「統一教会問題」と「ホスト問題」の三つ目の共通点は、「蕩尽」だ。これは、フランスの思想家・作家で、サディズムの再評価や、[エロス-宗教-芸術]の根源的な還元を指摘したので知られるジョルジョ・バタイユ(一八九七-一九六二)のキーワードだ。



 バタイユという名も蕩尽という概念も、現在では、フランスの現代思想・文芸批評好きの限られた人にしか関心を持たれていないが、一九八〇年代には、経済人類学者の栗本慎一郎(一九四一~)のベストセラーになった『パンツをはいたサル』(一九八一)を通して、一般的にもかなり認知されていた。当時栗本は、受験地獄で追い込まれた青年が両親を金属バットで撲殺した事件など、不可解な事件や風潮を、経済人類学の理論を用いて、意外な角度から分析してみせていた。栗本の分析の道具立てとして、最も重要なのがバタイユの「蕩尽」論である。





 「蕩尽 consumation」というのは、無駄に、つまり自分にとって何の得にもならないやり方で、消費することである。マルクス主義を含む近代経済思想は、「経済」を「生産」を中心に考え、「消費 consumption」も、「生産 production」のサイクルの一部と考える傾向がある。衣食住のために「消費」することで、労働者自身の生存が可能になり、かつ、生殖=再生産(reproduction)によって子孫を増やし、新たな労働力を生み出すことが可能になる。



 二〇世紀に入って、レジャー、ファッション、スポーツ、ゲーム等の文化消費が資本主義発展の原動力になったと言われているが、それは従来と異なった形で、種類の商品(非物質的商品)の生産にすぎない。更に言えば、そうしたより快適に消費するためのサービスや、家事やケアまで商品化されるということは、私たちの生活全体が資本主義の生産体制に組み込まれたことを意味する。生活全体が資本主義的生産体制に組み込まれた社会では、生産と消費が一体化しており、各人は、生産(の可能性)を増大させるために消費するよう仕向けられている、と言える。



 バタイユによると、食物であれ、性行為の相手であれ、欲求の対象を手に入れると、すぐに消費する動物と違って、人間は将来の消費のために現在の欲求を抑えて、備蓄する。文明とは、欲求を一定の枠内に収め、効率的な生産機構を構築することで、備蓄を増やしていくシステムだ。「パンツを穿く」という行為は、自らの欲求を抑制するために身に付けていることの象徴である。

文明が発達するというのは、欲求充足の先延ばしによる蓄積傾向がどんどん強まっていく、ということだ。



 バタイユは、欲求の抑制による蓄積はどこかで限界が来て、抑えこまれてきた欲求が爆発する。爆発で社会全体が崩壊しないように、定期的なガス抜きが必要になると指摘する。それが、共同体を挙げて行われる各種の祝祭(カーニヴァル)だ。





 



 祝祭に際しては、普段は人々の目から隠されている「聖なるもの」が姿を現わすとされる。「聖なるもの」は、それに触れた人を驚愕させると同時に、強く惹きつけ、正気を失わせるので、畏怖され、通常は、一般の住民がアクセスできないところに封印されている。封印を解いて現れた「聖なるもの」に対し、人間や家畜など多くの犠牲が捧げられ、その偉大さを讃えるため貴重な財物が破壊される。「聖なるもの」に囚われた人々は、普段のあらゆる制約から外れ、狂乱状態に陥る。そこでは、いかなる利益ももたらさない、生産に繋がらない、純粋な「消費」が成される。それが、「蕩尽」だ。



 バタイユ=栗本によると、西欧近代社会は、全員が参加する本格的な祝祭を行わなくなり、そのため溜まった欲求を「蕩尽」することが少なくなり、人々は更なる蓄積のための生産へと駆り立てられ続け、無意識下に抑圧された欲求が増え続ける。それが急に噴出すると、金属バット殺人事件のような理解しにくい現象が起こる。

いくら受験勉強で追い込まれたからといって、どうして、自分を養ってくれる両親をいきなり殺してしまうのか。殺人犯になって人生を台無しにするより、入試に落ちて両親にひどく叱責されるほうがましではないのか? バタイユの理論に即して考えれば、今まで溜めてきたものを破壊して、解放されたいという「蕩尽」への欲求が、将来に配慮しようとする理性的思考による制止を振り切って、暴走してしまうから、ということになろう。



 近代化・分業化が進んだ社会で「蕩尽」のための主要な回路を提供するのが、宗教とエロティシズムと芸術である。この場合の「エロティシズム」というのは、単なる動物と同じ様な性行為ということではなく、性に関わる様々な想像や表象を含んでおり、人間特有の現象である。動物は、少なくとも現在知られている限り、性的妄想を抱くことはない。芸術は、一定の形式に即した創造活動なので、多くの人は出来上がったものを鑑賞するという間接的な形でしか参加できないが、宗教とエロティシズムは普通の人でも直接実行でき、分かりやすい形で「蕩尽」が行われることが多い。



