織田信長は兵農分離の先駆けを行ったとされ、兵農分離を梃子にして強力な軍隊を創出し、天下獲りの礎にしたという。兵農分離とは武士の在地性を否定し、城下に集住させることで、武士と土地との関係を切り離した政策である。
中世を通じて、兵と農との身分は明確に線引きされていなかった。武士たちの多くは村落に住み、自身も直接農作業に従事し、戦争が起こると出陣していたのが実情だった。つまり、「兵農未分離」という状態だったのであり、近世の城下町の典型例のように、家臣らが城下に必ずしも集住したとは言えない。
天正10年(1582)に羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の後継者になった際、まず着手したのが太閤検地だった(実際は、それ以前から萌芽が見られる)。そもそも検地とは、農民支配と年貢の徴収を目的に実施される土地の測量のことだ。
太閤検地では、①兵と農を分離し、兵は農業に従事しない、②武士(兵)は村落から離れ、城下に集住する、という兵農分離策を推し進めた。同時に刀狩りなどが行われ、農民は兵士としての性格を失ったといわれている。ただ、実際に兵農分離は一足飛びに定着したのではなく、江戸時代以降にわたって少しずつ定着する。
信長が兵農分離を行ったという根拠は、『信長公記』天正6年1月29日の記事である。信長は天正4年から安土城築城を開始し、3年後の天正7年に完成した。その途中、徐々に配下の者を城下に住まわせていたようだ。
与一は一人で居宅に住んでおり、そのことを信長が問題視した。家族がいれば、火事の被害を押さえることができたと考えたのだろう。改めて調べると、120人もの馬廻衆・弓衆は、尾張に家族を残しており、今でいう「単身赴任」であることが発覚した。怒った信長は、尾張支配を任せていた長男・信忠に命じ、彼らの尾張国内の家を焼払わせた。こうして家を失った廻衆・弓衆の家族は、安土城下に住むことを余儀なくされた。
この事例から明らかなように、信長は馬廻衆・弓衆を城下に集住させ、兵農分離策をすでに行ったと指摘されている。つまり、近世城下町の先駆を成し遂げたのが信長であるとされ、その兆候は安土城に移る以前から確認できるという。
考古学の発掘調査によると、信長が永禄6年(1563)から4年間にわたり居城とした小牧山城には、武家屋敷の跡が残っているという。また、永禄10年から使用した稲葉山城(岐阜城)の麓には信長の居館があり、その周辺には重臣らの館があった。つまり、信長は城下に兵を集住させ、兵農分離を早い段階から意識していたことになる。
信長の配下の兼松氏は、天正4年に近江国に所領を与えられた(「兼松文書」)。
一方で、上記のような事例だけでは、信長により兵農分離が実施されたとは言い難いという、慎重な意見がある。当時、戦国大名の直臣(馬廻衆など)が城下町に住むことは、決して珍しいことではなかった。したがって、政策的に家臣を城下町に住まわせた兵農分離と、信長の事例を同列に考えてはいけないという指摘がある。
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