「叱れば叱るほど問題行動は続く」失敗ばかりの部下を叱っても無...の画像はこちら >>



「お前のために叱ってるんだ!怒ってるんじゃないぞ」何度も同じ失敗をする部下にたまりかね、そう怒鳴りつけてしまっているビジネスマンも多いのではないだろうか。しかし、アドラー心理学を研究する岸見一郎氏は、「叱ると対人関係の心理的な距離は遠くなってしまいます」と言う。

そもそも叱っても甲斐がない、と気づけるか。新刊『アドラーに学ぶ 人はなぜ働くのか』(ベスト新書)から、部下へのマネジメントのヒントをお届けする。(「アドラー」シリーズ#2 / #1 を読む)



■責任を取る

 部下が失敗したとしても、そのことについてくどくどと説教したり、叱ったりというようなことはしない方がいいのです。ただ、失敗したことについて、何もしないというのではありません。失敗についてはしかるべき方法で、責任を取る必要があります。



 それは、やり直したり、可能な限りの原状回復を図ったりするということです。失敗の前にさかのぼって完全に元の状態に戻すことが可能であれば、そうすることが一番望ましいわけです。しかし、例えば、小さい子どもがミルクをこぼしたような時には、それを拭くことで原状回復することはできますが、こぼれたミルクがもはや元に戻らないのは明らかです。仕事でも元に戻せない失敗があるでしょう。場合によっては、謝罪することで、責任を取ることも必要です。



 失敗というのは、できれば避けたいですが、これまで一度も失敗したことがないという人はいないでしょう。仕事によってはたった一度の失敗も許されないことはあります。



 例えば、医師や看護師の失敗は、たった一度でも患者の命を奪うこともありえます。



 しかし、そのような職種の人でも、ただの一度も失敗しなかった人がいるはずはありませんし、失敗した時にこそ多くのことを学んだというのも事実なのです。その意味では、失敗は人が成長するために必要なことといえます。



 しかし、そうであっても、同じ失敗を何度も繰り返すことは望ましいことではないので、同じ失敗をしないようにする話し合いをすることが、失敗の責任の取り方としては重要になってきます。上司は、部下に改善すべき点があるかをたずね、それが自分でわかっていれば次回は改善の努力をさせ、もしも部下が知らなければ、それを教えればいいのです。叱られても部下は自分の責任を取ったことにはなりませんし、失敗の責任を取らないばかりか、今後どうすれば同じ失敗を回避できるかを学ばなかったら、また同じ失敗を繰り返すだけです。



■部下の失敗の責任は上司にある

  部下が仕事で失敗したり、結果を出せなかったりすれば、その責任は基本的には部下自身で取るしかありません。しかし、上司は部下の失敗にまったく責任がないかといえば、そうではありません。上司の指導が適切なものであれば、部下は失敗しなかったかもしれないからです。自分の教え方を棚に上げ、子どもを塾にやらせることを勧める無能な教師のようであってはいけないのです。



 部下が失敗するとその意味で上司も責任を問われることになりますが、多くの上司が自分の責任を取ることを回避し、責任追及を逃れるために、部下が失敗しないように自分の支配下に置こうとするのです。



 仕事で何かを決めなければならないことは多々あります。

その場合、上司が部下の失敗が自分の身に及ぶことを恐れ、叱ることで自分の支配下に置こうとすることがありますが、決断に人生そのものを賭けるのは部下なのです。上司は自己保身のために部下の失敗を未然に防ぐことにばかり注意を向けてはいけないのです。自分で決められる、決めていいということを部下に教え、部下が力を伸ばす援助をすることが上司がしなければならないことなのです。





■叱っても甲斐はない

 叱れば部下は奮起すると思う人はあるでしょうが、そのようなことはまずありえません。叱ると対人関係の心理的な距離は遠くなってしまいます。アドラーは怒りについて、それは「人と人とを引き離す感情」であるといっています。叱るけれども怒ったりはしない、叱ることと怒ることは別であるという人はいます。怒ってはいけないが叱ることは必要であるという人もいます。しかし、人間は怒らないで叱れるほど器用ではありません。叱る時には必ず怒りの感情を伴っているといって間違いありません。



 そこで、部下に改善すべき点を教えようと思っても、上司と部下との距離が遠ければ、部下は上司のいうことを素直に受け止めることができなくなります。上司は知識が足らず、経験も十分でない部下を指導しなければなりませんが、上司がいっていることが正論であっても、あるいは、正論だからこそ、部下は上司が語る言葉を素直に受け止めることができず、反発してしまうのです。



 感情的に叱らなかったとしても、個々の失敗について指摘するのではなく、「君には失望した」というような人格を否定するような言い方をすると、部下は働く意欲をなくしてしまいます。



 部下は、上司から叱られるのが怖いので、失敗をしないよう慎重になるかもしれません。自発的に創意工夫をしようとはしないで、自分に与えられた必要最低限の仕事しかせず、指示を待ち、自分からは動かない「イエスパーソン」になるかもしれません。そのような部下がいるとすれば、上司自らが作り上げているのです。



 上司が部下のすることをすべて指示し、部下もそれに従うというのであれば、大きな問題は起きないかもしれませんが、そのようにするくらいなら上司が部下に任せずに自分で何もかもすればいいのです。



 しかし、実際にはそのようなことはできません。そうすることができるだけの時間は上司にはないからです。それならば部下に仕事を任せるしかありません。部下の方は時には前例がないことをしなければならないことがあります。



 阪神大震災の時に、私の友人である医師はボランティアとして神戸に入りました。学校の体育館が避難所になっていましたが、避難生活が続き、皆が風呂に入れないことを知った彼は体育館に簡易風呂を設置しようとしました。



 そのために役所に許可を求めようとしたところ、前例がないという理由で風呂を設置してはいけないといわれました。

それでも、彼はその決定に従いませんでした。目の前にいる風呂に入れない人を救いたいと思い、あえて役所の決定を無視しました。



「ダメだといわれ、辞めさせられても、もともとボランティアだから」と友人は当時のことを話してくれました。



 上司でも部下でも、たとえ前例がなくても、自分の責任で適切な判断を下さなければならないことはあります。





■叱られても注目されたい

「注目されるために失敗するなどありえない」と思う人もあるかもしれませんが、子どものことを考えてみてください。母親から注目されたいがために、危ないことをして転んでみるといったことは往々にしてあります。同じことを大人になってからも自分では気づかずにしているのです。



 もしも部下が本人も意識しないままに、上司の注目を得るために失敗をしているのであれば、叱られるという形で注目を得ようとしているわけですから、叱ることは有効ではありません。さりとて、失敗した時に何もしなければ、部下は注目されるためにいよいよ失敗を続けてしまいます。



 部下を叱ってみても、同じことが続くのであれば、叱ることの程度が足りないのではなく、叱ること自体が無効なのです。このことを認めることができない人は多くいます。



 教育やしつけの観点から、叱ることは必要だ、間違ったことをした時は叱るのが大人や上司の役割だと息巻く人も多いです。



 しかし、小さな子どもでなければ、自分がしている行動が叱られるものであることを知っているはずです。叱られたくはないけれども無視されるくらいなら叱られた方がいいとか、いい結果を出すことでは注目されないのだから、せめて叱られるようなことをして注目を引こうとする、いわば確信犯なのですから、そのような人に対して叱れば叱るほど問題行動は続くことになります。



『アドラーに学ぶ 人はなぜ働くのか』より再構成〉





文:岸見一郎



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