何が起きるか予測がつかない。これまでのやり方が通用しない。
映画『サブスタンス』。公開から 5週目突入(GAGA)" />
「視点が変わる読書」第20回
男たちに消費される「美」との決別
■映画『サブスタンス』と岡崎京子『ヘルタースケルター』
道行く若い女性の肌が気になりだしたのは、40歳を過ぎた頃だっただろうか。
ハリがあって、瑞々しいキラキラ肌に出くわすと、不審に思われぬよう気をつけながら何度もちら見した。わが身を振り返り、いくら高い化粧品を使っても、綺麗にメイクしても、最早あの肌は手に入らないのだと、ため息をついた。
しかし、今や老いに抵抗する方法はたくさんある。
ポツリヌス菌やヒアルロン酸の注入、レーザーや超音波の照射、糸リフトといったアンチエイジングの美容治療、代替医療の血液クレンジングも美肌効果があるらしいし、顔や体にメスを入れる整形手術も以前に比べるとぐんと身近なものになっている。私の知り合いに、自分の尻の肉を切り取って頬に移植したという女性がいる。頬をふっくらさせるためだという。
若い頃の自分を完全復活させるのは無理でも、かなり努力をすれば、近づくことは可能な時代なのだ。
第97回アカデミー賞メイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したことでも話題になった映画『サブスタンス』は、再生医療によって自分のDNAを分裂させ、より美しく完璧な自分を創り出すという、今よりもさらに進んだ世界を見せてくれる。
デミ・ムーア扮する主人公のエリザベス・スパークルはかつてオスカーを受賞するなど栄光を極めた女優であるが、50歳になり、容貌も人気も衰えていた。50歳の誕生日にレギュラー番組の降板を言い渡されたエリザベスは失意と焦りから、不法な再生医療に手を出してしまう。秘密裡に入手した注射を打つや、DNAが分裂し、彼女の背中を破り、若く美しいもう一人の自分、スー(マーガレット・クワリー)が現れる。
美しい容貌と肉体に加え、エリザベスの経験と記憶を持つスーは瞬く間にスターになる。
いや、しかし、マーガレット・クワリーのきれいなこと! ゴールドピンクのハイレグレオタードでエクササイズをする彼女のあまりの美しさに、いつまでも見ていたい気持ちにさせられた。映画を見たのはTOHOシネマズ日比谷だが、60歳を超えているとおぼしき男性の一人客が大勢いて、もしかして彼女の肉体が目当てかと邪推してしまった。
一方デミ・ムーアのエリザベスは見ていて、痛い。彼女の実年齢が自分と近いだけにいっそう痛く感じる。もっとも、そう思わせるのは、デミ・ムーアの演技力が優れているからなのだが。この役を演じるのに、彼女ほどふさわしい女優はいないかもしれない。
さて、自分の分身ともいえるスーを手に入れたエリザベスだったが、精神のバランスを失って再生医療に失敗し、凄まじい結末を迎える。整形手術の失敗であれば、自分の顔や体が醜くなるだけだが、再生医療の失敗は人間の想像を超えるモンスターを創り出してしまう!
監督のコラリー・ファルジャはジャンル映画好きだというが、この映画ではSF×オカルトの過剰表現が逆に現実社会のリアルを浮き彫りにしている。
それは、女性が必死になって手に入れようとしている美は、下品で暴力的な男性意識によって創られているということだ。
『サブスタンス』を見て、『ヘルタースケルター』を読み返した。

■男たちの欲望を満たすための「美」という地獄
この漫画は、『FEEL YOUNG』という漫画雑誌に1995年7月号から1996年4月号まで連載され、2003年に単行本化された、岡崎京子の代表作である。
超デブで、おかちめんこの比留駒春子は、モデル事務所の女社長・多田に骨格の美しさを見込まれ、全身整形をして、「りりこ」に生まれ変わる。多田の事務所に所属したりりこは美しい顔と肉体でスターとなり、モデル、女優、タレントとして大活躍する。
ところが全身整形をしたクリニックは整形後の状態を保つための治療に、胎児の死体から抽出したエキスなど、薬事法に違反した薬を使用しており、その高額な治療費と手術の後遺症、薬の副作用に苦しみ、命を断つ女性が後を絶たなかった。
りりこは社長のバックアップがあるので治療費には困らなかったが、度重なるメンテナンス手術と治療に、体も心ももたなくなっていく……。
岡崎京子は1990年代に活躍した漫画家だ。彼女は1989年に創刊された『CUTiE』というストリート系ファッション誌に、「リバーズ・エッジ」や「東京ガールズブラボー」などの作品を連載し、知名度を上げた。
