森博嗣先生が日々巡らせておられる思索の数々。できるだけ取りこぼさず、言葉の結晶として残したい。
第23回 人気商売のジレンマ
【自分の本は読んだことがない】
前回大袈裟に書いた忙しさは峠を越した。案の定、大した峠ではなかった。担当編集者が2年振りにゲラとイラストを取りにきてくれた。日本はGWに突入する寸前だったし、スケジュール的にぎりぎりだったためらしい。1時間ほど雑談をしたが、人と話をするような機会がこの頃滅多にないから、そういえば、こんなふうに言葉を口から出してコミュニケーションをとっていたな、と思い出した。とても効率が悪い。何故なら、会話の9割は内容がほぼなく、単に双方を和ませるための言葉であり、情報のやり取りとはいえないからだ。まあ、音楽鑑賞のような趣味的な時間だと思えば、けして悪くない。
今回、20年以上まえに出した本を新たにまた文庫として再発行することになったので、3ページほどのあとがきを加筆した。それを書くために最初から通してゲラを読んだ。僕は、自分が書いた本を発行後に読んだことは一度もない。自分で書いた文章を読む趣味がない、といった方が精確か。
さて、執筆では、いつも本のページの順番に書く。トビラを書き、目次を書き、小説ならば登場人物表、舞台の配置図などを書く。そしてプロローグ。引用文があれば、それを書く。だから、このときまでに引用する本を買っておく必要がある。断っておくが、小説などで引用した本のうち、ほとんどを読んでいない。最初の頃は8割くらいは既読だったが、ここ20年くらいは9割以上が未読。引用するためだけに初めてその本を買う。
最近は、1カ月に5冊くらいしか本を買わない。すべてすぐに読む。買って読まなかった本はない。また、雑誌は1カ月に10冊以上買っている。こちらは、ぱらぱらと眺めるだけで、文字はほとんど読まない。
何度か書いていることだが、本ほどコストパフォーマンスが高いメディアはない。本を読まないのは、人生においてかなりの損失だといえる。特に、若いときに幅広く多数を読むことが有用だろう。
本を読むのが超苦手な森博嗣がいっているのだから、説得力があるのかそれともないのか、どちらともいえないが、人と議論や会話をするよりは数百倍有意義だと確信する。
【視聴率を気にして衰退するメディア】
編集者とオーディブルについても話した。オーディブルというのは、本を朗読したもので、ラジオドラマみたいな演出がなく、単なる朗読。効果音や男女の声の区別もなく、一人の声優さん(だと思う)が担当している。オーディブルは売れていて、そんな需要があったのか、と意外だった。なにしろ、本を読むよりも時間がかかる。どうやら、多くの人は二倍速とかで聴いているらしい。そういえば、ネットでドラマや映画を視聴する人たちも、早回しで見ているという。それほど皆さん忙しいというわけか。もしかして、音楽も早回しで聴いている?
たしかに、ネット動画などで、政治や経済について専門家が解説するのを見ていると、「もっと速く話してくれ」と思うことは多い。知識のある人ほど、なかなか断言しない。
それでもTVに比べれば、はるかにましだ、というのは確実。TVは極めて内容が薄く、特に報道関係の番組が酷いらしい。偏っているうえ情報量が少ない。取材能力を既に失っているため、まともな番組が作れなくなっているのだろう。新聞は、ここ20年ほど僕の目に入ったことさえない。日本ではまだ新聞が存在するようだが、いったい誰が買っているのか不思議でならない。近所の安売り情報を知りたい人たちなのか、それとも新聞紙が各種の用途で使えるからなのか。この皮肉ももう通じないほどだ。
さて、TVがどうしてこんなに衰退してしまったのか、と考えると、それは視聴率に束縛されていたからだ。視聴率は、コマーシャルによる利益に直結する数字なので、いたしかたがない。「つまらなくても視聴率が取れる」「マンネリだが視聴率を優先しよう」という論理がまかり通った結果、最後にはコマーシャルしか残らないコンテンツになる。
TVだけの話ではない。出版も、結局は部数という数字に束縛されていた。また、現代人はほぼ例外なく「いいね」を求めて行動している。ネットでは、クリック数が稼げれば正義となる。一般人も含め、みんなで人気商売をしている状況が、現代社会だ。
そこでは自身の信念が、周囲の評価らしき架空の圧力に掻き消されてしまう。フェイクが頻出するのも根元は同じである。稼げるものならなんでもあり、という環境になると、本来の志向が失われ、組織も個人もいずれ衰退する運命を免れない。
