新日本プロレスのジュニアヘビー級で活躍する田口隆祐。テレビ朝日アナウンサーの三谷紬からは「下ネタキャラ」として恐れられ、元IWGPジュニアヘビー級王者の高橋ヒロムからは「変態お尻おじさん」と評されるくせ者である。
■エル・サムライの試合が導いたプロレスの道
田口隆祐は、東京都足立区生まれ、宮城県岩沼市育ち。現在は同市の「いわぬまPR大使」という肩書も持つ。
小学生時代は扁桃腺の病気で休みがちだった田口。当時熱中していたのは将棋(現在はアマチュア6段の腕前)と、屈強なプロレスラーとは結びつかないような子どもだった。
病気を克服してからはスポーツに熱中し、高校ではサッカー部に所属。プロレスをまったく知らなかった少年がプロレスラーを夢見るようになったのは、高校2年生のときに見た『ワールドプロレスリング』の橋本真也と長州力との一戦がきっかけだった。
「あの試合で橋本さんは長州さんのリキラリアットを何発も受けたのに、倒れなかった。その姿を見て、胸が熱くなった。それから毎週『ワールドプロレスリング』を録画して見るようになりました」
プロレスラーを志すきっかけとなったのは、1997年に日本武道館で開催された「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアⅣ優勝決定戦」だった。
優勝決定戦へ進んだのはエル・サムライ(※1)と金本浩二(※2)の2人。

その後、サムライは劣勢に転じ、マスクも剥がされてしまう。しかし、体のタフさと受けの上手さでしのぎ切り、得意技である裏DDTで逆転。最後は奥の手とばかりに雪崩式裏DDTで勝利を掴んだ。予備のマスクを被ったサムライはコーナーポットへ上がって両手を天井へと突き上げた。普段は寡黙なマスクマンが喜びを爆発させた瞬間である。
「この試合を見て『プロレスをやりたい』と思ったんです。そして『新日本プロレスのジュニアに入る』と決めました。あの頃、身長は今と変わらないですが体重が60kgくらいしかなくガリガリでした。それで本屋で『プロレスラーになるための本』みたいなのを買って、トレーニングを始めたんです。格闘技経験もないから、大学でレスリングをやろうと思って探しましたね」
ただの「プロレス好きの少年」が「プロレスラー志望の若者」へと変わった瞬間である。
※1 エル・サムライ:元新日本プロレス所属のプロレスラー。田口隆祐の師匠格に当たり、獣神サンダー・ライガーの盟友でもある
※2 金本浩二:元新日本プロレスのプロレスラー。現在フリーで活動中。三代目タイガーマスクとしても活躍した
■苦難を乗り越えた東海大レスリング部時代

プロレスラーになるために東海大学へ進んだ田口は、レスリング部に入部する。しかし予想とは違った生活が待っていた。
もともと推薦入学で強い選手を入学させていたが、田口の代から推薦での入部者がいなくなっていた。実力のある先輩も部に来なくなり、追い込みをかけた練習もなくなってしまった。
「途中から、同好会のような扱いになったんです。それでレスリング部を辞めて、大学内のジムを使って自分でトレーニングをしてましたね。それだけじゃ足りないから格闘技のジムへ入ろうかなと思ったんですけど、どれもピンとくるものがなくて」
くすぶっていた田口を引き戻したのはレスリング部の顧問だった。
「先生から『新入生も入ったからレスリングの練習できるから戻ってこい』とお誘いを受けたんです。格闘技のジムに入るなら戻ったほうが、安心して練習できるからいいかなと思って、レスリング部に戻りました。
トレーニングに打ち込んだ田口は、2001年に関東学生新人戦フリースタイル76kg級で3位の成績を残す。同年9月に行われた新日本プロレスの入門テストに合格を果たし、翌年3月に入門。
■中邑、後藤、ヨシタツ…新日同期との絆
田口が入門した2002年は練習生が5人。同期は、世界最大のプロレス団体であるWWEで活躍する中邑真輔、現在も新日本プロレスのトップ選手である後藤洋央紀(※3)、現在「プロレスリング・ノア」で活動するヨシタツらがいた。

アクの強いメンバー揃いだが、寮ではみんなストイックな生活をしていたという。
「練習生ってやることが多いんです。朝8時に起きて、寮と道場の掃除。10時から3時間みっちり練習をして、それから先輩たちの練習着を洗濯したり、ちゃんこ番だったり、雑用をこなすので休む暇がないんです。その後も寮を見回りして軽い掃除をしてから寝るんで、変なことを考える余裕はなかったですね。つらくて『辞めよう』と思ったこともありましたが、同期がたくさんいたのでお互いに励まし合ってましたよ」
