祖父のいましめを守って酒に気をつけた毛利輝元と異なり、酒で命を落としたのが上杉謙信です。
毘沙門天を深く敬う謙信は、義に厚く、高潔な人柄で知られています。武田信玄の死によって甲斐の国、現在の山梨県を手に入れるチャンスがめぐってきても、「相手の不幸につけ込むようなまねはしたくない」と言い、頑として兵を進めませんでした。
幕末に書かれた『名将言行録』などの文献には、謙信が一人で縁側に座り、梅干しを肴に酒を飲んでいたこと、そして親しい家臣らと飲むときも肴は梅干しだけだったことが記されています。梅干しはおいしいだけでなく、ご飯に埋めれば腐敗防止に役立ちます。また当時は、戦いのさなかに食べると呼吸が整い、気持ちが落ち着くと考えられていました。
酒好きとはいえ、謙信は酔って我を忘れるようなことはなかったそうです。しかし、飲める飲めないは関係ないのでしたね。しかも肴が塩気の強い梅干しばかりとなれば、いかにも血圧が上がりそうです。さらに、仏教の戒律を厳しく守っていた謙信は肉を一切食べませんでした。新鮮な肉や魚には血管を丈夫にする作用があります。
1578年3月9日の夜のこと。関東平定のための出陣を一週間後に控えた謙信は重臣たちと酒宴を開き、手洗いに立った際に脳出血を起こして倒れました。当時の医術では手のほどこしようがなく、49歳で死去しました。戦国武将を見渡すと、まだこれからという年齢です。
旧暦の3月9日は現代の暦に直すと4月下旬にあたります。謙信の領地は越後で、現在の新潟県です。その夜は雨が降っていました。肌寒かったことでしょう。お酒を飲むと血管が広がって血のめぐりが良くなります。その状態で寒い場所に行くと、今後は寒さで血管が収縮し、血圧が急激に上がります。これが脳出血を招いたと考えられます。
現代でも、冬場に暖かい部屋から寒いトイレや風呂場に移動して血圧が上がり、脳出血、心筋梗塞などを発症する例があとをたちません。
この時代は、脳出血のように突然倒れて半身不随になったり、言語障害があらわれたりする病気を風病と呼んでいました。江戸時代に入ると中風とか中気に呼び名が変わりますが、「風」「気」の字を使うのは、大陸では空気の流れにとどまらず、体に悪い影響を及ぼす目に見えないものを風とか気と表現していたからです。現代も使う風邪とか邪気などの言葉がそのなごりです。中風の「中」は、食中りと同じく、風に中るという意味です。
これに先立つ1570年、謙信は一度脳出血を起こしており、この後遺症で左足を軽く引きずっていたそうです。そこで酒をやめ、用心していればと悔やまれます。
■領民の養生をはかった武田信玄当時の人は脳出血や脳梗塞を起こして後遺症が出ると、温泉に滞在して繰り返し入浴し、回復につとめました。現在の温泉はたいてい観光地のようになっていますが、もとは疲れを取り、病気を治療するための場所でした。これを湯治といい、一種の医療施設だったのです。室町時代になると各地の温泉の効能や適切な入りかたについて理解が進み、湯治するにあたっての注意書きを掲示する温泉もあらわれました。
戦国大名はみずからの領地に温泉をもうけ、戦でケガをした武士を療養させたと伝えられています。
信玄が治める甲斐の国は海から遠く、塩を手に入れるのに苦労していました。人は塩がなければ生きていけません。しかたなく、太平洋に面する駿河と相模から塩を買っていましたが、あるとき同盟関係のこじれから、塩の供給を止められてしまいました。いわゆる塩飢饉です。現代なら、さしずめ石油の禁輸でしょう。図9に当時の勢力図をのせました。

この騒動を知った上杉謙信が、「戦いは兵力をもって行うもの。自分は塩で相手を屈服させるようなことはしない」と述べて、日本海の塩をすぐさま信玄に送った話は有名です。苦しむ敵に救いの手を差し伸べることを意味する「敵に塩を送る」という言葉は、この故事から生まれました。
謙信らしいエピソードですが、実際には越後の塩は以前から甲斐で販売されており、謙信が他の大名と同調するのをきらって、塩の販売を止めなかったのが真相のようです。いずれにしても、この事件を通じて、命を支える塩の入手を他国に依存するのがどんなに危険か、信玄は痛感したことでしょう。
そこで信玄は味噌に目をつけました。信玄の領地は大豆の産地で、山国の涼しい気候は味噌作りに適しています。たくさん作って保存しておけば塩分に不自由しませんし、塩そのものを摂取するより養生に役立ちます。大豆を発酵させて作る味噌には、質の良い植物性蛋白質に加えて、アミノ酸、ビタミン、そしてカリウム、マグネシウムなどのミネラルが豊富に含まれているからです。
当時の兵法書にも、「味噌が切れれば、米なきよりくたびれるものなり(米が不足するより、味噌が不足するほうが体にこたえる)」と書かれており、どの武将も戦には必ず味噌を持参していました。味噌をそのまま持ち歩くと鮮度が落ちるため、よく使われたのが、図10に描いた「芋がら縄」です。里芋の茎にあたる部分を乾燥させて縄のように編み、味噌、酒、鰹節をしみこませたもので、しっかり干すと保存がききます。

実際に縄として使うこともできるうえに、刻んでお湯に入れれば里芋の茎が具になった即席の味噌汁になりました。味がちょっと薄そうですが、実際はどうだったのでしょうか。
■お手軽味噌と熟成味噌信玄は満足しませんでした。味噌をしっかり摂取するにはどうしたらよいか知恵を絞り、陣立味噌を考案しました。現代の信州味噌は、信玄の領地で作られていた味噌の流れをくむもので、通常は2~3ヵ月熟成させます。これに対して陣立味噌は20日くらいで完成する、いわばお手軽味噌でした。原料である煮豆をすりつぶし、麹を混ぜ合わせて腰に下げて出発すると、戦地に着くころ味噌ができあがるというすぐれものです。
信玄は陣中食にもこだわり、さかんに「ほうとう」を作らせました。小麦粉で打った麺を野菜とともに味噌で煮る料理で、こんにちでは山梨名物になっています。周囲には山菜がいくらでも生えていますから、持参するのは小麦粉と味噌だけです。
日本で初めて味噌工場を作らせたのは仙台の伊達政宗です。独眼竜で知られる政宗は、子どものころに天然痘に感染したことで右目の視力を失いました。天然痘のワクチン接種が普及するまで、天然痘は日本人が失明する最大の原因だったのです。独眼竜の呼び名は江戸時代になってからつけられたものです。
同じ戦国武将でも、政宗は信玄より46歳も年下でした。1601年、仙台に築いた青葉城に移った政宗は、戦の勝敗を左右しかねない味噌を自給するため、城下に大規模な味噌醸造所を建造しました。大豆の比率を高めて風味を増し、長く熟成させることで保存性を高めた政宗の味噌は、現代まで続く仙台味噌のいしずえとなりました。
(連載第10回へつづく)