前編(フォーリーブス、たのきん、少年隊、光GENJI・・・ジャニー喜多川の最高傑作を決めよう)では、ジャニーズ事務所が創業した1960年代から、第1期の黄金時代というべき80年代までを見た。



 光GENJIのあと、男闘呼組や忍者が続いたが、90年代前半には停滞状態となる。

91年にCDデビューしたSMAPは、歌番組の衰退もあって苦戦。しかし、バラエティー路線に活路を求めるうち、木村拓哉が役者としてブレイクを果たし、上昇気流に乗った。94年には「がんばりましょう」がヒットし、96年には「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)がスタート。以降の活躍については周知の通りだ。



 国民的グループとまで呼ばれた彼らは、ジャニーズの歴史のみならず、日本の芸能史上においても一、二を争うグループ。当然「最高傑作」の有力候補でもある。



 バラエティー路線に舵を切ったのはマネージャーだった飯島三智によるところが大とはいえ、ゴーサインはジャニーが出した。当時、筆者が取材した「夢がMORIMORI」(フジテレビ系)のプロデューサーは、ジャニーから、



「SMAPを平成のドリフターズにしたい」



 と言われていたという。この方向性がマルチな活動と老若男女からの支持を生み、アイドル全体の長寿化にもつながることに。名伯楽はやはり、素材と時代を見る目に長けていたわけだ。



 そんなSMAPと並ぶ、国民的グループが嵐だ。華々しいデビューのあと、やや失速した時期もあったが、2005年に松本潤が「花より男子」(TBS系)に出演したあたりから追い風に乗り、本格的にブレイク。

「NHK紅白歌合戦」では2010年からの10年間でじつに9回、グループもしくは個人で司会に起用された。SMAPと嵐が芸能界に君臨した20数年間は、第2期の、長い長い黄金時代といえる。



 また、キムタクという突出した人気者がいたり、森且行のような脱退メンバーがいたり、最終的には分裂して解散にいたったSMAPと違い、わりと横並び的で、メンバーが欠けることもなく、今なお存在しているという意味で、嵐のほうがグループとしては理想かもしれない。ちなみに、ジャニーはこんなことも口にしていたという。



「嵐がいちばん最後に気合を入れてメンバーを選んだグループなんだよ」



 実際、彼はキャリアを重ねるにつれ、デビュー組よりもジュニア(ジャニーズJr.)のプロデュースやマネジメントに力を入れるようになっていく。それゆえ、嵐のブレイクにおいても、SMAPにおける飯島三智同様、姪で二代目社長にもなった藤島ジュリー景子が果たした役割が大きかった。



 さらにいえば、80年代の第1期黄金時代に、事務所が巨大化。吉本興業が「笑いの総合商社」なら、ジャニーズは「男性アイドルの総合商社」というべき存在となる。ジャニーの手腕だけで売れる売れないが決まる状況ではなくなったわけだ。



 そんななか、例外的存在がいた。関西出身の二人組、KinKi Kidsである。





 ふたりは「ジャニーさんっ子」と呼ばれるほど可愛がられ、デビューしてからも愛情を注がれ続けた。

堂本剛は事務所的にあまりよしとされないソロ展開や作詞作曲活動をジャニーによって認められたし、堂本光一はジャニーが手がけたミュージカル「SHOCK」の主役に起用されたのみならず、その脚本や演出をアレンジすることを許され「Endless SHOCK」という新作を生み出して今も演じている。



 そもそも、堂本というそこそこ珍しい苗字のふたりが出会うこと自体、天の配剤というほかなく、またタイプも絶妙に好対照だ。子役経験があって、歌も芝居も天才肌だが、ちょっとやんちゃでこじらせているところが母性本能をくすぐる剛。王子様キャラでありながら、ストイックな努力家でもあり、仕事が恋人みたいな生き方を貫きそうな光一。このコンビはデビュー前から絶大な人気を集め、全レコード会社による争奪戦となったが、事務所はわざわざ自前のレコード会社「ジャニーズ・エンタテイメント」を作り、そこからデビューさせた。そのおかげで、ジャニーズが培ってきた音楽的美学が濃厚に含まれた作品が数多く生まれ、それは今も続くシングル連続1位獲得記録などの成果にもあらわれている。



 個人的には、KinKi Kidsこそジャニー後期の最高傑作として推したい気持ちだ。



 90年代には他に、TOKIOやⅤ6も登場。前者はバンドスタイルの音楽と職人的スタンスのバラエティーで長く親しまれている。後者については年長組と年少組の組み合わせが、光GENJI以上にうまくハマり、四半世紀以上も同じ6人での活動をやりきった。



