早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【AV作品としての「渡辺まお」について】
春に向けて浮き足立つ空気感とは裏腹に、空からは冷たい雨がしとしとと降り続いている。ちょうどあの日もこんな雨が降り注いできて、身体の芯まで凍えさせた。偶然とは恐ろしいものだなと思いながら、ぼんやりととあることについて考え続ける。
静かな海で、これから先起こる全てを知らずにただ無邪気に笑っている。
今日は誰も知らない、私だけしか知らないあの子の誕生日だ。
日付とは恐ろしいもので、その数字の羅列を見ただけでその日にあった出来事がはっきりと蘇ってしまう。一年の中でそういった日がいくつかある。私にとって節目の日であったり、忘れられないような出来事が起きた日であったりと様々だが、大抵は年数が経てば経つほど思いだすことは少なくなっていく。
少し前にとあるメッセージが私の元に届いた。複数行にわたってエッセイに対する感想や前職の頃から応援し続けてくれたことが丁寧な言葉で綴られており、最後は私に問いかけを残す形で締め括られていた。
「できれば、これからの神野さんとの向き合い方について、教えていただけると嬉しいです」
このエッセイを連載し始めて数ヶ月経過したぐらいから「これを読んでから作品を見なくなりました」といった言葉や「作品を見ていたのが申し訳なくなる」といった言葉を貰うことが多くなった。そういった内容が届くたびにいつも「好きなようにして良いのに」と思ってしまう。この世界に作品を産み落とした以上いつどこで誰が見ていても構わないし、作品を好きになるのも嫌いになるのも、見るのも見なくなるのも個人の自由だ。
ただ一つ言えるのは、今の私にとってあの頃についてや作品について触れられたところで、何の感情も湧かないということだ。確かにあの頃は己の全てを尽くしていたため、本数が売れることや作品を褒められることが何よりも嬉しかった。あの世界で長く生き残っていくためには、作品も見てもらうことが第一で、そのためならば性的好奇心を誘うような発言や写真を掲載することへも躊躇いがなかった。
【〈渡辺まお〉としての人格はもはや存在していない】
しかしながら、作品の中の〈渡辺まお〉は2年前に完結していて、今の私の人生の中に〈渡辺まお〉であった2年間は確かに存在しているが、彼女としての人格はもう消え去った。それゆえに、同じように扱われたり、同じような振る舞いを期待されても困ってしまうのだ。今の私も過去について振り返ることや、それについて考えを深めることはするが、それは〈渡辺まお〉としてではなく、今の〈私ー神野藍〉としてである。
正直な話、昔の私を支えてくれた方々には感謝をしているが、何も理解せずに今も同じような期待を寄せられるのならば離れてくれて構わないと思っている。なぜなら、今の私の成し遂げたいのは、誰かの性的好奇心を煽る存在でいることはなくて、もっと別のものへと変化しているからだ。だからこそ、私は過去に囚われずに好きなことをやるし、何かに忖度せずに好きなものに好きと言い、嫌いなものは嫌いという。もう、ただの都合よく誰かの欲望を映し出すだけの存在には戻りたくないし、戻らないと誓っている。
最近、自分の過去についてー自分がAV女優であったことについて思い悩む瞬間が少なくなった。私の中に刻まれている暗い記憶が不意にフラッシュバックすることも徐々に減り、辞めてからも続いていた定期的な発作もあまり起きなくなった。月日が経ったことで一つ一つが新しい記憶で塗り替えられ始めている。
もちろん前回綴ったように考え続けなければいけないことや、向き合わなければいけないことは抱えているが、自らの力、そしてこれまでに出会ってきた人たちのおかげで、自らに巻きつけた鎖は少しずつ外せるようになってきているのだ。
彼女は私の半身だった。ただ彼女はいつの間にか私と別れ、彼女が埋めていた半分の部分は違うもので満たされている。彼女はあの時間からー映像の中で笑ったまま何一つ変わらないが、私はそうではない。一つ一つ選択してきたものに意味を持たせながら、少しずつ前へと進んでいく。
これで4年。私のために生まれてきてくれて、私と同じ時を過ごしてくれて、心の底から感謝している。また来年も同じように思い出すのだろうか。その頃にはもっと変わった私を見せられればと願うのだ。
(第42回へつづく)
文:神野藍
※毎週金曜日、午前8時に配信予定