『星野源のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の放送作家としても知られる寺坂直毅さんがラジオの世界にのめり込んだのは、不登校だった中学2年生の時。母親にラジカを買ってもらったことがきっかけでした。
自らの投稿が読まれた時は「自分が存在しているんだ」とラジオに救われたそうです。定時制高校時代には、高校をラジオ局に見立てて通学していました。「好きなものを探してみて」と話す寺坂さんに、ラジオの魅力を聞きました。(『生きづらさを抱えるきみへ』withnews編集部/KKベストセラーズ より)

 僕の不登校は中学2年の夏頃から。言葉遣いをからかわれたりして、中学は大嫌いでしたね。学校に行かなくなる直前は、父親が学校に連れて行こうと、学校まで車で送ってくれていたのですが、私は休む理由がほしい。だから、朝食と少しの水を口に含んでおいて、校門前で吐いていました。嘔おう吐と のふりです。そして不登校が始まり、その後はその中学校には一度も行きませんでした。

 そんなある時、理由はわかりませんが、母がラジカセを買ってくれました。その頃は、昼夜逆転の生活。ふと深夜にラジオをつけたら『中居正広のオールナイトニッポン』が放送されていました。

多分、『がんばりましょう』の初オンエアと言っていたという気がします。

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 僕の中では、ラジオは夜中は放送されないものだと思っていたので、この時間に起きている人に向けてやっているんだというのがまず驚きで、それをきっかけにラジオを聴き始めるようになりました。ラジオには「居心地のよさ」みたいな感覚がありましたね。不登校時代で一番悩んでいた頃、あるFM番組のDJが「学校なんて行かなくていいんだよ」って言っていたんです。学校に行っていないと、「行かないといけない」って思うじゃないですか。地元だと後ろ指こそ指されなかったものの、「引きこもり」は生きづらかった。でも、DJのその言葉で、楽になった覚えがある。ラジオは、そうやって安らぎを与えてくれました。

 毎日、夜中はラジオを聴いていました。中学生のときに誕生日か何かで携帯ラジオも買ってもらうほどラジオ好きで。小学生の頃から、よくひとりで旅行に行っていたのですが、たとえば、住んでいた宮崎から大阪に高速バスで行く時などは、大阪までの道路を全部調べて、そこで聴けるラジオの周波数も全部調べました。RKK熊本放送、KBC九州朝日放送、KRY山口放送、RCC中国放送…というように。

旅のおともにラジオを聴いていました。だから、「大阪に行くとこの番組が聴ける」とか「東京に行くとあの番組が聴ける」などと楽しみにしていましたね。もちろん地元の宮崎でも聴いてたし、歩きながらも聴いていました。

『ナインティナインのオールナイトニッポン』で初めて投稿が読まれたときは、もう、うれしかったですね。興奮して家族を起こしちゃいました。「読まれた読まれた!」と。

 学校に行ってないような人間の投稿がラジオで読まれたことで自信が湧いたんです。認められたというか「自分が存在しているんだ」という感じでした。投稿を読まれてからは、テレビで活躍するナインティナインをみる目が変わったんです。知っている人、というか。おふたりの放送の中に、何かしらを残したんだという感じです。録音しておいたカセットを編集し、何度も何度もそこだけ聴きました。

 当時は地元から(ニッポン放送のある)東京の有楽町まで、はがきが届くかどうかも不安なわけです。なのでポストじゃなくて宮崎中央郵便局に行って出しましたね。それほど真剣でした。

 高校生になると、文化放送で『今田耕司と東野幸治のカモン!ファンキーリップス』がスタートし、はがきを投稿していたのですが、宮崎では深夜0時から1時までしか流れない。でも番組自体は2時までやっていました。2時間全部聴きたいから、1時までは(周波数が)936k

HzのMRT宮崎放送で聴いて、そこからは1134kHzの文化放送を聴きたいので、でかいラジカセを持ってベランダに出て、ラジカセを東京に向けて雑音混じりで番組を聴いていましたね。 宮崎放送で1時にその番組が終わる時、毎回同じテープが流れるんです。「ここで文化放送以外の方とはお別れです」と。そして、「このあとも聴きたい人は東京に行って聴いてください」と言うわけです。それを真に受けたというか。知識を広げるには東京に行くしかないなと思った。

「自分のハガキが読まれた!」深夜ラジオに救われた不登校の夜
 

 いま、放送作家としてラジオに関わっていて感じるのは、いいパーソナリティは、ラジオの向こう側のリスナーひとりひとりに語りかけるように話しているということです。

僕もラジオを毎晩聞いていた当時は、ラジカセが放送局の局舎にみえていました。そこに「こびと」がいるような気がしてくるんです。そのこびとたちがラジカセの中で動き回って番組を作り、僕だけのためにやってくれていると想像していました。だからラジオの世界が心地よかったんじゃないかなと思います。

 高校時代、妄想のラジオ局「東放送」を立ち上げていました。高校が「神宮東1丁目」にあったことから、学校を「東放送神宮放送センター」とし、「学校に登校する」ではなく「パーソナリティとして出勤」するという設定で学校に行っていました。高校に楽しく通い続けるための作戦です。あの頃は本気だった。

「東放送」はテレビ局も持っていたので、近くの公園は「東放送文化公園放送センター」としてバラエティーを撮っていたし、近くのレンタルビデオ店は「東放送メディアシティ」として、そこではドラマを撮っていた。「神宮放送センター」(学校)と、「文化公園放送センター」(公園)、「メディアシティ放送センター」(レンタルビデオ店)を循環するバスもあった。 学校にいても、そこは「東放送神宮放送センター」なので、職員室はアナウンス室、体育館はイーストスタジオ、などと細かく設定していたし、「文化公園放送センター」ではフェスもやってるイメージもあった。自分の中で世界ができあがっていました。

 進学した定時制高校のクラスには「やんちゃ」をしたことのある同級生もいれば、70歳くらいのおばあちゃんもいたし、コンビニでアルバイトをしていた24歳の同級生もいました。36歳くらいの女性もいたかな。そんな環境を「おいしい」と思っていましたね。自分が10代なのに、大人たちといるのはすごくたのしかった。不登校経験など何かしら悩みを抱えた人もいたし、普通の大人もいて、ある意味「社会」でした。僕は、養護学校を卒業していて、名簿の出身中学のところには養護学校って書いてある。でも誰も「病気なの?」とかは聞いてこなかったんですね。みんなそれぞれ苦労しているから、「他人に干渉するのはやめよう」という雰囲気があった。それが心地よかったですね。面倒なこともあったけど、居心地はよかった。高校時代のラジオ局の空想は、そんな生活をより楽しくするためのものでした。

 一方で、当時は「地元」がつらかったという思いもあります。

あと何日で卒業ってカウントダウンしていたくらいです。僕の場合は、地元がしんどかった。引きこもりだからといって後ろ指さされることはないけど、町が狭く生きづらかった。

 同じように地元がしんどいと思っている人に言えるのは、「旅をしてみて」ということかな。外に出て、好きなものを探してみることも、いい経験になると思います。

寺坂直毅(てらさか・なおき)

1980年生まれ。放送作家。『星野源のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『うたコン』(NHK総合)などを構成。宮崎県で高校卒業までを過ごし、専門学校入学のため上京。デパートの知識が豊富で、『胸騒ぎのデパート』(東京書籍)の著書もある。

Twitter:@terasakanaoki

(『生きづらさを抱えるきみへ』withnews編集部 より)

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