはできるだろう。だが、過去をどれほど学んで知見を得たとしても──もちろんそれは人生をゆたかにするが──わたしたちは歴史の外に出られるわけではない。わたしたちもまた、歴史の、限られた時間と場所の渦中に生きることしかできない。そして、わたしたちは生きている限り、引っ掻きまわされ続けるのである。わたしたちが死んだあとにしか答えがでないこと、わたしたちが死んだあとにも永久に答えがでないことに。



 



 あのとき、こうしておけばよかったとか、ああすべきではなかったと、わたしに後悔を打ち明ける人がいる。しかしわたしは思うのだ。「人生の分かれ道」というイメージは、後づけの物語なのかもしれないということを。



 



 まっすぐな道を歩いていて、目の前でY字型に道が分岐している。さて、どちらの道を行くべきか。目的地があるのなら、それぞれの道に見えている風景を見比べたり、グーグルマップと比較したりしながら、「たぶんこちらだろう」と見当をつけて歩きだす。

もしも道を間違えたなら、分岐点まで引き返せばよい。だが、「人生の分かれ道」と呼ばれるようなケースはどうであろうか。



 



 そもそも人生の場合、今ここが分かれ道であると、リアルタイムに認識できるのだろうか。仮に「ここが考えどころだぞ。よく見極めて進路を決めなければ」と自覚しているとする。だが人生において、選択肢が二本の道のように見えているとは限らない。あれかこれか、選ぶべき道を悩むにしても、悩んでいるのは「あれかこれか」についてだけなのであって、他のことは頭にない。わたしたちは後になって「しまった、『あれかこれか』だけが全部じゃなかったんだ」と気づくのである。極論すれば、人生には分かれ道などない。分かれている道があったとしても、本人にはクリアに見渡すことができない。選択肢など見えようが見えまいが、その時点ごとの精いっぱいを生きて、巻き戻しのできない人生を突き進むしかないのである。あなたもわたしも、誰も人生の外側から、人生全体のコースを見渡すことなどできないのだから。



 



 わたしたちは限られた時間を、限られた場所で、限られた人々と共に生きている。そうやって生きている自分自身を、外から俯瞰することはできない。だから自分が今なぜ、こんなことになっているのかの説明がつかない。それはとても苦しいことであるがゆえに、わたしたちはしばしば、それを誰かのせいにしようとするし、また、必要以上に自分のせいにしようともする。それは今のわたしたちに始まったことではない。冒頭に聖書を引用したように、はるか古代の人々もまた、自分ではどうすることもできない逆境に陥ったとき、それを父祖たちのせいにしようとしたり、そうかと思えば激しい自責の念にかられたりと、揺れ動いたのである。



 



 この他責と自責の揺れ動きに対する「これが答えだ、これをすれば悩みはなくなる」という便利な処方箋は、ない。ないと、わたしは思っている。ただ、あなたがもしもこうした理不尽な苦しみに悩み、誰かのせいにしたいと思い、あるいは自分を責めようとしたとき、その葛藤は間違ってはいないということを、わたしはあなたに伝えたい。それは古代からの普遍的な苦しみであることを、わたしはあなたと分かちあいたい。あなたの苦しみは、はるか古代人とつながっている。





文:沼田和也



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