暴走専務・諏訪魔のプロレス哲学と原点回帰 いつまでも「真っ直...の画像はこちら >>



 



 レスリングからプロレスに転向するレスラーは数多く存在する。古くはマサ斎藤から始まり、長州力、現石川県知事の馳浩、バルセロナオリンピック出場の中西学、総合格闘技にも出場経験がある永田裕志もレスリング出身だ。



 そして忘れてならないのがジャンボ鶴田である。鶴田は中央大学進学後にレスリングを始めて、オリンピック出場を成し遂げた伝説のプロレスラー。全日本プロレスへ入団後はエースとして活躍した。



 その系譜を継いだのが今回インタビューした諏訪魔である。



 彼も、鶴田と同じ中央大学レスリング部で鍛え上げられ、レスリングの世界で活躍してからプロレスラーの道を歩み始めた。現在もファンから「全日本プロレス強さの象徴」と言われている。専務執行役員としても辣腕をふるっている諏訪魔に、プロレスラーになる前の歩みやプロレスラーとしての心境を聞いてみた。





◾️自分に向いていることと向いていないことを悟った少年時代



 諏訪魔は、昭和51年に神奈川県藤沢市に生まれ、少年時代は野球に夢中の子どもだった。父がプロレスファンだった影響もあり、幼い諏訪間幸平もプロレス中継を熱心に見ていたという。今で言う推しはジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディであった。



 「当時は全日本プロレスだけじゃなくて新日本プロレスも生中継していたから見てましたよ。猪木さん、藤波さん、長州さんはすごいなと思ってました」





暴走専務・諏訪魔のプロレス哲学と原点回帰 いつまでも「真っ直ぐ」「がむしゃら」に生きる【篁五郎】
写真:全日本プロレス提供



 中学校へ進んだ幸平少年は2年生になると柔道を始める。

この出会いが彼をプロレスへ導く第一歩となった。



「柔道を始めたら先にやっている奴より、俺の方が強くなったんです。野球は小学校1年から中学に入ってからもずっとやっているのに、レギュラーが取れない。でも柔道はあっという間に強くなったんですよ。その時俺は球技に向いてない。柔道を頑張ろうと思いましたね」



 高校へ進学した諏訪魔は柔道部に在籍しながらレスリング大会でインターハイに出場するほど格闘センスの高さを見せる。卒業後は中央大学へ進学し、レスリング部へ入部。本格的にレスリングの世界へと飛び込んだ。



「レスリングの練習ってすごい厳しいんです。練習時間は柔道のほうが長いですよ。一日5時間くらいやりますからね。レスリングは2時間とか2時間半で終わるんだけど、肉体的にすごい追い込まれるんですよ。

基礎練習とか地味だけどつらい。めっちゃ走らされるし、もう全身酸欠になって、もう立てねえぐらいにならなきゃいけない。追い込むことが目的みたいな感じ。



 レスリングって試合時間が6分しかないけど、その6分間ですごくスタミナを消費するんです。だから追い込まれてからでも動けるように鍛えられるんですよ。それはもうきつかった。でもおかげですごい弱い自分と向き合うことができたのかな」



 厳しい環境の中で鍛えられた諏訪魔は全日本レスリング選手権3位に輝く。卒業後はクリナップ(株)に就職してレスリングを続けた。社会人になってからは2002年に高知国体、全日本選抜レスリング選手権でダブル優勝。2003年はアジア選手権、世界選手権に出場するなど活躍をしてきたが、感じたのは「世界との差」だという。



「なんていうのかな。外国人と日本人にすごい差を感じたんです。

力の根本が違うんです。でも、まだやったらいけるんじゃないかなと思っていたのもあるし、経験すれば(オリンピックに)間に合ったんじゃねえかなと思います」



 2004年に開催されたアテネ五輪への出場を目指していた諏訪魔。しかし自分の階級の出場枠が無くなったことで道が絶たれてしまった。



暴走専務・諏訪魔のプロレス哲学と原点回帰 いつまでも「真っ直ぐ」「がむしゃら」に生きる【篁五郎】
写真:全日本プロレス提供



◾️「思ったよりも成長してねえな」の一言で路線変更



 2004年に馳浩(現・石川県知事)のスカウトで全日本プロレスに入団。レスリングで実績を持つ諏訪魔のプロレス挑戦はプロレスマスコミに大きく取り上げられた。全日本プロレスでは秋山準(現DDTプロレス)以来、大物ルーキー入団となり、プロレス界は明るい話題に包まれていた。