当時、新日本プロレスのコーチをしていたのが木戸修(※4)だった。木戸の教えは「THE・昭和」。
「夏でも窓を閉めきってましたし、水を飲むのも厳禁。
そんな環境で練習していたら脱水症状になりそうである。しかし、対策を練っていた。
「練習の前に色んな所に水を凍らせたペットボトルを隠していました。木戸さんもキツいから必ず水を飲みに道場から出ていくんですよ。その間を見計らって隠したペットボトルの水を飲んでましたよ。あの頃は『力水』なんて言ってました」
過酷な練習、そして数々の雑用をこなした。しかし、田口は「絶対に辞めない」という覚悟を持つようになったという。同期の後藤洋央紀が怪我で道場から一時的に離脱したことが、きっかけだ。
「僕は、後藤洋央紀がデビューしたらプロレス界の歴史を変えるくらいの選手になると思っていたんです。でも、僕との練習で怪我をして寮からいなくなって、勝手に責任を感じてましたね。後藤は『必ず返ってくるから』と言ってくれて、『それまでは絶対に辞められない』と思って踏ん張りました」
同期の絆は固く結ばれている。
2022年9月に東京・国立代々木競技場第二体育館にて『TAKAみちのく30周年記念大会』で田口、後藤組VSヨシタツ、タイチ(※5)組のタッグマッチが行われる前には、SNSで「全員ヤングライオンの格好でいこう」と盛り上がっていた。彼らは今も新日本プロレスやプロレスリング・ノアのリングで戦いを続けていて、その姿も田口に刺激を与えているに違いない。
※3 後藤洋央紀:新日本プロレス所属のプロレスラーで田口隆祐の同期。新日本プロレス夏の風物詩『G1 CLIMAX』を当時最年少で優勝した実力のある選手である
※4 木戸修:新日本プロレスで活躍をした名レスラー。「プロレスの神様」カール・ゴッチから「マイサン(私の息子)」と呼ばれるほど評価をされる
※5 タイチ:全日本プロレスでデビュー後、ハッスルを経て新日本プロレスへ入団したプロレスラー。好角家として知られており、時折相撲を思わせる技を試合で見せている
■首の怪我を抱えての壮絶デビュー戦
田口は2003年11月にデビュー。もともと1ヶ月早くリングに上がる予定だったが、怪我をして延びた。
「ヨシタツと一緒にデビューするはずだったんですけど、首を鍛える練習のときに『グキッ』ってなったんです。そのときも『なんかヤバいかな』とは思ってましたね。次の日ちゃんこ番で、ちゃんこを作ってたんですけど、途中で気持ち悪くなってトイレで戻しちゃったんです」
病院で診察を受けると、首の骨がずれていて、それが吐き気や頭痛を引き起こしてるということだった。治療を受けるも、痛みは治まらない。ひどい時には起き上がるのも困難なほどだった。
10月のデビュー戦が延期になった後、もう一度試合が組まれたが、痛みがひどくてこれも取り止めとなる。
二度デビュー戦が延期。
いつまでも甘い顔をしていられないと、新日本プロレスは「デビューできないのなら辞めてもらう」と最終宣告を突きつけた。そこまで言われたら我慢してでもやるしかない。田口は覚悟を決めてデビューの日を待つ。
「その日の朝は、起きたら痛みはなかったんです。会社から『大丈夫か』と聞かれたときに『やります』と答えたんですけど、昼くらいから頭痛が出てきてキツくなってきました。『大丈夫』と言っておいて、今更『できません』とは言えませんよね。だから死ぬ覚悟でリングに上がりました。デビュー戦は頭が痛いことしか覚えていません」
デビュー戦をなんとかやりきったが、引き続き頭痛には苦しめられた。治療の効果が出てきたのは、半年経ってから。
徐々に身体も動くようになり、リングで高いポテンシャルを見せつけられるように。デビュー半年で憧れの「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」に初出場を果たす。
「すごく嬉しかったですね。自信にもなりました。調子に乗って『ドロップキックマスター』のTシャツを勝手に作ってました」

■メキシコ修行でエンタメ精神が開眼
2004年に第9回「ヤングライオン杯」(※6)で優勝した田口は、メキシコへの海外遠征に出発した。実はメキシコは「ルチャリブレ」というプロレスが盛んで、毎日のようにプロレスの試合が開かれているという土地柄。
田口以前にも、多くのプロレスラーが海外遠征でこの地を踏んでいる。古くは初代タイガーマスクの佐山サトル(佐山はその後、イギリスへも遠征した)や小林邦昭。内藤哲也や高橋ヒロムといった、現在の新日本プロレスを支えている選手もメキシコ修行を経験している。
