2023年に異色の経歴を持つプロレスラーがデビューした。名前はリアラ。
■門限は17時。眉毛を整えるのも許されない家庭
ーーーかなり厳しいご家庭だそうですね。
リアラ:私は宮城県栗原市出身で、父が警察官で母が銀行員という家庭で育ちました。父が物凄く厳しくて、家でも絶対的な存在なんです。門限は17時。破るとすごく怒られましたね。年頃になったらお洒落したいと思うけど、お化粧も許してもらえませんでした。当時は細眉が流行っていたので私もやりたかったけど「そんなもの不良の入り口だ」と言って何もできなかったです。
夏休みとか冬休みはアルバイトOKですけど門限は17時のまま。友達とも全然遊べませんでした。夏に地元でお祭りとかあるのですけど夕方頃から盛り上がるんです。でも、私は門限があるから家から出られなくて、部屋の窓から花火を見ていました。
お母さんは、どちらかといえば私の味方で「大丈夫?」と声をかけてくれましたけど、やっぱりお父さんには逆らえない感じでした。
ーーーそれは厳しいですね。反抗心とか芽生えませんでしたか?
リアラ:もちろんありましたよ。実はピアス開けていたんですけど、お父さんにはバレないように隠していました。
高校卒業した後、スーパーに就職したんです。でも自分のやりたい仕事じゃないし、なんか敷いてもらったレールの上を走っている感じがして半年で辞めました。辞めたのが初めての反抗でしたね。
■キャバクラ嬢になりたいのを黙って一人暮らし
ーーーそもそもなぜキャバ嬢になろうと思ったんですか?
リアラ:当時はキャバ嬢がすごくブームで、「女子高生のなりたい職業ランキング」でもキャバクラ嬢が1位取った時代でした。テレビでも「お水の花道」(※注:六本木のキャバクラ嬢が主役のドラマ)とか「女帝」(※注:大阪・ミナミ、東京・銀座のクラブを舞台に高級クラブで成り上がっていく女性が主人公のドラマ)がやっていて、自分も同じようになりたいと思っていたんです。それこそ仙台に引っ越しした初日に金髪に染めて、キャバクラの面接に向かいました。
ーーーそこからナンバーワンになったのですけど、何かきっかけのような出来事とかありましたか?
リアラ:ナンバーワンになるのに4年かかったんですけど、きっかけはお店のリニューアルです。キャバクラの看板には在籍しているキャバ嬢を載せるんですけど、たくさんいる中で私が選ばれたんです。それで期待に応えようと思ってすごく頑張りましたね。
ーーーどんな営業されていたのですか?
リアラ:当時はお酒が飲めなかったのでお客さん全員に毎日連絡していました。一人ひとりの年齢や何の仕事をしているのか? それくらい飲むのが好きなのか? 来るのは土日か? また平日は飲めるのか? を全部メモしてお客さんを覚えていました。メールの内容もコピペだと返事が来ないから一人ひとり内容を考えて送っていましたね。多分1週間で100人ぐらい送っているので、訳わかんなくなってくるんですよ。困ったのが同伴のときで、こっちは覚えていないから待ち合わせできないんです。
電話も毎日していましたね。それくらいやらないとナンバーワンにはなれないんで頑張って電話をしていましたよ。

■3.11をきっかけに東京進出
ーーー仙台でナンバーワンになったのに上京しようと思った理由は?
リアラ:当時月収は100万円を超えていて、中々いい暮らしができていたんです。その頃東日本大震災が起きて私も被災者の一人になって、仕事も一時休業状態になったんです。考える時間ができたときに「東京で勝負したい。歌舞伎町ナンバーワンになりたい!」と思って、震災の二ヶ月後には上京していました(笑)
ーーー仙台と東京では客層は違いましたか?
リアラ:全然違います。仙台は地域密着型ですけど、歌舞伎町はイケイケドンドン見たい感じでお酒飲めないと話になりませんでした。私飲めないまま上京したのでどうしようもなかったですね。そこで挫折して仙台へ帰りたくなりました(苦笑)。
ーーー飲めないのはどうやって克服したのですか?
リアラ:1年ぐらいかけて日本酒、ウイスキー、ワイン、シャンパン、ロックとかテキーラとか全部克服しました。同伴とかアフターでもとにかく飲んでは吐いてを繰り返しです。
それから1年半くらいかかってナンバーワンになりました。最高月収は500万くらいあったのかな? でも、ほとんど残ってないです。ドレスも一ヶ月に何十着とか買うし、シャンパンタワーを作る土台や装飾は自腹なので全部払っていました。私の営業スタイルが“仲間と飲む”で、同業のキャバ嬢が多かったんです。私を指名してくれるのが友達で、今度はその友達の店に行き、私が指名するから全然残らない(笑)。もうね、そこでお金が回っている状態ですよ。
■プロレスラー転向のきっかけは大物プロレスラーとの出会い
ーーープロレスラーになろうと思った理由は?
