神戸大学工学部100周年記念学内シンポジウム「大学(工学)教育を考える」(2022年7月15日)が、小池淳司・神戸大学大学院工学研究科長の司会のもと開催された。ゲストは工学以外の分野で活躍されている方として、評論家の中野剛志氏と作家の適菜収氏が迎えられた。

テーマは、①「そもそも教育するとはどういうことか?」、②「教養とは何か、またそれをどう教えるべきか?」 ③「これからの大学(工学)教育はどうあるべきか?」。 大学の社会的役割、次世代の技術者・研究者の教育に関する議論、および「知」「技」の伝達をめぐる議論は、ビジネスの世界でも参考にもなるだろう。今回BEST TIMESでは全5回にわけてシンポジウムの内容を配信する。





■第1回 知の伝達とはどういうことなのか?



小池:皆さん、夕方の時間にお集まりいただき、ありがとうございます。神戸大学工学部100周年記念学内シンポジウムということで、神戸大学工学部、あるいは神戸大学全体が、どういう方向で教育を考えていくべきかを少し整理したいと思います。今日は古くからの友人であるお2人に来ていただきました。まずご紹介します。登壇者です。真ん中が中野剛志さんです。よろしくお願いします。中野さんは現在、経産省に勤めていますが、元京都大学の大学院の准教授で、現在、執筆活動も盛んに行われています。最新刊は『目からウロコが落ちる  奇跡の経済教室』という非常に面白い本です。

続きまして適菜収さんです。適菜さんは僕といろんなところで「教養とは何か?」といったことを話すのですが、僕の知識は適菜さんに教えてもらったりしたことが多いんです。近著の『ニッポンを蝕む全体主義』、非常に面白い本で、今回のテーマを考えるうえでいろいろ参考になる本だと思います。僕は神戸大学の工学部長をしております小池淳司です。よろしくお願いします。



 今日は教育について最初の1時間程度、我々が考えていること。また、僕が聞きたいことを、お2人にお聞きして、その上で、皆さんも交えた質疑応答を踏まえて、大学の教育を考えたいと思っています。そもそも大学とは何か。これもいろんな人や国によって定義があるんですが、当然、工学部の置かれている立場としては、高等専門学校とか専門学校と大学というのはちがうのかどうか。こういったことからホントは議論をしていかないといけないと思っています。「教える」ということについても、じつは、それほど、我々、わかっているわけではないんですね。こういったことも、少しずつ明確にできればなと思っています。

工学部の先生には、僕が書いたつたない文を、お配りしたことがあると思いますが、教えるというのは非常に難しいことだと思うんですね。それは単なる知識の伝達だけではなくて、ある種の概念みたいなものを、どう教えるかということになると、非常に複雑で困難を伴うものです。そもそも、教育することとはどういうことなのかともう1回考えてみようと。



 もう一つは、大学は教養を教えるという機能も多分にあると思います。これは、職業階層上のエリートというわけじゃないですが、社会の指導的立場として、それだけでなく、そもそも教養がない人々の社会はとんでもない社会だと。しかし、教養というのも非常に勘違いされていることが多いのも事実です.こういった教養はどういうものなのか。また、それをどう教えられるのか、あるいは、教えるべきかということです。



 最後はこれからの大学工学教育についてです。これは特に経産省におられる中野さんに来てもらっていますのでこの話題をしたいと思います。IoT(様々な「モノ」がインターネットに接続され、情報交換することにより相互に制御する仕組み)とかDX(デジタルトランスフォーメーション)とか、いろんなものが社会の中で騒がれ、工学分野も少なからず影響をうけています。製造業は高度経済成長時代はGDPの5割以上を占めていて、大学の工学部はそれを支えてきた歴史がありますが、現在ではその割合は3割程度になってきて、純粋な製造業というのは非常に小さくなってきています。



 一方で、それよりも第三次産業、いわゆるサービス業と呼ばれるものが多いんですが、そこでは、IoT、DXなど情報技術が中心的な基盤として役に立っている。

こういった背景を受けて、神戸大学工学部としても次の100年に向けて何を考えておけばよいのか議論できればなと。この3点についてどういう流れになるかわかりませんが、結論めいたこととか出ないと思いますが、いろいろな知見を伺えればと考えています。最初に適菜さんからまず5分くらいお願いできますか。