田口は当地の老舗団体「CMLL」のリングに上がり、日本にはないスタイルに触れながら、成長していった。苦労した点はなかったのか。
「生活面でもリングでも、そんなに苦労した思い出ってないんですよ。ただ、水道水は飲むなって言われていたので注意してました。シャワー浴びるときも口から水が入らないように唇を噛むくらい閉じてましたね」
“メキシコ遠征あるある”で「タコスを食べてお腹をこわした」というエピソードが出てくるが、田口は生のタコが入ったタコスを食べても平気だったそう。そんな田口だったが、一度だけメキシコでお腹を下したことがある、と明かした。
「メキシコにアントニオ猪木さんが来たことがあったんです。ブラックキャットさんから『猪木さんが来るから挨拶へ行って来い』と言われて、アポ無しで猪木さんが滞在しているホテルへ向かったんです。ロビーでずっと待っていると猪木さんの姿が見えてご挨拶して、猪木さんの部屋で当時取り組んでいた永久電池の話を聞かせてもらったのを覚えています。実は、その前日に『猪木さんに挨拶へ行かなきゃ』というプレッシャーでお腹を壊していたんですよ」
猪木の有形無形の存在感が、生タコスにも動じなかった田口のお腹を破壊した。メキシコではOKUMURA(※7)とタッグを組んで悪役(メキシコではルードと呼ばれる)としてリングに上がった。
遠征期間は僅か8ヶ月と他のプロレスラーと比べて短かったが、メキシコで学んだことが一つあるという。
「メキシコのプロレスって3本勝負なんですよ。1本目が終わると少し休憩時間みたいなのができるんですけど、そのときに選手がお客さんをすごい煽るんです。客席が盛り上がる中で2本目にいくんです。メキシコは選手も会場全体のことを考えてリングに上がるのが当たり前なんです。それがすごく印象的でしたね」
この学びをいかしたのが、田口が試合後に踊る「タグダンス」だ。現在もリングで軽やかなステップを踏んで踊っている姿を見られる。
※6 ヤングライオン杯:新日本プロレス所属の若手レスラー同士が戦うリーグ戦。優勝者は海外武者修行へ旅立つのが恒例となっている
※7 OKUMURA:メキシコで活動しているプロレスラー。現在もCMLL所属としてアメリカにも遠征している
■変化の時代を生き抜いた実力派レスラー
帰国した田口は、憧れだったエル・サムライとタッグを結成し、IWGPジュニアタッグ王座を獲得。2007年には第52代IWGPジュニアヘビー級王者となった。デビュー5年目での戴冠はかなりの早さだが、田口の人気は爆発せず、「通好みのプロレスラー」という評価だった。
当時の新日本プロレスは過渡期だった。「冬の時代」と呼ばれる時期を脱しつつあり、新たなファン層も獲得しようとしていた。
それは「プ女子」(※8)の存在だ。
当時のプロレスファンは、年齢を問わず男性が大半。後楽園ホールでは「しっかりしろ!」「つまんねーぞ!」という野太い声が鳴り響いていた。
しかし、棚橋弘至を中心に実力と人気を兼ね備えたイケメンレスラーが登場するや、彼らを応援する「プ女子」が後楽園ホールに集結し、黄色い声援が聞かれるようになったのだ。
「キャーキャーという声が飛ぶようになったのを覚えています。時代も少しずつ変化していったのだと思います」
その波に乗ってスター街道を驀進したのが、田口のタッグパートナーであるプリンス・デヴィット(※9)だった。
田口は田口の道を地道に進んだ。2008年1月に古傷だった首を負傷、20kgのベンチプレスのバーを持ち上げるのも困難だったが、リングに上がり続けた。
デヴィットと田口のタッグチーム「Apollo55」は、2009年にジュニアタッグ王座を獲得。同年に開催されたヘビー級のタッグリーグ戦である「G1タッグリーグ」にも参戦し、準優勝という成績を残す。
そして2010年に「Apollo55」と飯伏幸太(※10)とケニー・オメガ(※11)の「ゴールデン・ラヴァーズ」との対戦で、プロレス大賞のベストバウトに選ばれた。ジュニアヘビー級のタッグマッチが選出されたのは史上初の快挙だった。
2012年には悲願の「BEST OF THE SUPER Jr.」を制覇。
しかし盟友だったデヴィットが田口を裏切り、タッグは解散。田口は、第三腰椎神経根引き抜き損傷の疑いで長期欠場に追い込まれた。
不屈の田口は怪我からまた立ち直り、敵対関係になったデヴィットとのシングルマッチに勝利。因縁に決着をつけた。デヴィットは新日本プロレスを退団し、WWEへと移籍。一報を聞いた田口は次のように語った。
「もし次に目の前に現れたら、それは僕とデヴィットの第2章となる」
この後、田口は自身のプロレスラー人生第2章をスタートさせることになる。
