7月の都知事選で小池百合子が三選を果たした。学歴詐称が疑われる「カイロ大学卒業」も選挙公報に堂々と記し、押し切った形だ。
■中曽根-ハーテムによる「コネ留学」を小池は公認
いくら"入学から卒業"までの違法性・無効性について証跡を提示しようが、認めるはずがないと考える読者がほとんどだろう。しかし、現実はそうでもない。
もともと、コネ留学を明かしたアフバール紙記事(※編集部注:1992年7月9日付、政府報道機関による記事。当時のエジプトナンバー2の権力者であるハーテムが小池をカイロ大学に入学させたこと、ハーテムに小池を紹介したのが中曽根康弘元首相である、といった事実が明らかになった)の写しを発見したのは、小池の記事の中である。
掲載元は日本アラブ協会の機関誌『季刊アラブ』62号(1992年9月)。「小池百合子日本アラブ協会顧問インタビュー 私、参院議員になりました」と題するもので、小池が国会議員になりたての頃、取材に答えたものだ。
写しのキャプションには「小池さんの参院立候補を報じたエジプトの新聞アル・アクバル」とある。
アラビア語新聞の写しを記事に載せたのが『季刊アラブ』編集部なのか小池本人なのかは分からないが、発行前に当然、原稿確認をしているはずである。
それ以前に、小池は当時『季刊アラブ』編集長兼発行人であり、日本アラブ協会の事務局長や顧問を歴任する発行元の重鎮である。
当該「1992年7月9日付アフバール紙記事」は本人ならびに協会公認の内容と結論付けて、差支えないだろう。
ただ、不可解なのは、小池が世に知られたくない事実を綴った記事をわざわざ掲載した点だ。
10代にして女一人でエジプトに渡り、誰にも頼らず、苦学の末、カイロ大学に入り、"首席"で卒業したのが彼女のサクセスストーリーの原点である。そのすべてが日本の首相とエジプトの副首相のコネであった事実が明るみになれば、輝かしい経歴は崩壊する。しかも、国会議員として当選したばかりの前途洋々のタイミングである。
それでも掲載した理由として、考えられるのは何か。
■日本アラブ協会の重鎮たちが小池を支援
"新聞記事のアラビア語が読めていなかった"とすれば、腑に落ちる。
記事のキャプション「小池さんの参院立候補を報じたエジプトの新聞」からして間違っている。実際は、日本新党結党について書かれているだけで、参院にも立候補には触れられていない。編集部が書いたものだとしても、小池はゲラ確認時、その誤りに気づけなかったということだ。
これぐらいの平易なアラビア語の新聞記事が読めなければ、大学の専門的なテキストなど読解できるはずもなく、まして、試験の答案やレポートは絶対書けない。カイロ大学を正規に卒業するのは不可能である。
語学面、カイロ大学のルール面から"卒業が正規かどうか"の検証は、「第5章 "首席"卒業の噓をカイロ大学則から完全証明」「第6章 社会学科シラバスから解く100%不可能な卒業」を参照いただきたい。
一方、アラビア語で記事の内容が理解できた上で、掲載許可した可能性もある。日本人の読者で読める人はいないだろうと高を括っていたとしたら、ありえない話ではない。
その場合、小池公認の発表だという結論になり、中曽根─ハーテムの関係による「コネ留学=違法入学=卒業資格なし=学歴詐称」を認めたことになる。
そこまで分析しなくても、もっと容易に答えはでる。
機関誌『季刊アラブ』の発行元は日本アラブ協会である。中曽根は協会の発起人の一人で、顧問を務めていた。
記事にエジプト日本友好協会会長として登場するハーテムの方はといえば、日本アラブ協会の最高顧問、名誉会長を歴任していた。
協会のトップ中谷会長は「当協会とハーテム博士との因縁まことに浅からぬものがある」として、ハーテムを名誉会長に推挙したことを機関誌に書き残している。
加えて、小池の父・勇次郎は日本アラブ協会の理事を務めていた。
要するに、日本アラブ協会の重鎮たちが小池のカイロ大学留学を支援・監督していたのだ。機関誌に掲載されたアラビア語記事はその事実を公認したものにすぎない。