適菜:こんにちは。適菜収です。今日のテーマは教育なので、あまり政治の話はしないほうがいいとは思っていたのですが、ちょっと気になることがいくつかあって、最初にその話をします。なんだか胡散臭い奴っているじゃないですか。顔見て「ああ、コイツ、胡散臭いな」とか。うまく言葉にはできないんだけど、違和感を覚えてしまう人間。今回、統一教会の問題がたくさん出てきましたけど、何人かの顔を思い浮かべて「ああ、やっぱり、アイツ、統一教会だったんだ」と思った人も多いと思う。「ああやっぱりな」という感覚は重要です。「何か、胡散臭い」というのは、言葉ではうまく説明できないけど、肌で感じるものです。

そういう人間の観察の仕方、見方というのもある。そして、そういうのが、案外正しかったりする。今日お話ししようと思ったのは、その明示化できない、言語化できない部分についてです。



 言葉にできない領域は、非常に幅広い。たとえば、よくいわれる話ですけど、リンゴの味は誰でも知っている。しかし、リンゴの味はどういう味なのかは言葉では説明できない。相手に言葉で伝えることができないわけですね。コーヒーの香りも伝達できない。「香り」というもの自体が言葉の世界になじまない。自転車の乗り方のように、実際に経験してみないとわからないことはたくさんあります。



 言語化できないもの、明示化できないものは、世界の幅広い領域にあります。近代とはそういう明示化できないもの、言語化できないもの、数値化できないもの、統計の対象にならないものを軽視する働きなのではないかという話を、最初にしようと思います。



 私は教育という面においては劣等生というか教育には無縁な環境で育ったので、教育について偉そうなことを言える立場ではありません。少なくとも教育者には向いていないと自分でも思ってます。たまにTwitterとかで、絡んでくる奴がいても、どんなに無茶苦茶なことを言われても、事実誤認があったとしても、反論しないで、放っておくかブロックします。だって、事実を教えちゃったら、そいつを教育したことになるじゃないですか。そんなワケわかんない奴を教育したくない。とにかく私はそういう人間ですから、教育についても個人的な話から始めるしかないと思います。



 私が子供の頃、小学校、中学校、高校で、「すごい先生だな」と思った人が何人かいるんですね。ほとんどの先生はどうしようもないのですが、言葉にはできないが、なにかがあると子供に思わせる先生はいた。何か役に立つ情報をその先生から学んだとか、教え方が上手かったとか、そういう話ではない。小学校に田端という教頭先生がいて、いつも赤ら顔で廊下を歩いて、鼻歌を歌っていた。でも、その先生を見ると、人間として信頼できるなということはわかるんです。内面は外面に出るんですね。

私は教師というのは、それだけでいいんじゃないかと思っているところがあります。先生から子供に情報を伝達するのが授業のすべてだとしたら、それは言語化できるもの、明示化できるものだけを伝えているに過ぎない。それなら、先生が書いた教科書を読めば、それで事足りるということになります。そちらのほうが効率がいい。しかし、情報以外に含まれているものが重要ということになれば、表層的な知識しか得ることができないということになります。





■ドストエフスキーやカフカ、哲学書を速読するバカはいない





適菜:私のFacebookの友人に関西学院大学の先生がいて、ある学生のツイートを紹介していました。その学生は、新型コロナがパンデミックになってリモートで大学の授業を受けていた。彼はリモートの授業をいつも2倍速で聞いていた。そして、コロナが少し収まってきて、大学に行くようになったら、大学の先生の授業がゆっくりすぎてかったるいと。その関西学院大学の先生は「へえ」みたいな感じでFacebookで取り上げていたんですが、今度は別の大学の先生が「僕のリモートの授業では、倍速で聞くことができないように設定しておきました」みたいなリプを返していた。この問題をどう考えたらいいのか。もし授業を単なる情報の伝達と考えるなら2倍速だろうが、3倍速だろうが変わらないという話になります。むしろ2倍速で聞いたほうが効率はいい。そう考えると「2倍速でリモートの授業を聞いてはダメ」というのは単なる意地悪のようにも思えます。しかし、情報と同時に伝わっているものがあると考えるなら、2倍速とか3倍速で聞くのは論外ということになります。たとえばそれは息づかいであったり、間とか、タイミングとか、最終的には時間の問題が関わってくると思います。姿勢とか、形のようなもの。そういう方法でないと、情報に付随してる厚みが、正確に伝わらないということがあると思います。