「入門したときのコーチはカズ・ハヤシ(引退)さんだったんです。肉体的に追い込まれるのは承知の上で入ってきたんで、何とかなりましたけど受け身は衝撃的でしたね。だって格闘技で受け身を取るってないじゃないですか。人間が後ろに倒れる時って、怪我する時とか、危ない時ですよね。そこで肘と手ついたりとか変な倒れ方をしちゃう。そっちの方が危ないから受け身を取るように練習するんですけど、柔道の受け身とも違うから慣れるまで大変でした」



 今までとは違う練習に苦労しながらも入門して半年後の2004年10月、馳浩戦で本名の諏訪間幸平としてデビューした。

全日本プロレス側の期待も大きく、ジャンボ鶴田や田上明、小橋建太といったトップレスラーが経験した「試練の7番勝負」(鶴田は10番勝負)が課せられた。会見に同席した取締役(当時)の渕正信(※1)も「楽しみ」と語るほど。



 初戦は皇帝戦士と呼ばれたベイダーと対戦。204kgもあるベイダーをジャーマンスープレックスでぶん投げるという凄さを見せつけ、早くも将来性の高さを感じさせる。師匠でもある武藤敬司とタッグを組んで世界タッグへ挑戦するほど可能性を感じさせる存在でもあった。



 その後も、トップどころとの対戦が続く試練の7番勝負の5番目で終わってしまう。なぜなら諏訪間幸平は当時全日本プロレスでヒールとして暴れまわっていたユニット「VOODOO-MURDERS(ブードゥー-マーダーズ)」へ加入を果たし、ヒールへと転向したからだ。リングネームも本名から「諏訪魔」と変えて、何でもありの軍団で暴れに暴れまわる。この時から諏訪魔についてきた異名は「暴走戦士」である。



「あの時にブードゥーに入ったのは、何としても爪痕を残したいって気持ちが強かったんです。当時は武藤(敬司)さん、小島聡(※2)さんとかがトップにいたんですけど、早く上になりたいって思ってましたね。焦ってはなかったけど『ワープしたい』って感じですかね」



 当時の諏訪魔は26歳。

高校大学を卒業してすぐに入門しているレスラーは、ほとんどが若手レスラーを卒業してトップへ食い込むために切磋琢磨している頃だ。しかし社会人を経て入門した諏訪魔はまだルーキーである。同期入門のレスラーも10代、20代前半ばかりだったのを見れば「早くトップへ」という思いが芽生えるのも当然だろう。そのためにヒールを選び、全日本プロレスのトップレスラーと対戦する道を進むことで「ワープ」を実現させる。



「でも、ヒールになろうと思ったのはトップレスラーになりたいってだけじゃないんです。あれは入門して1年くらいかな。武藤さんから『成長止まってんな』みたいな感じのことを言われたんですよ。こっちは毎日毎日一生懸命試合しているのに『なんでそんなこと言うんだろう』と考えて、余計に早くトップに行きたいって思ったんですよ」



 当時の諏訪魔はファンやプロレスマスコミからも「次世代の新星」としてみなされ、期待も集めていた。全日本プロレスの社長だった武藤も同じ思いであっただろう。その武藤から『成長止まっているな』と言われれば、考えるのは当たり前である。



「あの時はわからなかったけど、今ならわかります」



 そう語る諏訪魔にヒール転向して良かったかどうか聞いてみた。



「良かったですよ。

プロレスの見方が全部変わりました。ヒールって お客さんのことを手玉に取るし、緻密に計算されたプロレスをするんですよ。横で見てて『すげえな』と思いながらやっていて、色々と学びましたね。今でも自分の土台になっています。だからブードゥーを抜けてもリングネームは『諏訪魔』のまんまなんです」





※1 渕正信:1974年に全日本プロレスへ入門。全日本プロレスが分裂しても残り続けた団体生え抜きの人物。2024年にレスラー生活50周年を迎えた



※2 小島聡:1991年にサラリーマン生活を経て新日本プロレスへ入門。2002年に全日本プロレスへ移籍し、三冠ヘビー級王座とIWGPヘビーを同時に保持した唯一のレスラーである





◾️全日本プロレスを離脱した師匠・武藤敬司についていかなった理由



 ヒールレスラーとしてトップへと駆け上がっていった諏訪魔は、2008年に「VOODOO-MURDERS(ブードゥー-マーダーズ)」を離脱。同年に開かれた全日本プロレス「春の祭典」と呼ばれる「チャンピオンカーニバル」で初優勝。その勢いを駆って三冠ヘビー級王座にも輝く。デビューから3年5カ月で全日本プロレスの頂点へと上り詰めた。