※8 プ女子:女性プロレスファンである「プロレス女子」の略
※9 プリンス・デヴィット:新日本プロレスのロス道場に入門したプロレスラー。新日本退団後は、世界最大のプロレス団体「WWE」へ移籍をして現在も活躍している
※10 飯伏幸太:アメリカのプロレス団体「AEW」所属のプロレスラー。「天才」と呼ばれ数々のベルトを巻いてきた。甘いルックスで女性ファンも多い
※11 ケニー・オメガ:アメリカのプロレス団体「AEW」のプロレスラー兼副社長。カナダのインディー団体からDDTへ参戦し、新日本プロレスへと移籍をした
■“おふさげチャンプ”が誕生した日
長年のパートナーとの争いにけりをつけた田口は、第69代のIWGPジュニアヘビー級王者に輝いた。その試合後にTAKAみちのく(※12)、タイチ、エル・デスペラード(※13)に襲撃されるも、「オーマイ&ガーファンクル」、「チョベリバ」、「なんて日だ」、「シックスナイン」、「グッチョグッチョのベッチョベチョ」「激おこ牛若丸」など下ネタとギャグコメントで応戦、デスペラードをタジタジにさせる。
理想のチャンピオン像を聞かれると、「もっと自由な、もっとふざけた田口隆祐を出していきたい」と答え、“おふさげチャンプ”田口隆祐が誕生した。
「『ワールドプロレスリング』で、試合よりも試合後のコメントのほうが長く放送されまして。コメントのほうが視聴率良かったんです。それでテレビ朝日のスタッフに『次の防衛戦で勝ったら、試合後のインタビューも、この間みたいにめちゃくちゃでお願いします』って言われたりして、それがきっかけですかね」
周りを支える職人肌のプロレスラーから“チェンジ”した田口には、新たなファンがついた。ジャンピングヒップアタックなど、“ケツ”にこだわった攻撃をしたり、サッカーやラグビーの日本代表にあやかって「タグチJAPAN」を一人で結成をし、他の選手を勝手にメンバーに加えるなど、やりたい放題。

また、カードゲーム「キングオブプロレスリング」のゼネラルマネージャー兼演歌歌手・道標明に扮してCDデビュー。「道標明の人情酒場物語」という番組ではプロレス界の吉田類となり、酒場を放浪するなどリング外でも話題をばらまく。
そんな仕掛けはどうやって思いつくのか。
「流行りを取り入れようと思っているので、普段から色んなところにアンテナを張っています。何か先取りしてプロレスに使えないかを色々と探っていますね」
これだけ考えながら発信していても「変態お尻おじさん」扱いされてしまうが、それも本望か。最近では、テレビ朝日のプロレスバラエティ番組「新日ちゃんぴおん!」に出演するたびに下ネタを連発し、MCの三谷紬アナウンサーを閉口させている。
「期待に応えているだけです。そういうこと(下ネタ)を言う人だと思われているので、皆さんの期待通りにしているだけです。普段は下ネタなんて言わないので、夜寝る前には一人で泣いています。今日もまた自分で自分に嘘をついてしまいました」
もしこの記事を三谷紬アナウンサーが読んでいたら、ぜひお伝えしたい。
《下ネタばかりいう人ではありません。誤解を解きたいと言っていますので、チャンスを与えていただけますでしょうか》
※12 TAKAみちのく:世界最大のプロレス団体「WWE(当時はWWF)」で活躍したプロレスラー。現在は自身の団体「J.T.O」を主宰し、新日本プロレスに参戦している
※13 エル・デスペラード:新日本プロレス所属のジュニアヘビー級トップレスラーの一人。昨年開催したプロデュース興行「DESPE-invitacional(デスペ・インビタショナル)」は、チケットが即売り切れになるほどの人気を誇る
■「自分が楽しむ」で世界が「良くなる」
田口は1979年生まれの45歳。氷河期世代ど真ん中だ。最後に、同世代の人たちを元気づけるメッセージをお願いしてみた。
「仕事でもプライベートでも楽しむことって大事だと思います。僕はプロレスラーという仕事をしているので、自分が楽しんでいる姿を人に見てもらって、その人も楽しくなれることを考えています。みんなに喜んでもらうためには自分が楽しむのが一番だと思うんです。
今の世の中って暗くなるようなことばかりじゃないですか。それでも笑顔で明るく過ごしていれば、自分自身も楽しいし、周りの人も元気になると思います。
ウキウキするような気持ちが連鎖反応で広がっていけば世の中も良くなっていくかもしれません。だから楽しく生きていきましょう」
取材の場でもサービス精神旺盛に応じてくれた男は、これからもファンを喜ばせ続けるはずだ。時々はビシッとしたところを見せてくれれば、なお幸いである。

取材・文:篁五郎