 たとえばハリウッド映画でしたらほとんど情報なので2倍速で見ても同じだと思います。ハリウッド映画が好きな方がいたら申し訳ありませんが。しかし、いわゆる名画を2倍速で見るやつはいないと思う。ビジネス書なら速読しても同じですが、ドストエフスキーやカフカ、哲学書を速読するバカはいない。そこにも時間が関わってきます。それは言語化できないものを言語化しようとする努力というか、明示化できないものを伝達しているからです。だからこそ、時間をかけて触れ合わなければならない。「話せばわかる」とか「言葉で説明しなさい」と、なんでも言葉で伝達できると考える人がいますが、それが近代主義者と呼ばれる人たちです。言葉や概念により、理性的に、合理的に、思考を積み重ねていけば正解にたどり着くと信じている。要するに左翼の発想ですね。本来の保守はそういう発想を批判し、世界の広大な領域を排除してしまう暴力と闘ったわけです。先ほど言ったような、何でも数値化できる、言語化できる、明示化できるという発想の暴力です。政治にも数字を持ち込み、統計の対象にしてしまう。そういう考え方に、日本人は汚染されていて、小池先生といつも話すのですが、大学も汚染されつつあるということだと思います。



 IT企業の社長だったホリエモン(堀江貴文)っているじゃないですか。彼が「寿司職人に修行はいらない」という話をしていたんですね。寿司の専門学校に行って、短期間で必要な技術だけ入手できれば十分だと。そちらのほうが効率がいいという話です。修行などという非合理なものはいらないと。しかし修行とは明示化できないもの、言語化できないものを受け継がせる作業です。今、世の中全体がホリエモンみたいな発想になってしまって、何でも効率化しコスパで考えてしまう。しまいには、そういう発想が政治の世界にまで食い込むようになりました。政治の本質を深く考えるのではなく、効率的に票を集める手法を、突き詰めればいいという話になってしまった。そういう連中が、社会をどんどん、おかしな方向に導いてきた。これが今の日本の状況ではないかと思います。





小池:ありがとうございます。僕がよく大学の会議なんかで言っている「教える」ということについてと、非常に近いお話だったと思います。それはそうですよね、僕は適菜さんとふだんからしゃべって、僕が考えていることのほとんどは適菜さんに「教えて」もらっているので。ただし、効率的ではなく、食事しながらですが。僕は教えるというのは、英語で言うとTellとTeachの違いがあると思います。Tellは概念がわかっている人に情報を伝えることであって、Teachというのは概念そのものを教えることであると。で、そうすると、Teachは、非常に難しい。適菜さんの話でいうと、言葉にできないことも含めて教えざるを得ない。工学のことを大学で教えるということは、まさに工学の知識や情報を教える(Tell)ことでは事足りず、工学としての、いろんな概念的なもの、あるいは背景、歴史も含めて教える(Teach)のが大学の役割であろうと理解しているんですね。僕が工学教育協会に書いた文章では、本来の教育とは、客観的な情報と主観的な自分のなかの概念との差異から、自分の概念を再構築していく作業であり、そうしておかないと、クリエイティブなことはできないのではないかと。なぜかというと、外からの情報だけを知っている人が集団になっても、新しいことは生まれない。クリエイティビティ、創造性とは内発的なものではないかというイメージを持ってたんですね。