 禁欲的なイメージのある宗教と、欲求を解放するイメージのあるエロティシズムは対極にあるように思えるが、バタイユは、神秘的な合一や恍惚状態の体験をする人が、しばしば自分の体験を、単なる神への愛というよりは、エロティックなニュアンスの強い言葉で表現したり、信仰の対象となる神が性器の姿をしていたり、神を慕う信仰者の表情がエロティックに見えるよう、絵画や彫刻に描かれることもあることを指摘している。宗教は一面では厳しく欲求を抑圧するが、別の面では、むしろ神や自然、天などに対する、あるいは信者相互でのエロティックな欲求を全開させる。



  



 個人に取りついて、いつの間にか合理性のたがから逸脱させてしまう宗教とエロティシズムは、恐怖を感じさせると同時に魅惑する「聖なるもの」から派生した、と言うことができる。エロティシズムと宗教が深いところで繋がっており、その繋がりがいくつもの有名な芸術作品が表現されていると言われても、さほど意外に思わない人も少なくないだろうが、バタイユは、そうした認識が広がるのに大きく貢献した思想家だ。



 自分が信仰する宗教のために、布教や修業をし、献金しても、何の見返りもない。本人たちは、自分たちの魂の救いとか霊的な上昇といった“見返り”があると言うけれど、労働してその対価を受け取る日常に埋没している人にとっては、無駄なことをしているとしか思えない。

物質的な利益が返って来ないのだから。



 風俗、特に、女性を非現実的な仕方でほめあげ、幻想的な気分にさせることで高額な料金を取るホストのような業態は、エロティシズムを最大限に利用していると言える。それによってホストが自分の本当の恋人になるわけではないと分かっているのに、どうしてエロティックな幻想のために高額の金を払うのか、欲求充足にはそれなりの相場があると考えている人間には理解しがたい。



 いずれも、生産体制の中にきちんと組み込まれて生活している人間にとっては、壮大な無駄な消費=「蕩尽」を行なっていながら、本人たちは――少なくとも、“被害者”になる前は――喜びを覚えているように見える。人間としてあり得ない行為である。バタイユであれば、生産体制を維持・拡張し、生き延びようとする合理的な思考、生産の成果を台無しにする非合理性への衝動の両面を備えているのが、人間だ、と言うだろう。合理性だけで発展し続けた社会などない。ソ連のような社会主義国家は、それを成し遂げようとした。バタイユはソ連が崩壊するずっと前に亡くなっているが、労働を厳重に管理して、無限の蓄積を可能にすることを試みるソ連のシステムが、個人が蕩尽する自由を許容する資本主義国家のそれよりも遥かに無理をしていることを指摘していた。



 無論、統一教会のようなやり方で、信者にリターンなしの奉仕を求める(=信者にとっての蕩尽)と同時に、メシアによる祝福によって真の家庭を築きたいという、ある意味エロティシズム的な欲求を掻き立てるのが、生産と蕩尽のバランスの取れた組み合わせと言えるのか、その存在が既存の社会にとってプラスになるのか、少なくとも、許容可能なのか、というのは別問題である。ちゃんと検証する必要がある。ホストについても同様である。

いずれの場合も、負の効果が、社会全体を崩壊させかねないほど大きくなっていく恐れがあるのなら、規制することは必要だ。しかし、今の日本の世論では、人間本性や社会・経済システムという観点からちゃんと検証されることなどなく、「こんなキモイものダメに決まっているだろ!」、と決め付けられている。



 



 社会の多数派の目から見て、無駄なお金の使い方をしているからといって、本人の意志に反しているとか、マインド・コントロールされているに違いない、と決め付けるのは、危険である。人間は自分が思っているほど、合理的に判断していない――統一教会信者やホスト・クラブの存在を非難している人たちもそうである。一定の「蕩尽」があるからこそ、社会が持続しているというバタイユ的な視点を全面的に受け入れろとは言わないが、考慮に入れるべきであろう。



 一昨年の夏に統一教会問題が浮上して以降、普段はワイルドを気取って、「何が無駄で、何が役に立つかなんて、いろいろやってみないと分からないし、結果的に無駄になってもいいじゃないか。無駄なことを思い切って実行できない、こせこせした人生なんて無味乾燥で、つまらない!」と言っていそうな人たちが、急にがちがちの合理主義者になってしまうのをしばしば見かけるようになった。「統一教会」とか「ホスト」とか、嫌われ者の話となると、「あんなことに無駄な金使うのは、人としておかしい!目を覚ませ!」と、説教ぽくなる。あなたたちそんなに合理主義者なのか、人間は自分の利益にならないことは一切やらないのか、幻想のために生きるのはそんなに許されないことなのか、と言いたくなる。





文:仲正昌樹

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