当時、航空本部長であった山本五十六少将が私のところへやってきて、
「どうも水を差すようですまんがね。君たち今は一生懸命やってるが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空が大事で大艦巨砲は要らなくなると思う」
と肩に手を掛けて言われたこともあった。とどのつまりは山本少将の言う通りの結果になったのである。
しかし私はその時、技術者のプライドを持って昂然と少将に答えた。
「いや、そんなことはありません。私たちは絶対にとは言えないまでも、極めて沈みにくい船を造ってみせます。これだけの可能性を考えて設計しているのですから」
といって「蜂の巣甲板」の話もしてみた。
少将は、
「ウム、しかし……」
と言われたきり、だまってしまわれた。今思えば、素手で白刃の中に飛び込んだ大和の末路を見はるかして居られたのであろうか。
だが再三述べる如く、当時我々としては、「人事を尽くして天命を待つ」心境だったのである。すでに青写真は私たちの手を離れていた。サイは投げられたのだ。
昭和13(1938)年、呉海軍工廠と三菱長崎造船所とで、今まで見たこともない雲突くような大型クレーンがうなり始めた。まず龍骨が置かれて、次第に我々の頭に描いていたものが尨大な空間に形造られてゆくのだった。
呉海軍工廠造船船渠。とくに呉の場合はドック建造だから船体は隠れてしまうが、長崎造船所の場合は、船台で船が組み立てられたから、「そのままでは、御覧下さい」と言わんばかりである。それゆえ、ここでは船台を棕櫚縄(シュロナワ)で地上200フィートの高さまで蔽った。これに使用した縄の総延長は2700キロメートルというから、東京長崎間の往復距離の2倍である。九州全土の棕櫚縄を使ったと言われるのもあながち誇張ではない。
しかしその規模が大きければ大きい程、留意しなければならないのは、「機密保持」の問題である。この新型戦艦建造のことが分かると、アメリカでも物量に物を言わせてこれに対抗する戦艦を造ることは必定だ。だから、いざという時まで出来るだけ事実を隠しておきたい。
46サンチ砲という大砲は世界最初の巨砲なので、これを九四式四十サンチ砲と呼びならわし「陸奥」や「長門」の搭載砲と同じ口径の新式砲であるかのように装った。
また遠方から工事現場を眺望出来ないように監視所を設置して、始終スパイを監視していた。
こうして人目を憚りながら、2歳にわたる陣痛を続けたあげく、ついに待ちに待った瞬間がやってきた。
第一号艦大和の進水式である。
昭和15(1940)年8月のある日、日も暮れなんとする頃、艦政本部に電報が届いた。
「ヤマトブジシンスイス」
これこそ、私たちがまるで息子の入学試験の合格通知を受ける時のような、期待と不安とで待ち望んでいたものである。なるほど計算の上では絶対合格の自信がある。しかし呉のドックは一杯いっぱいで、重心が一分でも狂っていると底がつかえて船が引出せなくなるのだ。万一そういうことにでもなったら、という気持があったのは否めない。それが、とにもかくにも進水したという、電報を受け取った時の私の気持を思ってもみて頂きたい。

後刻聞いたところによると、大和の進水が始まってからすっかり船体が海に出てしまうまで、軍楽隊が「軍艦マーチ」を7回も繰返し吹奏しなくてはならなかったそうだ。
船体だけでも3万トン以上もある巨体が、静々と海に乗り出して呉湾に一つの島をなしてゆく、その壮観が彷彿出来るではないか。
大和進水より約3月遅れて、2番艦「武蔵」の進水式があった。この方は船台から船がすべってゆく方式なので、大和の場合よりも技術上問題の起きる可能性がある。船台からの進水の失敗例は案外に多い。ただ我々がひそかに自信の拠り所となし、勇気づけられていたのは、数年前、英国の造船技術者たちによって見事に成功をみた「クイン・メリー号」の進水である。進水時の重量は「クイン・メリー」が3万7000トン、「武蔵」が3万5000トン。
英国で出来たことが日本で出来ないわけはない、といったところだ。
しかし、日本自身は、「ワシントン条約」によって廃棄された「土佐」の2万4000トンの前例しか持ち合せていないのである。こればかりはやれるだけやってみよう、ではすまされない。船が進水途中で頓挫して死傷者を続出させでもしようものなら、大変だ。
そのために、関係者は長い間、非常な研究、調査を行った。その結果の進水式である。その前から、私も平賀博士に同行して長崎造船所におもむき、我々の研究成果の試される瞬間を待った。
約700人の工員たちの、夜を徹して船体を進水台に移動させる突貫作業が終ったのが式の40分前。「武蔵」は今や支綱を切りさえすれば、産声をあげるのである。
◇平賀譲博士と堅い握手(「武蔵」無事進水す)海軍に奉職して30年。これまで幾多の進水式を見てきている。にもかかわらず、改めて身内が引きしまる思いだ。やがて、荘重に「君が代」が奏せられ、式台御名代の伏見宮軍令部総長をお迎えすると、海軍大臣の命名式である。
「……武蔵と命名せらる」

それから一時、何か重大な事が始まる前のあの静寂があたりを支配したが、やがて支綱切断の、槌を打つ音がして、私の目の前がパッと白くなった。
見ると、武蔵の巨体は間違いなく、動き出しているではないか。
それも、鷹揚な振舞いがその場の雰囲気を壮重にする所以であることを知りつくしているかのように心憎いぐらい静々と、である。艦尾が水に浸かる瞬間、しわぶきのような音がして、さざ波が立った。いうまでもなく、武蔵もまたとどこおりなく進水した証拠だった。我々の研究は報いられたのである。
「おめでとうございます」
「おめでとう」
平賀博士と私とは、堅い握手を交わして、喜びを分かったのだった。