 一方で伝統とは変えないことですよね。この変えないことが大事だというのは、非常によくわかります。職人が何も変えずにきっちりやることの難しさ。それに対する敬意を我々は持っている。寿司職人も言葉では通じないけれども、ずーっと同じことを繰り返している。これとクリエイティブなことをどう整合的に考えればよいのか、僕の中では、わからないですけど。そこはどうですかね。僕は適菜先生って呼んだことないので、適菜さん。伝統の継承と改革的・クリエイティブなこと。あるいはある種の将来への憧憬みたいなものと、この伝統の継承の、どういうふうなバランスが取れることが、教育にとって必要なのでしょうか。





適菜:そうですね。教育や知の伝達が近代によって、ゆがめられてきたという話は、すでにしましたが、大学は前近代的な師弟関係を残しているというか、むしろ非合理なものを積極的に守ろうとする役割があり、特に立派な大学は、そういうところがあると思います。クリエイティブとは何かということですが、伝統の継承と改革的・クリエイティブなことは相反するものではないと思います。何もないところから、いきなりクリエイティブなものは生まれない。



 たとえば能でいうと、世阿弥が『風姿花伝』で言っていることですが、「秘すれば花」という言葉があります。よく誤解されているのですが「少し控えめにして隠しておくほうが品がいい」とか「美点は隠しておくのが大人としてのたしなみ」とかそういう話ではないですよ。世阿弥が言う「花」は具体的かつ表面的な美のことです。そういう「美しさ」を観客に伝達するためには、稽古を積み、いざというときのために芸を隠し持っておかなければならない。「秘するが花」とはこういう意味の言葉です。芸をたくさん仕込んでおけば、それが地下水脈みたいな形でつながっていき、やがてはクリエイティビティが発生する。能は型の集積であり、型を究めたところではじめて「型破り」ができる。型が最初からなければ、ただの「型なし」です。



 明示化できるものだけを頭に叩き込めば、情報を叩き込めば、知的な武装ができるというのは近代人の傲慢です。体を動かして修行をしたり、型とか、フォームとか、歴史的なものの集積がないと、新しいことはできない。そういうことを教えるのが高等教育なのではないかとも思います。



(鼎談第2回へつづく)





<登壇者プロフィール>





■中野剛志(なかの・たけし)



1971年、神奈川県生まれ。評論家。元京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治思想。96年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。01年に同大学院にて優等修士号、05年に博士号を取得。論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『日本の没落』(幻冬舎新書)、『変異する資本主義』(ダイヤモンド社)など。『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】』、『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』、『楽しく読むだけでアタマがキレッキレになる 奇跡の経済教室』(KKベストセラーズ)は大ロングセラー中。また適菜収との共著『思想の免疫力』(KKベストセラーズ)もある。最新刊は『奇跡の社会科学 現代の問題を解決しうる名著の知恵』(PHP新書)が絶賛発売中。





■適菜収(てきな・おさむ)



作家。1975年山梨県生まれ。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?』(以上、講談社+α新書)、『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、『安倍でもわかる政治思想入門』『安倍でもわかる保守思想入門』『国賊論 安倍晋三と仲間たち』、『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』、中野剛志との共著『思想の免疫力』(以上、KKベストセラーズ)、『ナショナリズムを理解できないバカ』(小学館)、『コロナと無責任な人たち』『ニッポンを蝕む全体主義』(祥伝社新書)など著書50冊以上。最新刊は『日本をダメにした 新B層の研究』(KKベストセラーズ)が絶賛発売中。「適菜収のメールマガジン」も配信中 https://foomii.com/00171





■小池淳司(こいけ・あつし)



神戸大学大学院工学研究科長。1992年岐阜大学工学部土木工学科卒業。1994年岐阜大学大学院工学研究科博士前期課程修了(土木工学専攻)。岐阜大学助手。1998年長岡技術科学大学助手。1999年博士(工学)(岐阜大学)。2000年鳥取大学助教授。2007年鳥取大学准教授。2011年神戸大学大学院工学研究科教授。主な著書に、『ようこそドボク学科へ!』(学芸出版)、『Policies to Extend the Life of Road Assets』(International Transport Forum,OEC)、『社会資本整備の空間経済分析』(コロナ社)、『インフラを科学する-波及効果のエビデンス』(中央経済社)、『価値創造の考え方:期待を満足につなぐために』(日本評論社)などがある。

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