 しかし、2000年代あたりから、綻びのようなものが見え始める。NEWSや関ジャニ∞、KAT―TUNはそれぞれ、新たなコンセプトで人気を集め、実績をあげたが、わりと早い段階で脱退するメンバーが出るなど、グループとしてのバランスにやや欠ける印象を抱かせた。



 特に、NEWSはデビュー時の9人から3人にまで減少。残ったひとりの小山慶一郎が、



「『○○のゆかいな仲間たち』の“ゆかいな仲間”だけしか残ってない」



 と自虐したこともある。この「○○」は当時のジュニアで一番人気だった山Pこと山下智久を指すわけだが、このグループは当初、山下を売り出すための1作限定プランで組まれたという。そこから本格デビューに切り替わったことが、メンバーたちの混乱を招いたのだろうか。





 ちなみに、嵐が結成される時点でのジュニアのエースは滝沢秀明だった。メディアが滝沢中心のグループになると予想するなか、ジャニーはあえて彼を外すという選択をする。「8時だJ」(テレビ朝日系)という冠番組を持つなど、史上最高潮だったジュニアのブームを維持するために滝沢を残したとされるが、結果として嵐のバランス感、ひいてはチームワークのよさにもつながった。



 一方、滝沢は嵐の3年後、タッキー&翼としてデビュー。ただ、ジュニアブームがすでに退潮し始めていたこともあって、大成功とはいかなかった。滝沢はのちに、ジャニーの仕事を受け継ぐとして引退、事務所の幹部になったあと、裏切りともとれるようなかたちで独立してしまう。そこには、アイドルとしてやや不完全燃焼に終わったことによる、事務所への複雑な感情も影響していたのではないか。



 なんにせよ、滝沢や山下、さらには赤西仁といった逸材を活かしきれなかったという印象は否めず、SMAPや嵐のような国民的グループは誕生しなかった。

そのあたりをジャニー自身の感覚や気力の衰えと結びつけることも可能だが、そもそも、三匹目のどじょうはいないというか、あり得なかったともいえる。女性アイドルに目を向けても、モーニング娘。からAKB48、そして乃木坂46へと移ろっていき、国民的グループはひと時代にひとつという流れが続いている。国民的グループが並立、それも同じ事務所にいるという状況がもう奇跡だったのだ。



 そういう意味で嵐が本格ブレイクを遂げた以降にデビューしたグループ、Hey! Say! JUMPやKis-My-Ft2、Sexy Zone、ジャニーズWESTなどには最初から超えようのない壁が存在していたのだろう。



 とはいえ、SMAPは16年に解散。嵐もその4年後に活動を休止した。そのあいだの18年にデビューしたKing & Princeには、一気に国民的グループへと駆け上がる可能性もあったように思う。



 それこそ、デビュー曲「シンデレラガール」は「花のち晴れ~花男 Next Season~」(TBS系)の主題歌。このドラマは「花より男子」の続編であり、エース的存在の平野紫耀がヒロインの相手役を務めるなど、嵐ブレイクの再現が期待できそうな順調な船出だった。



 が、数か月後には岩橋玄樹が病気で休養するという事態となり、21年に脱退。22年には、平野を含めた3人が脱退して、現在は二人組での活動だ。



 ジャニーが最後にデビューさせ、タイミング的にもポテンシャル的にもかなり上を狙えそうだったキンプリの分裂は、今思えばその後のジャニーズ危機の予兆だった気もする。せめてもの慰めは、19年に死去した名伯楽がその分裂を見ずに済んだことだが、生きていれば分裂はなかったかもしれず、また、疑惑に反論したり、メディアを訴訟したりもできただろう。いろいろな意味で残念だ。





 そんなわけで、2回に分けて書き綴ってきたこのテーマもそろそろ最終盤。前期の光GENJIも後期のKinKi Kidsも甲乙つけがたいので、この二組をジャニーの二大最高傑作と呼ぶことにする。



 もちろん、異論もあるだろうし、そもそも、自分の推しこそが最高というのが、エンタメ鑑賞の基本精神だ。筆者もじつは、ひかる一平あたりを「影の最高傑作」として推したい気分でもある。



 それくらい、ジャニーの送り出したアイドルは質量ともに豊富で、その作り出した世界は独特な魅力に満ちあふれている。彼が去り、社名が消えた今も、その魅力はさまざまなかたちで受け継がれており、ファンが離れることはないだろう。



 最後は感謝とエールをこめて、この言葉で締めくくりたい。



「Show must go on(ショーは何があろうと続けなければならない)」



 昨年、騒動の渦中に木村拓哉がSNSで紹介したことでも話題になった、ジャニー喜多川の座右の銘だ。ジャニーズアイドルのショーはこれからも続いていく。





文:宝泉薫(作家、芸能評論家)



 

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