 その後は全日本プロレスのトップとして武藤や小島以外のレスラーとも激闘を繰り広げる。



「あの当時ガンガンやり合った選手からも色々と学びました。一番インパクトに残っているのは佐々木健介さん。毎試合ボコボコにされて、顎の骨も折られて。そんな感じで厳しくしていただいた。それでも気持ちを前に、気持ちを折れずに戦っていかなきゃいけないってことを学ばせていただきました。川田さんもそう。デビュー当時は雲の上の人でしたから視界にも入ってなかったでしょうけど、頭がパンってなっちゃうくらいのもらってました」



 名実ともに全日本プロレスのトップに立った諏訪魔に大きな試練が訪れた。



 師匠・武藤が連れてきた起業家・白石伸生氏が、全日本プロレスの株を全部取得してオーナーに就任してから風景が変わったからだ。彼は選手に資金面でバックアップすると宣言するも、個別に課題を与え「フリーの選手もちゃんとプロレスができない選手は契約を更新しない」と断言する「物言うオーナー」であった。発言も過激で、業界トップの新日本プロレスに「1年で追いつく」と宣戦布告。その結果として、当時友好的であった新日本プロレスとの関係にもヒビが入り、業界からも批判的な声が飛ぶ。しかも白石氏を全日本に連れてきた武藤とも対立するようになった。



 2013年に社長を務めていた内田雅之氏が退任し、白石氏が新社長に就任すると取締役会長だった武藤が全日本プロレスを退団。武藤を慕う多くの所属選手が後を追って退団し、全日本プロレスが分裂する騒ぎへと発展した。



 騒動の最中に注目されたのが諏訪魔の動向である。諏訪魔は武藤敬司に育てられたレスラーであり、当時も全日本プロレスのエースであった。彼が武藤に付いていけば、全日本プロレスは潰れると言われていたが、いち早く残留を表明。武藤体制最後の大会ではメインイベントを務め、見事勝利を飾った。試合後には以下のようなコメントを残している。



「もうできる限りのことをみんなでやるしかない。俺一人で頑張ったってタカが知れてますからね。この三冠のベルトはみんなのものだと思っているし、まずはお客さまとの、ファンとの信頼関係ですね。それをもう一回築く。そこからスタートしたいです。またもう一回『明るく、楽しく、激しく』。原点回帰じゃないですけれど。時代を戻すことは嫌いですけれど、でももう一回見直してから、次の1歩を踏み出してもいいんじゃないかと思います」



 どうして諏訪魔は全日本プロレスへ残留をしたのだろうか。



「全日本プロレスっていうのが大好きだったんですよ。やっぱり小さい頃から見ていたじゃないですか。でも、武藤さんにも育ててもらった恩もあるんですよ。色んなプロレス哲学とかを学んだ恩師ですからね。すっごい悩みましたけど、自分の好きなところでやりたいなって思って残留しました」



 全日本プロレスが好きだから残った。



 真っすぐに進んできた諏訪魔らしい理由である。大好きな場所でプロレスをやりたいからこそ、諏訪魔は変わった。全日本プロレスを残していくためにどうしたらいいのかという目線に変わったという。



「一選手だったら見えなかったものが見えてくるようになりましたね。プロレスってリング以外でも色んな人が関わっているじゃないですか。広報もそうだし、色々役割があって、彼らのやっていることが理解できたっていうところは大きいですね」



 リング上のファイトは変わったのだろうか。



「そこは全然変わらないです(笑)。一時期確実なプロレスをちょっとやってみようかなと思った時期もあったけど、それじゃ面白くねえんですよね。お客さんに伝わんねえし。結局エキサイトしてる方がお客さん喜ぶから今までのままです」



 全日本プロレスは。2014年に秋山準が社長に就任し、諏訪魔も専務取締役となる新体制を発足。諏訪魔は約1年で専務を辞任するも“暴走専務”と呼ばれ、リング内外で活躍をしてきた。武藤時代よりも会社の規模は小さくなり、所属選手も少なくなっていたが不安はなかったのだろうか。



「本当になんとかなるだろうという一心だけだったんですよね。何も知らないクソガキが」



 コロナ禍真っ只中の2021年に再び専務執行役員に就任し、リングとフロントとの架け橋となった諏訪魔は、再び全日本プロレスの復活へ向け、暴走専務として走り回っている。これからの全日本プロレスのリング上について話を聞いてみた。



