松本善明と藤田田は、旧制北野中学校時代、東大法学部時代を含めて、ほとんど付き合いはなかった。それが急速に親しくなるのは、松本が61年(昭和36年)に日本共産党衆議院議員選挙予定候補者として次の選挙に東京4区(中選挙区、渋谷区、中野区、杉並区)から立候補することが決まってからだ。著書より引用する。
~その一方で、私は自らの人脈を活かして、立候補の挨拶を精力的に行いました。とりわけ北野中学の友人には力を入れて訴えかけました。(中略) 戦後一五年が経過し、北野中学の同級生は各分野で活躍していました。新進経営者として大成功していたのは藤田田氏(後に日本マクドナルド社長)でした。大学も同じだった彼に面会を求めて、立候補の挨拶をしてカンパをお願いすると快く五〇万円という大金を出してくれたのには驚きました。(松本善明著『軍国少年がなぜコミュニストになったのか わが戦前・戦後史〉』より)
松本は63年11月に実施された総選挙では初立候補であり、善戦したが落選した。捲土重来を期して戦った67年1月の総選挙では初当選した。以来、11期33年間の国会議員生活を送り、2003年に引退した。
藤田は松本が初当選した67年1月の当選祝賀会に招待され、反共側の唯一の支援者として次のようなユーモアたっぷりの挨拶をした。こちらも著書より引用する。『ユダヤの商法』〈金儲けにイデオロギーは要らない〉の項に、以下の記述がある。
~日本へ無愛想な顔をして、日本がソ連(現ロシア)の方へ傾いたらそれこそ大変だからであります。つまり、日本という体の中に、共産党というバイ菌がいて、それが暴れれば暴れるほど、アメリカという医者は日本へ良薬を与えてくれるのであります。
その駄々をこねる役割り、バイ菌の役割り、私は、日本の共産党にそれを期待しているのであります。
松本君は当選し、みごとにバイ菌の一つとして培養されました。私の投資は成功したのであります。~ (藤田田著『ユダヤの商法』 1972年5月初版より)
松本と藤田は総選挙をきっかけに親しく交流するようになった。
■いわさきちひろのファンだった松本は藤田との思い出、エピソードを次のように話す。
「藤田とはある時期から家族ぐるみの付き合いになったのですが、それは藤田の妻・悦子さんが、私の妻・ちひろの絵のファンであることが大きかったと思います。あいつ、田はねぇ、僕の女房のちひろに、『お妾にしてもいいぞ!』なんて、冗談を平気で言うんだ。それがみんの前であけっぴろげに、明るく言うので暗くならないんだ。とにかく特色のある男だったね」
松本がこう続ける。
「藤田の最大の武器は英会話力だった。英語を母国語とするネイティブと対等に渡り合った。アメリカ人が藤田の英語力に舌を巻いていたことがあった。藤田というのは決して秀才ではないんだけれど、頭の非常にいい人なんだ。学校の成績なんかより、現実・現場・現物で能力を発揮するタイプなんだろうねぇ。とにかく勘が抜群に良くて、ケチケチした商売ではなく、儲ける時は桁違いに大きい。そういう勝負師のようなところを、藤田には感じたね」
松本がさらに続ける。
■金儲けに関してはものすごく緻密だった「藤田というのは金儲けに関しては物凄く緻密で、慎重でしたね。金儲けの達人でした。一方では、自分がどのくらいお金を持っているかということは絶対に話さなかったですね。話しても損することはあっても、得することは絶対になかったからです。藤田はマクドナルドの店回りをやる時、妻の悦子さんに車を運転させていましたが、あれは免許証を持っていないからではなく、自分で運転して相手の車にぶつけてキズをつくれば、莫大な費用を請求されるのが目に見えているので、嫌だったんです。
松本がこう締めくくる。
「実は藤田はちひろが肝臓がんで1974年8月、55歳の若さで亡くなった時、ちひろ美術館を建てるのに使って欲しいと、莫大な資金提供を申し出たんです。けれども、藤田から桁外れの巨額なお金をもらうっていうのは、私の人生からすると、ちょっとあまりパッとしないなと思い、それで丁重に断ったんです。藤田田という男は、そういう男なんです」
筆者は藤田田というのは「学校頭」というよりは、先天的な才能である「地頭の良さ」を持った男だと思っている。生まれつきの能力である「地頭の良さ」に加え、英語を母国語とするネイティブと対等に渡り合う英会話力を、「経験」と「勘」と「度胸」によって身に付けて来た。しかも、『ユダヤの商法』というユダヤ民族に5000年続く、「金儲けの哲学」をマスターして来たのだ。
不世出の起業家・藤田田とは「藤田田の前に藤田田なく、藤田田の後に藤田田なし」というべきであろうか。

弁護士、日本共産党名誉役員、公益財団法人いわさきちひろ記念事業団評議員。右手に持つ『窓ぎわのトットちゃん』のイラストを描いた絵本作家・いわさきちひろの夫でもある。
〈略歴〉1926年(大正15年)5月17日、専門出版社・大同書院の長男として大阪府に生まれる。93歳。旧制北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)、海軍兵学校(75期)を経て、1946年(昭和21年)4月、東大法学部入学。