新型コロナのパンデミック、グローバリズムの弊害、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではないと思える時代。だからこそ自分の足元を見つめ、よく観察し、静かに考えること。

森先生の日常は、私たちをはっとさせる思考の世界へと導いてくれる。連載第12回。





第12回 とにかく頭を下げる文化について



【あなたを責めているのではない】



 これが日本的な文化だとはいわない。日本以外でもあるだろう。ただ、とにかく「謝ることが正しい」との間違った解釈が幾分多く、周辺で観察される。



 仕事上でしばしば訪れる場面。「それは変じゃないですか?」と相手に指摘すると、「ああ、すみません、たしかにそうなんです。でも、こうするのが決まりでして」と返される。だいたいは、ここで引き下がるしかない。しかし、こちらに主導権があり、もう少し押せるような条件であれば、「いや、その決まりが間違っているのだから、この機会に改めてはいかがですか?」と要求すると、「はい、ごもっともです。同感です。でも、申し訳ありませんが、なんとか、このままお願いできませんか?」と返される。

こうなったとき、どうでも良いことなら、譲ったり、引き下がったりできるだろう。ただ、少なからずこちらに不利益が生じるときには、「いえ、あなたは悪くないのです。あなたを責めているのではない。そのルールが間違っているから、それを直してもらいたいだけです」と食い下がってみる。



 抽象的に書いたけれど、このような場面が僕の人生では十数回あった(細かいことだから引き下がったのは、その五倍はあるはず)。いずれも、依頼されて、こちらが出向いて仕事をしたのに、当初の約束とは違う条件が急に示され、問題が生じた。だから、「それは変でしょう?」とクレームをつける。相手の担当者は良い人で、おそらくそのルールを知らずに仕事を進めた。ところが、あとになって、そうはいかないことが判明。その組織としての決まりがあったのだ。だから、頭を下げて謝ってきた、というわけである。



 たとえばの話、よくあるのは、この金額でこの仕事をと依頼された。

事後に、なにかの理由でその金額は出せない、というルールの存在が発覚する場合などだ。例を挙げると、あるテレビ局では、出演料が過去の出演回数によって決まるルールになっている。また、ある出版社では、イラストの料金をイラストレータの学歴によって決めている。担当者は、こちらの出演回数や学歴を誤解して、最初にいくらです、と金額を提示してしまった。経理を通す段階になって、その額が出せないとわかった。このように例を挙げると、少し具体的になって、わかりやすいだろうか。





【謝ることが問題解決だという勘違い】



 具体的な例を挙げると途端に、それが問題なのだ、と焦点を絞って認識してしまう人が多いけれど、そうではない。もっと広く、いろいろなケースがある。決まりごとだけではなく、前例に固執し融通が効かない場合なども含まれる。当事者はお互いに「今回は特殊なケースだから」と理解している。だが、その事情を上へは持っていけない。担当者は板挟みになる。



 ルールを変えるような面倒なことはしたくない、というのが組織人の習性である。まずは頭を下げてその場を収めようと考えるし、これまでもそれで凌いできた。たまたま、頑固な人(僕のこと)に遭遇して問題となってしまうらしい。



 さて、僕としては、その間違ったルールを改めることが、その組織にとってもプラスだと信じていて、相手のため、相手の組織のためになるとの判断から、面倒だけれど、あえてクレームをつけている。僕としては、これは「優しさ」に属する行為である。自分がここで引き下がったら、将来きっと多くの人が嫌な思いをすることになるだろうし、組織にも不利益になるはず。今のうちに修正しておいた方が良いのはまちがいない。



 「とにかく、そちらで一度検討してみて下さい」とお願いすると、次は、担当者の上司がやってくる。その上司に改めて説明をしなければならないのか、と溜息を漏らすことになるが、その上司は、説明をしにくるのではなく、ただ頭を下げにくるのだ。「上の者が謝れば解決する、そのための上司」なのかと呆れることが数回あった。



 謝ってほしいなんて全然思っていない。謝られてもしかたがない。

時間と経費を使い遠くまで出張してきて頭を下げること、これが彼らの誠意であり解決方法なのだ。もちろん、ただ謝るだけで、その間違ったルールをどうして直すことができないのか、といった説明はない。相手(僕)はただ感情的になって頭に血を上らせているだけで、それさえ収めれば問題は解決する、と考えているのだ。失礼な話ではないか。この文化が、僕には許容できない。許容はできないけれど、頭に血を上らせているのではない。怒ってもいないし、相手を嫌っているのでもない。腹も立っていないから、笑顔で話ができる。単に、「間違いを直してはいかがでしょうか?」と提案しているだけなのだ。





【機嫌を取ることだけに神経をすり減らす人たち】



 もう一つ、例を挙げてみよう。出版社の担当編集者は、作家の相手をする窓口なのだが、頻繁に人が入れ替わる。このとき、「引継ぎ」というものをほとんどしない。

だから、新しい担当者に毎回同じことを説明し、どのように仕事を進めるか、細かい指示をしなければならない。そのうち、この引継ぎ用のリストをこちらで用意するようになった。郵便物はどこへ送る、ゲラ校正の手順はこうする、といった事務的なことから、細かいことでは文章上のルールなども校閲者に伝えなければならない(最近は、付き合う出版社を激減させたおかげで、このような面倒は減っている)。



 何度か担当者に、作家固有のルールなどをデータにして、次の担当者へ引き継げるような仕組みを出版社として作りなさい、と話してみたが、今のところそういったシステムは構築されていないようだ。今日も、ある出版社から20年もまえの住所へ書類を送ったが戻ってきた、と連絡があったし、また別の出版社では、海外翻訳本のカバー見本で、僕の名前の表記が、MORI Hiroshiになっていなかった(僕が海外翻訳の契約時に提示する条件は2つしかなく、その1つが名前の表記である)。いずれも、担当者が途中で交代し、情報が伝わっていなかった結果である。僕は、まったく腹も立てず、こういったときに送る文面を用意してあるので、それをコピィして返送しただけだ。



 「営業」と呼ばれる人たちは、仕事相手の機嫌を取ることが仕事らしい。僕は機嫌を取ってもらいたいなんて思っていない。きちんと作業をしてもらえれば良い気分になるかもしれないが、それは仕事の成果ではない。一方、仕事上のミスで腹が立つことはあるけれど、迅速で的確なリカバをしてくれればそれで良い。僕の腹の虫をおさめることは、担当者の仕事ではない。



 話は少しずれるけれど、社会的な問題を解決するときも同じだ。マスコミは、当事者に謝罪させようとする。「視聴者は謝罪を求めている」と言わんばかりの振舞いが散見される。謝ってもらってもしかたがないし、謝罪するところを見せられても意味はない。それは解決ではない。そんな暇があったら、そのミスが起こらない方策を早急に決定すべきである。謝るよりもさきに対策を実施してほしい。マスコミもそういった指摘をし、そこを監視することが使命だろう。謝ったかどうかといった問題は、本来二の次なのだ。



 最後にまた蛇足。「森博嗣が怒っている」とよく書かれるし、今回の内容でも言われそうだ。実際、全然怒っていない。この程度で怒らない。正直、ここ10年ほど怒ったことがない。ただ、怒った振りをすることはある。怒った振りをしないと、真剣に受け止めてくれない鈍感な人たちがいるためだ。今日は、ドライブもしたし、犬とも遊んだし、ランチはバーベキューだったし、模型でも遊べたし、新しい工作も始めた。楽しい一日だった(にこにこ)。







文:森博嗣

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