【中大兄皇子(天智天皇)】皇極天皇の子であり、乙巳の変では蘇我入鹿に一太刀浴びせた若き実行犯。通説では首謀者とも目されているが、近年では単なる実行犯にすぎないとの説も有力視されている。中臣鎌足と同じく大陸の政治や文化を学び、乙巳の変後に母・皇極から譲位された叔父・孝徳天皇の下では、実権を握って「大化の改新」を推し進めた。後に自らも天智天皇として皇位に就いたが、それまでは政権内での粛清に関わった事例が数多く見られる。■黒幕・鎌足がみせた活躍ぶりとは?
中大兄皇子を献身的にバックアップしたとされる中臣(藤原)鎌足だが、『日本書紀』の記述に加えて、奈良時代に成立した『藤氏家伝(鎌足伝)』を見ていくと、鎌足こそが真の黒幕であり、中大兄皇子は数ある手駒のひとつに過ぎないとも考えることができる。中臣鎌足とは何者なのかを知るには、大化の改新から1世紀、時計の針を戻す必要がある。
500年代後半、畿内豪族のリーダーである「大臣(おおおみ)」の蘇我馬子(そがのうまこ)と、天皇家譜代の代表格「大連(おおむらじ)」である物部守屋(もののべのもりや)が主導権争いをしていた。
蘇我氏は、物部氏の本宗家を息子に継がせることで、勢力に取り込んだ。本宗家が断絶した中臣氏は、この頃、常陸国(ひたちのくに)の鹿嶋(茨城県)の分家であった中臣鎌足の祖父が中央にやってきて、本宗家を継いだらしい。中臣氏の復興こそが、お家の重大事になったことだろう。
そうしたなかで614年、鎌足が生まれた。
鎌足はめきめきと才覚を現す。後世の粉飾もあるだろうが、幼年から勉強が好きで、とりわけ兵書の『六韜(りくとう)』をマスターしたという。蘇我氏が実質的な力を持っていた朝廷は629年、わずか15歳の鎌足に錦冠を授けて、宮廷の祭祀を司る中臣氏の家業を継がせようとした。
同じ時期に皇極(こうぎょく)天皇の弟で、皇族の有力者である軽皇子(かるのみこ)(後の孝徳天皇)も、足の病と称して隠遁している。そこの門をたたいたのが、鎌足であった。驚いたことに、31歳と若い鎌足を丁重に迎え、自分の部下(読み方によっては愛妃)まで与えているのだ。このことは、鎌足が当時の政界のなかでも特に注目されていた人物だったことを物語る。
ここから先の鎌足は、まさに「キングメーカー」だ。丁重な扱いを受けた軽皇子に対しては、「皇子こそ天下の王となるべき人だ」(日本書紀)と褒めておきながら、裏では軽皇子の器量ではクーデターという大事をともに謀(はか)れないから、次に仕えるべき君主を捜したと評価(藤氏家伝)し、軽皇子から離れていった。
次に10代の中大兄皇子に目をつけた。というよりも年配の軽皇子より、若い中大兄皇子のほうがコントロールしやすいと踏んだのだろう。さらに鎌足は、蘇我氏にくさびを打つことに成功する。分家に甘んじていた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)(入鹿の従兄弟)の娘を中大兄皇子と結婚させることで、謀略に引きずり込んだ。
クーデターの成功後、鎌足はまたも思いがけない手を打った。皇極天皇が息子の中大兄皇子に皇位を譲ろうとした時、鎌足は「年長をたてるべき」と反対して軽皇子の即位を実現した。天皇の決定をひっくり返すのだから、まさにキングメーカーである。
軽皇子はさきの「皇子こそ天下の王となるべき人」という鎌足の言葉を信じて絶対の信頼を与えただろうし、中大兄皇子もまた、自分のために道理を説いてくれる良きアドバイザーとして、さらに鎌足に傾倒(けいとう)していった。こうして陰の存在ながら、中臣氏は単なる祭祀の専門家ではなく、かつての蘇我氏に匹敵する政治の実力者に昇り詰めさせた。死の直前に、中臣氏をこえる氏として「藤原」を天智(てんじ)天皇(中大兄皇子)からもらった鎌足の野望は、表の世界の実力者として君臨した息子の不比等(ふひと)によって完成される。

《「乙巳の変」の黒幕は誰だ? 第5回へつづく》