江戸時代、武家屋敷や商家を問わず、主人が女の奉公人に手を出すことは多かった。
いっぽう奉公人からすれば、当時は住込みが原則だったから、ひとつ屋根の下で生活しているわけであり、いったん主人に狙われると、ほとんど逃げ場がなかった。そんな例を『藤岡屋日記』から、ふたつあげよう。
(一)
お花は安房の天津村の船大工のひとり娘だった。両親はいずれお花に婿を取るつもりだったが、「二年ほど江戸で奉公させ、世間を見せてから婿をもらったほうがいい」と考え、茅場町にすむ商人平助の家で女中奉公させた。
そのうち、平助がお花に手をつけた。平助の女房がこれに気づいた。嫉妬深く、しかもヒステリー傾向のある女だった。お花にさんざん折檻を加えた上、家から追い出してしまった。
追い出されたお花は坂本町のろうそく問屋で下女奉公を始めた。坂本町と茅場町は近所である。平助の女房はお花が近所で奉公しているのを知るや、ろうそく問屋に押しかけ、「このお花は尻軽女ですよ。
大勢の人の前でののしられ、お花は悔しくて仕方がない。安政元年(1854)十二月五日の夜、平助の家に火をつけようとしたが失敗した。続いて十八日と十九日の夜にも火をつけようとしたが、うまくいかなかった。
お花が放火しようとしているのを近所の女が見つけ、訴え出た。お花は町奉行所に召し捕られた。
当時、放火は大罪だった。たとえ放火未遂でも極刑に処された。
安政二年四月十八日、お花は鈴ヶ森の刑場で火刑(火あぶり)に処された。このとき、お花は十九歳だった。
(二)
島田権三郎は六百石の幕臣で、屋敷は駿河台稲荷小路にあった。
いやになったお屋寿は島田の屋敷を逃げ出し、実家に帰ってしまった。
しばらくして、お屋寿が妊娠していることがわかった。父親が島田に掛け合ったが、「そんなことは知らぬ。あの女がほかの男と不義密通をしたのであろう」と、まったく取り合ってもらえない。
そこで、お屋寿の父は奉公を紹介した口入屋と相談の上、島田の上役にあたる組頭に嘆願書を差し出した。これで島田のふしだらがあきらかになった。上役に知られてしまった以上、島田も言い逃れはできない。安政二年六月、島田が八両を支払って内済(示談)が成立した。
(二)の場合は、武士をぎゃふんと言わせただけに小気味いい部分もあるが、(一)のお花は哀れと言うしかない。