【他者評価による判断の遅れ】
視聴率やいいねなどの他者評価に支配されたコンテンツは、いずれは終焉を迎える。
これまではビジネス、つまり組織の問題だったが、ネット社会になり、子供の頃からいいねを欲しがる環境で育った現代人は、個人の人生にもこのジレンマを取り込んでしまう。周囲から褒められたい、誰かに感謝されたい、周りの人の笑顔が欲しい、といった生き方になりがちで、それらが得られないことを恐れ、自身の価値観を封じ込めてしまう。
まったく他者の意見に耳を傾けず我が道を進め、といっているわけではない。他者の意見にもいろいろあり、道理が通るものは考慮した方が良い。また、周囲の感情的な反応に関しても、大勢なのか少数なのか、遠い声か近い声かは、考慮に値するだろう。特に、自分が成し遂げたいものが他者に受け入れられて成立する場合には、自分の美意識をあらかじめ抑える必要がある。このあたりは、妥協というよりも対処といえる。
それでも、今は周囲を気にしすぎる人の方が多数だ。そういった他者の目を気にせず、自分が好きなように生きれば良い、ということを忘れがちである。自分ファーストは、ごく当たり前なのである。周囲が悪いわけではなく、いつの間にか自分で自分を束縛している。周囲のため、みんなのため、認めてもらえるように、反対されないように、大勢から好かれることをしなければ、と思い込みすぎている。若い人ほどこの傾向が強いように観察できる。少しだけで良いから、ときどき立ち止まって、短い時間でもけっこう、周囲の目を排除し、自分一人の時間を持とう。静かなところで、なにも見ないで、なにも聞かないで、ただぼんやりと考えてみることをおすすめする。すると、自分の声が聞こえてくる。自分は実は、このままでは嫌だ、もっとこうしたいな、といっているかもしれない。その声を聞かないように耳を塞いでいないか、たまに確かめてほしい。
いつも自分の意識に問いかけている人は、普段から周囲に惑わされない。他者の声よりも、自分の声を多く聞いているからだ。ということは、つまりは多数決だともいえる。遠くの声が近くに聞こえてしまう現代では、現実の距離感を意識することも重要である。
【電子書籍は何を変革したのか?】
僕は小学生のときには、文章がすらすらと読めなかった。中学くらいから少しずつ改善し、高校になると、読めるようになったことが嬉しくて、あらゆる本を読んだ。たとえば、岩波文庫はほとんど読んだと思う。今よりはだいぶ薄い本が多かったけれど、どれも一流のものだった。個人的な印象かもしれないが、文庫として出ている本は、一角の人が書いた一流の内容で、社会的にも認められている名著ばかりだった。優れた工芸品が後世に残るように、本にもこのような自然淘汰の傾向があったから、古いのに書店や図書館に並んでいる本や、版を重ねている本は、読む価値が高いと判断できた。
しかし、印刷技術の進化で書籍は爆発的に増え、一流でないものも本になり、また人気さえあれば同種のものを増やせる、という状況になった。出版数は増加する一方で、新刊を店頭に並べて売ることが本流となった。一流の古い本は奥の棚で眠っていた。
そこへネットと電子化の波が押し寄せる。電子書籍には絶版がない。優れた内容であっても、くだらないものであっても、同じように残り続ける。どの国の本もすぐに手に入り、自動翻訳で言語の垣根も低くなった。
電子化がもたらした最も大きな変革は、流通システムである。ネットによる流通は、印刷書籍さえ常時購入できる商品にした。絶版になった本も新刊と同じように購入できる。こうして、広告の力で新刊を一気に売り捌く商売は無効化された。今は評判によって、じわじわといつでも、いつまでも売れる可能性がある。新しい本も古い本も区別がなくなった。ここへきて、人気商売のジレンマは根本的に消失し、そのあとには、優れたコンテンツを作るしかない、という王道だけが残された、といえるだろうか(希望的観測?)。
僕よりもずっと読書家の奥様(あえて敬称)は、この頃Youtubeにはまっている。何を見ているのかときいてみたら、ガーデニングやインテリアや料理など、つまりノンフィクションらしい。小説ばかり読んでいた彼女なので意外である。一方、ノンフィクションの読書ばかりしている僕は、Youtubeでは技術関係が主だけれど、夕食のあとは海外ドラマを見る習慣が何年も続いている。人間というのは、単純な存在ではないようだ。
文:森博嗣
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