■ハーテムの懐に小池を送り込んだ中曽根
小池の「私の原点」と題する記事(『季刊アラブ』54号、1989年)を読めば、エジプト留学が協会の派遣事業であった様子もうかがえる。
1971年9月のカイロ出発時に小池は、「アラブ協会中谷武世会長に見送られ」、「カイロ大学を卒業して、(中略)帰国後はアラブ協会でのアラビア語講師」「大協石油のアラブ要員」(注:同社会長は協会の6代会長)となり、「協会名誉顧問であるエジプトのハーテムとは現在に至るまで文字どおり家族的付き合いを続けている」と語っている。
中谷会長はハーテムの盟友だった。国賓級の待遇でハーテムから幾度となく、エジプトに招待され、日本のエジプト向けODA(政府開発援助)開始や増額に貢献した人物である。その"功績"から大統領最高勲章も授与されている。小池はその中谷を"師父"と仰ぎ、「中谷会長の遺産を引継ぐ」と『季刊アラブ』で述べている。
ここからアフバール紙記事に登場する3人─小池、中曽根元首相、ハーテム元副首相の相互関係について確認しておこう。
中曽根とハーテムの親交が始まったのはハーテムの伝記『アブドゥル・カーデル・ハーテム回想録─10月戦争政府の首班』によれば、1954年である。
筆者が確認できた中曽根が最初にエジプト訪問した記録は1957年で、ナセル大統領と面会している(『日本とアラブ 日本アラブ交流史』1983年)。ハーテムは当時、ナセル大統領筆頭補佐官であった。
この訪問に中曽根を誘ったのが"小池の師父"中谷だ。
中曽根─中谷─ナセル会談の翌年、日本アラブ協会が創設される。その背景は『季刊アラブ』(23号、1974年11月)に記されている。
《日本とエジプト間の友好関係増進の必要を強調されたナセル大統領の要請に応じて、(中略)1958年9月に日本の政財界及び学界の有力者達と共に、日本アラブ協会を創立した》(カーレック・エジプト共和国大使)
ハーテムの日本アラブ協会名誉会長就任レセプションでは、来賓を代表して中曽根(当時通産大臣)はこう語っている。
《ハーテム博士が日本アラブ協会の名誉会長に就任されたことは、日本としては最も有能なる日本の全権大使がアラブの中心地カイロに駐在してもらっているのと同じだ》
日本のアラブ外交に資する人物として、ハーテムに全幅の信頼を置いていたことがわかる。その彼の懐に小池を送り込んだというわけだ。
■ハーテムが日本に望んだ見返りとは
実際、《小池はハーテム氏に面倒をみてもらい、カイロでの留学中のかなりの期間、ハーテム家で子供たちと一緒に住んでいた》(「アハラーム紙」2011年9月3日)
《ハーテム情報相(当時)の支援を受けて、小池はエジプトに何年も滞在し、アラビア語と英語を学んだ。彼女と東京やカイロで何度か会った際に語ってくれたように、ハーテムは小池を我が子同然に考えていた》(「アハラーム紙」2016年8月3日)
見返りにハーテムは日本に何を求めたか、同じ号の『季刊アラブ』に詳細に記されている。一部抜粋する。
《ハーテムエジプト副首相訪日の成果─エジプトの実力者、ハーテム副首相は我が国政財界首脳と精力的に会談。多くの成果をあげ帰国。成果の一つはハーテムが提案した「日本・アラブ開発銀行」構想。中曽根通産相からの強い要請で有力都市銀行が具体案の作成に取り組むことになった。
日本は完全にハーテムの金づる扱いで、中曽根や協会はその後援者役という構図があからさまに描かれている。ハーテムの思惑どおりだ。じつは小池を懐に入れ、カイロ大学に入れさせたのは日本から金を引き出す巨大プロジェクトの一貫だった。エジプト日本友好協会長として、本人がエジプト政府系新聞で語っている。
一つ目のプロジェクトは次のとおりだ。