リアラ:私元々プロレスファンなんです。12歳離れた兄の影響で子供の頃からプロレスを見てました。あの頃はNWO(※注:ハルク・ホーガンや蝶野正洋が参加して日米で大ブームを起こしたユニット)とか大仁田劇場(※注:テレビ朝日系「ワールドプロレスリング」で大仁田厚がテレビ朝日アナウンサーと繰り広げたやり取り)を見てハマったんです。
ーーー当時はプロレスラーになりたいと思っていた?
リアラ:夢のまた夢って感じでなれるとは思っていませんでした。でも、東京でキャバ嬢やっているときもずっとくすぶっていたのかもしれませんね。仙台にいた頃は試合があまりやってなくて観戦できなかったけど、上京してから同伴で行ったり、休みの日に観に行ったりしていたんです。
この仕事(キャバ嬢)をしていて、プロレスラーの方ともお会いする機会もあったんですけど皆さん素敵なんです。何て言うんですか、生き方とかすごくかっこいいですよね。それで自分も(プロレスラー)なりたいって思いが強くなってきたんです。
ーーー抑えられなくなったんですね。
リアラ:はい。そんなときに友人が丸藤正道(※注:プロレスリング・ノア所属の人気プロレスラー)さんと食事に行くという話を聞いて、無理言って同席させてもらったんです。
ーーービックチャンスが来たんですね。
リアラ:はい。丸藤さんにお会いした二日後に高木社長と面接があって「君を知っているよ」と言われて自信が持てました。「運動経験とかないけど大丈夫ですか?」と聞いても「気にしなくて大丈夫です」と言ってくれて私の夢を後押ししてくれたんです。

■収入激減しても諦めなかった理由
ーーーそこからガンバレ☆プロレスの練習生になったんですね。
リアラ:面接の後に「ガンバレ☆プロレスで練習してください」と連絡がきたので道場へと行ったんです。初日は見学だけだったんですけど「無理かな」と落ち込んで帰りました。でも、「向いてないから辞めたら?」と言われるまで食らいついていこうって決めてましたね。丸藤さんや高木社長がせっかくチャンスをくれたのに自分から諦めるのは止めようって。
ーーー最初はどんな練習をしていたのですか?
リアラ:最初は前回り受け身と後ろ受け身だけです。小学校のときにマットの上でやってたのは覚えてるんですけど、リングは固いので怖かったですね。筋力はパーソナルジムに通って鍛えてました。
ーーー練習生になるまでキャバ嬢はやっていたのですか?
リアラ:その頃は1日練習に行くと3日位寝込んでしまって…。同時並行なんて無理。もういっぱいいっぱいでしたので仕事は辞めてました。お酒も止めて練習だけ頑張ろうって生活です。貯金はほぼなかったですけど、最低限の生活できたら大丈夫だったのでキャバクラのときの半分くらいの家賃のところに引っ越して、めちゃくちゃ食費光熱費を浮かせてました。今はキャバ嬢に復帰しています。
ーーープロレスラー挑戦について周りはどんな反応でしたか?
リアラ:離れていった人もいます。キャバ嬢時代の収入を知っている人の中には「もうお金かかる遊びできないんだ」って。引っ越したときに「夢のためにやっているんだよ」と言ったけど伝わらなかったことが多かったですね。
それでも応援してくれる友達がいたので、残ってくれた人を大切にしようと思いました。デビュー戦(5月5日東京・後楽園ホール)のとき、残った友達がみんな来てくれたんです。感激のあまり泣いちゃいました。
高木社長も丸藤さんも私が「プロレスラーになりたいんです」と言っても、笑わずに真剣に話を聞いてくれたんです。そして「頑張れ」と背中を押してくれて。お二人は私の大恩人です。
プロレスに挑戦してすぐの頃は、ガンプロの練習生って言えなかったので苦しかったですね。形になってるものがなかったので何も言えなかった。だからどん底のときに残ってくれた友達は、どんなことがあっても絶対大事にしていこうと思います。
■「親不孝者」と言われたけど、やっぱり家族に認められたい
ーーーデビュー戦を終えましたけど、どんなプロレスラーになっていきたいですか?
リアラ:私はスポーツ経験ないし、技術も足りない。諦めようと思ったことは100回ぐらいあって。だから気持ちだけでデビューできたと思います。これからは自分の武器である現役キャバ嬢というのを技や雰囲気にも活かして唯一無二のキャバ嬢レスラーになりたい。
それとガンプロ(ガンバレ☆プロレス)はすごくいい団体なので、名前を広める活動もやりたいです。もちろんプロレスは絶対頑張るんですけど、プロレスをSNSとかメディアに出て広げたい。子どもでも若い人でも、私を媒体にしてプロレスに興味を持ってほしいですね。キャバ嬢としてリアラを知ってくれた人が、一人でもプロレスの凄さ、楽しさを知ってもらいたい。
後は親にもプロレスを知ってもらいたいです。キャバ嬢になったとき「親不孝者」と言われて、プロレスラーになるときもお母さんからは「お父さんには絶対に言うな」と電話を切られました。やはり家族に理解してもらえないのは辛い…。だから色々なメディアに出て、お父さんやお母さんから「お前がテレビに出ているのを見たぞ」と言われるようになれたらと思います。
いつかお父さんとお母さんがリングサイドで見守っているところで試合ができたらいいですね。
取材&文:篁五郎