「毎日必死にやってます。来てくれたお客さんを少しでも喜ばせるような戦いを見せられるように真っ直ぐやるしかないですよ」



暴走専務・諏訪魔のプロレス哲学と原点回帰 いつまでも「真っ直ぐ」「がむしゃら」に生きる【篁五郎】
写真:全日本プロレス提供



◾️暴走専務のもう一つの顔「保護司」、そして父親



 リング上では暴走ファイトを見せる諏訪魔にはもう一つの顔がある。それは「保護司」の活動をしている姿だ。現役のプロレスラーが別の顔を持つのは珍しくない。しかし保護司をしているのは諏訪魔だけだろう。



「きっかけは俺の後援会である「諏訪魔會」の会長さんが藤沢市の保護司会の会長をしていたからです。その人に誘われて、最初は「保護司って何だろう?って、そこからのスタートです。色々話を聞いて、それで俺にできることあるかなと思って始めたんです」



 保護司とは犯罪や非行をした人の更生のために、現在も数人の対象者と面会を行っている人たちのことを言う。報酬はなし。完全ボランティアで行っている。諏訪魔は、忙しい合間を縫って犯罪や非行をした人を社会復帰させ、地域の犯罪や非行の予防を図る活動を続けている。



「自分が担当している人は若い人が多いんです。だから若者の考え方を知ることができたのは自分でも良かったなと思います。本当に普通の若い子なんですよ。たまたま過ちを犯してしまっただけで。俺もプロレスやってきて多少過ちはあるんですよ。マイク投げちゃったりとか、相手を怪我させちゃったりとか。それってすごく辛いと思うんですよ。やられる方はもちろんですけど、やる方も辛い。でも、(犯罪をしてしまった)きっかけは絶対にあるだろうしね」



 保護司としても地元藤沢を中心に活動を続けており、2023年2月には横浜刑務所主催の「横浜みなとみらい矯正展」でトークイベントを開催。プロレスラーとしての生い立ちや保護司の活動を説明した。イベントでは、再犯防止推進活動に尽力したことが評価され、感謝状を贈呈されるほど熱心に取り組んでいる。



 保護司といえば、2024年5月に滋賀県で担当していた保護観察中の男に殺害される事件が起き、思わぬ形で世間の注目を浴びた。ボランティアなのでなり手も少ないそうだ。40代の諏訪魔が若手の部類に入るほど高齢化しているという。



「俺が保護司で面倒見てる若い人は、今でも頑張ってるんですよ。彼らの姿とか見てるとやっぱり刺激になりますし、俺自身もすごく嬉しい。たまに連絡くれることもありますから『彼も頑張っているんだな。俺も頑張ろう』と思いますよね。これからも保護司として対象者に寄り添っていきたいですね」



 諏訪魔のもう一つの顔が父親としての顔だ。長男は筑波大学サッカー部に所属し、来年J1リーグの横浜Fマリノスに入団が内定している諏訪間幸成だ。2022年に世代別代表にも選出され、23年3月にウズベキスタンで行われたU-20アジア杯に出場。186cm、85kgと父親譲りの体格を駆使した、対人プレーの強さが武器だ。息子の教育について父として何かアドバイスはしたのだろうか。



「俺はサッカーやってないから何も口出ししてないです。ただ、俺自身もそうだったけど色々とやらせてもらったから『やりたいことやれよ』とは言っています。やっぱり人って、向き不向きがあるんで。俺は小学校の時から野球やっていたけどレギュラー取れなかった。でも柔道やったら半年とか1年位でどんどん強くなっていったから、色んなことをやらせてみるのがいいんじゃないですか。色々やってみて、向いてるものを見つけて、それが好きなものなのかどうか。好きになれるかどうか。あとはもう一生懸命やり続ける。やり続けた奴が勝つんじゃないのっていう感じですよ」



 最後に同年代である氷河期世代へ向けてのメッセージを聞いてみた。



「多分非正規雇用が多かったりとか、いろいろ就職だったりとかで、大変な目に遭ってる人も多いと思うんですけど、これからはエンターテインメントの需要が高まり、楽しい時代が来ると思いますので一緒に楽しんでいきましょう!」



 リング上での暴走ファイトとは全く違い、一つひとつの質問に言葉を選びながら応えてくれたのが印象的であった。現在のタッグパートナー・鈴木秀樹選手からいつもSNSや記者会見で「バカ」と言われたり、女子プロレスラーからビンタされたりしているが、意に介さない器の大きさも魅力の一つである。特にインタビューで印象的だったのは次の言葉である。



「俺はいつもド直球に真っ直ぐにしか物事を進められないんですよ。だから『バカ』って言われるのかな」そう言いながら笑う諏訪魔の笑顔は素朴で優しさに満ち溢れていた。





文:篁五郎



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