まぁ、子供のうちは、親に、大人に、社会に、反抗していれば、それだけで意味があるように思えるし、自分の食い扶持のことを考える必要もない。モラトリアムを生きているようなものだ。
しかし大人になると、そんな彼女たちも生活していくために、社会と折り合いをつけていかなければならない。社会の中に自分の居場所を見つけなければならなくなる。
りりこは地方都市で父、母、妹、四人で暮らしていたが、十代後半(恐らく)に家出をして東京に出てきた。別に目的はなく、親切そうに声をかけてきた男についていったら、風俗に売り飛ばされてしまう。そこはデブ専の店で、りりこは生まれて初めて男たちにちやほやされる。あるパーティに出張に行った時に多田と出会い、全身整形することを決意する。
結果、りりこは仕事と名声と多くのファンを手に入れた。しかし、満足するどころか不安はつのるいっぽうで、こう一人ごちる。
こんな仕事はもういやなの 歌だって下手だし 演技だってできないし
タレントにも向いてない、 タイミングがうまくはかれない
テレビカメラの前でいつだって心臓がばくばくいってる
モデルの仕事だって…
カメラがシャッターを押すたびに空っぽになってゆく気がする
いつも叫びたくなるのを必死におさえているのよ
いつかあたしは叫び出すだろう
その前に……ああ…何とかしなくては…
大人になるということは、単純に言えば資本主義社会に組み込まれるということだ。
資本主義の基本となる経済理論を確立したアダム・スミスは、市場経済において各個人が利益を追求すれば、神の見えざる手が働き、結果的に社会全体において適切な資源配分が達成されると説いたが、今や資本主義の勢いに神の手の力も及ばなくなっている。一度その渦に巻き込まれたら最後、制御できない欲望にかられ続けることになる。
渦の中心になっているものの一つに、女性のからだがある。
コラリー・ファルジャは言う。
「広告、映画、雑誌、ショーウィンドウなど、私たちの周囲に存在するあらゆるものは、私たちがなり得る姿を思い描いてきました。常に美しく、スリムで、若く、セクシーな姿です。そのような『理想の女性』であれば、愛をもたらすと思わせるのです。成功も、幸福ももたらすと。
そして私たちの年齢、体重、からだの輪郭などがその理想の型から外れていく時、世間は、『お前は女としてもう終わりだ』と私たちに宣言します。
『もうお前の姿は見たくもない』『画面上に姿を現すな』『雑誌の表紙を飾るな』と」
(『サブスタンス』パンフレットより)
りりこも思ったのだろう。美しい顔と体さえ手に入れれば、愛されて、幸せになれると。しかし、そうはならなかった。
■男たちに消費される「美」との決別
実際、自分にぞっこんだと思っていた、有名デパートの御曹司はりりこの体をさんざん弄んだ挙句、代議士の娘と結婚してしまう。精神を保てなくなったりりこは仕事のミスが続き、ほされていく。さらに、自分のマネージャーによって、自身の過去をマスコミに暴露されてしまう。
通常の神経であれば、りりこも、クリニックに通っていた他の女性たちと同じように自殺し、それで物語は幕を閉じたであろう。
しかし、りりこは自らの意志で薬の使用をやめ、顔と体をくずれるがままにする。男たちに消費される「美」に自分から決別したのだ。
前にこの漫画を読んだ時、私は不思議でならなかった。
我儘で浅薄で、すぐ激情にかられ、自分を裏切った男の結婚相手に硫酸をかけることも厭わないりりこを、何故か嫌いになれないのである。
今回も同じだが、その理由が分かった気がした。
りりこは多田が用意した記者会見でピストル自殺することを思いつき、人知れず準備を進める。ところが、直前に忽然と姿を消す。
数年後、多田の事務所に所属するモデルが撮影でメキシコを訪れた際、現地で奇形の見世物ショーに出演しているりりこと再会する。
りりこは、崩れはてた自分の顔と体を武器にして生きていたのである。
その無謀ともいえる激しさと、一見もろそうに見えて実は強靭な精神に、私は魅了されていたのだ。
『ヘルタースケルター』はりりこがショーに姿を現したところで終わっているが、岡崎京子は続編として、りりこの新たな冒険を描く予定にしていた。
それが実現していたら、私たちは今から30年も前に、男に消費される美を捨て、自らの力で欲望渦巻く資本主義社会に戦いを挑んだ一人の女性の生きざまを見ることができたはずだった。しかし、続編は描かれなかった。
何故なら、岡崎京子は「ヘルタースケルター」の連載が終わった直後の1996年5月、飲酒運転の車にはねられて大けがを負ったからだ。以後現在にいたるまで、休筆が続いている。
文:緒形圭子