死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。

第13回は1935(昭和10)年と1936(昭和11)年。ハリウッド映画にもなった犬と世紀(性器)の猟奇事件被害者の話である。





■1935(昭和10)年生きながら伝説と化した犬が渋谷に通った本当の理由忠犬ハチ公(享年11)



 歴史に残る死は、人間だけとは限らない。この年3月に死亡した「忠犬ハチ公」は、生前から人気者だった。死んだ飼い主の帰りを渋谷駅で待ち続けたというエピソードは、小学校の修身教科書にも紹介され、前年には銅像も建てられることに。除幕式には、ハチ自身も参加し、



「自分の銅像をきょとんとした顔を見上げていた」



 という目撃談が残されている。



 それゆえ、立派な葬儀も営まれたが、ハチが本当に「忠犬」だったかについては、生前から議論を生んできた。そもそも、人気のきっかけとなったエピソード自体、新聞社や通信社の記者たちが「盛った」ものだとする見方が有力なのだ。ハチが渋谷駅に毎日通ったのは、大好物を恵んでもらえたからという「焼き鳥」説もある。これと「忠犬」説が対立してきたわけだが、読売新聞記者の宮沢輝夫は『文春新書1152 秋田犬』のなかで「テリトリー」説を主張した。



 秋田犬の習性として、飼い主によく連れていかれた渋谷を自らのテリトリーと見なすようになり、そこを見張るために通ったという説だ。実際、ハチは晩年の2年ほど、渋谷にほぼ住みついていたらしい。

ちなみに、ハチの父は無敵を誇った闘犬で、ハチもケンカが強かった。3歳の頃には、絡んできたブルドッグに対し、威嚇して噛みつき、片耳を食いちぎった武勇伝も持つ。



 そういう犬種だからか、秋田犬のファンにも強そうな人が多い。三重苦に打ち克ったヘレン・ケラーやロシアのプーチン大統領、フィギュアスケート金メダルのザギトワ、横綱白鵬といった面々だ。2009年にはハリウッド映画『HACHI 約束の犬』が制作され、主演のリチャード・ギアは秋田犬を「孤高の犬」「高潔な日本の犬」と評した。



 その一方で、当時のハチ公追悼ブームに噛みついた人もいる。ジャーナリストの長谷川如是閑は「一種のセンチメンタリズム」が「時代のより深刻な問題に触れ」「自己催眠的の興奮を起す」ことで、



「感傷的場面の展開だけでは済まないこととなるのである」



 と、警鐘を鳴らした。軍国主義やファシズムとの連動を危惧したのだ。



 そういえば、この年、タイから上野動物園に1頭のゾウが贈られた。8年後の1943年に、空襲対策の一環で餓死させられることになる花子(ワンリー)だ。いわゆる戦時猛獣処分である。



 これに比べれば、フィラリアとガンで犬として当たり前の死を迎えたハチは幸せだったといえる。

銅像になるほど伝説化したことを喜んでいたかどうかは、かなり疑問だが――。







■1936(昭和11)年愛人・阿部定が明かした真相と事件の長すぎる余韻石田吉蔵(享年42)



 この年最大の出来事といえば、2・26事件である。陸軍の青年将校らが昭和維新を目指してクーデターを起こし、大蔵大臣の高橋是清や内大臣の斎藤実(ともに総理大臣経験者)らが殺害された。高橋は財政に明るく、二度の恐慌を収束させたことで知られるが、軍部の暴走は止められなかった。日に日にキナくささを増していた世の中を象徴した事件といえる。



 もっとも、世間を騒がせたインパクトでは、3ヶ月後に起きた阿部定事件のほうが大きかった。これはうなぎ屋で働いていた30歳の女がその店主(42歳)と不倫関係となり、性交中に絞殺したあと、局部を切り取り持ち去ったというものだ。



 その様子を、彼女は裁判でこう陳述した。



「石田のオチンコをいじっている内、切って持って行こうと思い、額の裏に隠しておいた牛刀を出して根元に当てて切ってましたがすぐは切れず、かなり時間が掛りました。その時、牛刀が滑って腿の辺にも疵を付けました。それから睾丸を切り取る為、また嚢(ふくろ)の元に牛刀を当てて切りましたがなかなか切れず、嚢が少し残ったように思います」



 動機についてはさまざまに取り沙汰されたが、衝動としかいいようのないものだったのかもしれない。犯罪評論家の朝倉喬司も、彼女が述べているのは「好きだから殺した」というひとことに尽きるとして、こう分析する。



「阿部定は、被害者石田吉蔵によって、はじめて体の喜びと心のそれが一致する経験をした、二人の間に、利害や、いわゆる情痴をめぐるいさかいなどはまったくなく、性愛のきわまりの極点において、自分の心のなりゆきに忠実に、彼女は愛人を殺したのである」



 また、当時の流行作家・織田作之助もその陳述を「どんな自然主義の作家も達し得なかったリアリズム」「虚飾と嘘の一つもない」「どんな私小説もこれほどの告白を敢てしたことはかつてあるまい」と激賞して、



「本当に文学のようであった」



 と語った。同時代の人ですらこうなのだから、後世の人はさらにエロスを刺激されたりするのだろう。大島渚が映画『愛のコリーダ』を作ったり、あやかった芸名を持つ阿部サダヲなる俳優も世に出たりした(彼がドラマでまだ6歳だった芦田愛菜と共演したときなど、ミョーにドキドキさせられたものだ)。



 一方、陳述によれば、殺された石田のほうも窒息プレイを好み、首を絞めた手を「離すな」と言ったという。実際、定は後年「あの人は歓んで死んだ」と回想している。石田の最期の胸中は不明だが、世界史でも有数の「愛と猟奇」の事件に死者として名を残すこととなった。



 なお、懲役6年の判決を受けた定は、5年後、皇紀2600年の恩赦で出所。名前を変え、過去を隠して、会社員と結婚した。しかし、1947年に事件を題材にしたエロ小説が勝手に出版されたことに怒り、告訴。本が発禁になったかわり、夫に正体がバレ、離婚する。



 その後は「阿部定」に戻って、坂口安吾と雑誌で対談したり、事件を描いた舞台に本人役で主演したりした。浅香光代によれば、舞台の最後に自身の局部を見せて盛り上げていたという。

定は男女問わず高い人気があり「あの人は今」的な需要は絶大だったのだ。



 また、料亭に客寄せパンダとして高額でスカウトされ、仲居として働いたこともあったが、こうした生き方は彼女が心から望むものではなかった。安吾との対談でも、



「あんなことをやった人が今度はこんなことをやってる。偉いねッて言われるようなことをやってみたいと思うんです」



 と、語っていたのである。



 しかし、還暦を過ぎても若い恋人ともめごとになるなど、生活は安定せず、66歳だった1971年、働いていたホテルから失踪。それっきり、消息が途絶えてしまう。箸袋を使った置き手紙には「ショセン私は駄目な女です」などと記されていた。



 ただ、彼女が愛し、殺してしまった石田の供養を託した身延山久遠寺には、86年まで送り主不明の花が献じられていたという。生前、石田の命日には位牌に手を合わせていたという目撃証言もあり、花の送り主も彼女だったのかもしれない。



 生きていれば、116歳。さすがにもう亡くなっているだろう。それにしても、戸籍制度の行き届いた現代においてなお没年不明というあたりが、彼女の数奇な生涯を物語っているかのようだ。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)

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