《ハーテム博士は日本(政府)や日本の首相との良好な関係に投資した結果、日本はカイロ大学小児病院や製鉄会社、オペラハウス(訳注:日本のODA事業名はカイロ教育文化センター)の設立援助に同意したという。しかし、博士の日本関係での最も重要な功績は、1973年10月戦争後、スエズ運河の再開に漕ぎつけたこと。日本が全面的に資金を提供し、第1段階で1億8000万ドル、さらに第2段階で1億8000万ドルの援助を実施したことであり、現在、スエズ運河はエジプトに年間30億ドルの利益をもたらしている》(『アハラーム紙』2004年6月21日)
ちなみに記事のなかにあるオペラハウス(約65億円)もハーテム―中曽根利権である。
《中曽根総理大臣は(中略)カイロ教育文化センター建設計画に関し、近々調査団を派遣し、右調査の結果に基づいて本件に対する無償資金協力の実施につき検討する旨述べた》(『外交青書』1984年)
オペラハウスはハーテムが大臣を務めた情報省の所管だった。元々あったものが焼失したため、中曽根に金を出させたのだ。
■小池とハーテム、中曽根の関係
そして、もう一つが小池プロジェクトである。
《ハーテム博士がエジプト日本友好協会を通じて行った活動のひとつに、次のことがある。1970年に日本の首相からの要請で、当時14歳だった小池百合子さんという日本人の女の子を養女にしたこと。彼女は1976年にカイロ大学を卒業》(同前)
序章で同記事を引用した際は、「14歳養女説」を裏付ける資料がなかったが、その後、以下の記事を発見した。
《ハテム氏の事務所をたずねたときに氏が、小池さんを指して「こんな、小さなお嬢さんのころから知っているが、いまはアラビア語もすっかり身について」といっておられたのを思い浮かべつつ私は圧倒されていた。》(上坂冬子「はじめてのエジプト旅行」『季刊アラブ』57号、1991年)
これはノンフィクション作家で評論家の上坂冬子が小池とエジプトへ同行した際、面会したハーテムとの会話を綴ったものだ。
小池がカイロ留学したのは19歳だが、そのときが初対面であれば「こんな、小さなお嬢さん」とは言うまい。
記録に残っているハーテムの初来日は1966年である。小池14歳のときだ。そのときにハーテムと小池が会っていたとすれば、「小さなお嬢さん」はうなずける。
その真相は、父・勇二郎とハーテムの関係をみていけば、察しはつく。
「お父さんと、当時エジプトの情報相であったドクター・ハーテムが知り合い」との小池のルームメイト北原氏の証言はあるが、勇二郎本人も『季刊アラブ』(15号、1970年)に投稿したエジプト訪問で、懇意にしていたことを明かしている。
《先にアラブ連盟特使として来日されたハーテム博士が小生の健康状態を心配されて度々見舞の電話を頂戴し、医者を派遣された御好意、そして出発の日、アレキサンドリアからご夫妻で小生のホテルへ訪問された御厚情には私は深く感激したことを記しておきたい》
では、小池と中曽根はどんな関係だったのか。
《中曽根氏と初めてお会いしたのは、私が小学生の頃だったか。いつ、どこでと、細かいことは覚えていないが、水色の運動靴をはいて行ったことだけは鮮明に記憶している。何やら私の父が昔から存じ上げているようで、冬の季節になると毎年群馬の白ネギがどさっと家に送られてきていた。関西では珍しかった白ネギが、スキヤキ鍋の中で煮える頃、「これは、ナカソネサンとかいうおじさんからいただいたものなんだって」と、兄と話しながらパクついたものである》(「おんなの人脈づくり サクセスウーマンへのPASSPORT」1985年)
《父は、中曽根康弘さんや福田赳夫さんを励ます会が大阪で開かれるときには、よく兄と私を伴って参加した。中曽根さんや福田さんが滞在するホテルの部屋まで訪ね、挨拶をさせられたことを覚えている》(「自宅で親を看取る 肺がんの母は一服くゆらせ旅立った」2014年)
小池の父・勇二郎は中曽根の熱烈な支援者だったのだ。
加えて、勇二郎は日本アラブ協会の理事を務めており、発起人兼顧問の中曽根とは協会を通じたつながりも深かった。
以上、中曽根・ハーテム・中谷・小池の父・小池のただならぬ深い関係はよくわかった。
※浅川芳裕著『エジプトの国家エージェント小池百合子』(ベスト新書)より抜粋