森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。
第10回 老人になっても社会人である
【転ばない老人になりたい】
この2週間は、年末年始だった。あえて敬称の奥様、スバル氏が、クッションを抱えたままウッドデッキへ出ようとして、足を踏み外し、捻挫で歩けなくなっていたが、1週間後には立てるようになり、どうにか移動できるようになった。外科へも行き、レントゲンを撮ってもらった。医者は、なにもいわなかったそうだ。薬も湿布も出ず、もう来なくても良い、といわれたとか。怪我から3週間経過し、犬の散歩に同行できるくらいには回復した。ようするに、大した怪我ではなかった奥様(あえて軽傷)である。
庭掃除の仕事も一段落し、工作の時間を充分に取れるようになった。工作室に毎日4、5時間は籠もって作業を続けている。
スバル氏ではないが、この歳になると、転んで怪我をする危険性が高まる。高齢者は、転びやすいし、骨折しやすい。しかも、そういった怪我が原因で体力が落ち、そのまま寝たきりになって亡くなる方も珍しくない。周囲の老人にこの例がとても多いから、とにかく転ばないようにしよう、そのためには、とにかくゆっくり動くことだ、と自分にいい聞かせている。
最近だと、箱を持って庭を歩いていて、切株につまづいて怪我をした。若いときの骨折は、地下鉄の階段で転んだからだった。もともと転びやすい人かもしれない。
僕がうっかり怪我をする理由は、はっきりしている。遠視だからだ。近いものを見ていない。いつも遠くを見ているせいで、手許足許が覚束ない。加えて、せっかちだから、つい慌てて動こうとする。気が早るのだ。そのわりにけっして俊敏な運動神経を持ち合わせていない。頭で考えるイメージにボディがついてこられない。このギャップが問題らしい。だから、頭がもう少しぼけて、回転が悪くなれば、釣り合いが取れるだろう、とだいぶまえから期待している。
考えてみると、二足歩行というのが、転びやすいデザインだ。ソフトに頼りすぎている。
【年寄りに向かない日常】
20年くらいまえから書いているから、40代で既に老人だった可能性もあるけれど、お菓子の包装が道具を使わないと開けられない、という問題。切り口があって、そこから破いても、期待したとおりに開かず、中身が上手く取り出せない。結局、ハサミかナイフが必要になってしまう。
僕の父は、自ら希望して老人ホームに入居した。個室でテレビも持ち込み、ソファに座ってゆったりとお菓子を食べながら寛ぐつもりだったのに、そのお菓子の封を開けるために必要な小さなハサミが、持込み禁止だった。そのため、いちいち職員を呼び、開けにきてもらわないといけない。近頃のお菓子は一口ずつ密封されているから面倒だ。そのうち食べるのが嫌になってしまう。お菓子のメーカは、この問題を把握しているのだろうか?
たとえば、ペットボトルのキャップを最初に開けるときなども、相当な握力が必要だ。そういうときはゴム手袋をはめてやりなさい、というデザインなのだろうか? 缶詰のプルキャップも、指が丈夫な人でないと開けられない。
もっと一般的なものだと、駅やお店でタッチパネルのモニタで、注文したり、選んだりしなければならないのが、老人には向いていない。理系の仕事をしていた人は逆に得意かもしれないけれど、それでも初めての場所だとストレスがかかる。まず、文字を読むようなメガネの用意がないから、表示が読めない。言葉を発する機械の場合、何を言っているのか聞き取れない。機械でなくてもほぼ同様で、店員が話す言葉が早口すぎてわからない。耳が遠いのに加えて、言葉の解釈能力も衰えているのだ。
僕はまだ大丈夫だが、80代、90代の先輩方からよく聞く話である。自分の趣味になると俄然言葉が溢れ出て、普通に会話ができるのに、ドライブスルーで注文できなかったりする。
僕が知る範囲では、男性の方が不具合が多い。これは、恥ずかしい思いができない、というプライドが災いしているためだろうか。
最近のニュースで多いのは、高齢ドライバの運転ミスによる事故。だが、運転ミスは、若者でも中年でも起こす。
人間にもっとしっかりとさせることは、無理だと思われる。極端な例では、運転中に突然意識を失う人もいる。そのとき車を自動的に停車させる装置がないのは、規制が遅れているとしか思えない。
ただ、もう一つの方向性が将来的には考えられる。それは、人間自体をもっと機械化するもので、肉体的障害に起因するミスを防止するための補助具を人の躰に入れることになるかもしれない。そうまでするよりも、人間はもう仕事をしないで、AIにすべて任せる方がよろしいのか?
【社会との折合いをつける】
昔の年寄りというのは、今の年寄りよりも「しかめっ面」で、子供たちをよく叱った。外で遊んでいる子供は、見知らぬ年寄りから、いろいろ注意を受けたものだ。今では、そういう光景は少なくなった。年寄りは皆にこにこと笑っている。
しかし、最近の年寄りたちは楽しみや夢を持ちつづけているのも事実で、人生を諦めているような人は少なくなった。新しい習い事を始めたり、毎日長時間歩き回り、また老人どうしで集まっては、歌ったり、スポーツをしたりしているらしい。そういう光景が目立つのは、老人の絶対数が増えたせいだろうか。
一方では、残り少ない人生を惰性で過ごすしかない年寄りもいる。今さら自分の生き方を変えられない、と首をふる。社会や環境が変化し、生きにくくなっていて、ときには危険にもなっているのに、もう少しの人生だからこのままやり過ごすしかない、と諦めている。まあ、そのとおりかもしれないし、もう少しだけでも踏ん張ってみても良いのでは、とも思えるし、どちらともいえない。
助言はない。人のいうことなど聞かない人たちには、自分の内から浮かび上がる方法しかない。説得は難しいだろう。しかし、古い建築物は耐震的に危険なのと同様に、運動神経の低下による運転ミスの確率が高くなるのも確実で、万が一のときに、助けられなくなり、周囲にも迷惑をかけてしまう結果を招く。老人の「これが俺の生き方だから、放っておいてくれ」という主張は、まっとうだし自然だけれど、社会との摩擦あるいは乖離は生じる。仕事からは卒業できても、社会からは卒業できない。山の中に籠もって自給自足する人以外、誰も一人では生きていけないのだから、そこそこの折合いを見つけるべきだろう。
歳を重ねると、そんな軟弱なことまで考えて、日々を生きていくことになる。自分の生き方であっても、人は宇宙の中にあり、自然の中にあり、社会の中にある。季節を愛でるように、社会もある程度は眺めつつ、楽しみ、ときどき文句をいっては溜息をつき、そして、できれば自分を少しずつでも変えていく努力を続けたいものだ。
文:森博嗣