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アカデメイアと多数の著作の成功により、名声と地位を確かなものとしていたプラトンに大きな転機が訪れたのは60歳を過ぎた頃だった。シュラクサイのディオンから、先代の後を継いだ独裁者ディオニュシオス二世の教育者となることを要請する手紙が届いたのである。
プラトンは、はじめは躊躇ったものの、手紙や使者が何度も送られてくると熱意に押され、ついに二度目のシチリア行きを決意した。
国を統治する者が哲学者となれば、国家は法と正義で満たされ、市民の全てが幸福な生活を送れるようになるとするのがプラトンの理想国家論である。
ディオニュシオス二世を哲学者として教育することができれば、自らの理想を実現させられるのではないか。シュラクサイに向かう船の中で、プラトンは20年前のほろ苦い思い出とディオンへの恋慕と共に、希望と不安で綯い交ぜになった心境になったことだろう。
シュラクサイに到着したプラトンは国を挙げた盛大な歓迎を受けた。迎えの馬車が来て、若き独裁者ディオニュシオス二世と家臣達から敬意を持って受け入れられると、たちまち宮殿の中では哲学の議論で盛況になった。床の上に撒いた砂の上に図形を描いて皆が議論したために、宮殿中に砂埃が舞い上がるほどだったという。
ディオニュシオス二世はプラトンの講義を熱心に聞き入った。
だが、シュラクサイの国家体制は一枚岩ではなかった。三度目のシチリアで待ち受けていたもの
権勢を誇るディオンを苦々しく思っていた反ディオン派がディオニュシオス二世の耳に有る事無い事を吹き込み、ディオンを追放させたのである。
ディオン追放後も、プラトンはディオニュシオス二世に懇願されて、シュラクサイに留まった。実際には城から外に出られない状態だったようだが、負けず嫌いな性格のディオニュシオス二世はプラトンに対してディオン以上の親友になるように頼んだのである。
プラトンも懸命にディオニュシオス二世に講義をした。だが、この独裁者はディオンほどには聡明な人物ではなかったのかもしれない。多くの時間を費やしても、プラトンが満足いくほどには哲学を理解させられなかった。そうこうしている内にシチリアに戦争が起き、プラトンはアテネに帰国することとなった。
シチリアから追放されていたディオンは、アテネのアカデメイアに滞在して哲学者たちと議論をする日々を送っていた。
だが、シチリアでの戦争が終わると、ディオニュシオス二世からプラトンに再びシュラクサイへ訪れるように要請する手紙が届けられる。当初はその要請を断ったプラトンだったが、度重なる手紙の中で独裁者がディオンの地位をプラトンが望む通りにすると約束し、ディオン本人も再度の教育を望んだことから、三度目のシチリア行きを決意することとなった。
シュラクサイに到着したプラトンに対して、ディオニュシオス二世は多額の金と多くの権限を渡そうとした。だが、プラトンはそれを受け取らず、ただ哲学の教育に打ち込もうとした。
プラトンがシチリア行きを決意したのは、ディオンの財産と地位の回復のためという目的も大きかったのだろう。だが、ディオニュシオス二世は約束を守らず、ディオンの財産の処分を勝手に決めようとしたり、ディオンの妻を他の男と無理やり結婚させたりした。ここに至ってプラトンは見切りをつけ、ついにシュラクサイを去ることとなった。
ディオニュシオス二世は別れ際に「あなたは哲学者の仲間たちに私のことをさぞかし悪く言うのでしょうね」と言った。それに対してプラトンは「いや、アカデメイアでは他の議論に事欠きませんから、あなたのことまで口にすることはありません」と答えたそうだ。プラトンの失望と怒りが滲み出た言葉である。
その後、ディオンは兵力を率いて蜂起し、一時はシュラクサイの実権を握ることに成功するが、やがて暗殺されて、シュラクサイは再びディオニュシオス二世の支配下に置かれることとなった。
再びアカデメイアに戻ったプラトンは、最早政治に関わることはなく、最期まで哲学の講義、研究、執筆に打ち込んだ。
亡くなったのは81歳の時で、机の上で執筆をしながら死んだ、もしくは結婚式の宴に出席している最中に死んだと言われている。死後、プラトンの遺体はアカデメイアに葬られた。
アカデメイアはその後、東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世が閉鎖を命じる紀元529年まで、約900年もの間続いた。ローマからアテネに留学したキケロは、プラトン的な哲学を元にしてラテン語で多数の著作を残したが、やがて中世、近代のヨーロッパ文化の大きな源流となっていった。
プラトン自身の政治への挑戦は失敗と挫折に終わったが、政治に関わる者は理性的で正義に従う人物でなければならないとする考え方は、西洋の政治の在り方の基礎となっている。
プラトンの著作は尊敬するソクラテスの思想を何とかして書き残そうとする執念に満たされていた。その理想国家論は、ソクラテスを殺したポピュリズムへの反発に基づいているが、約2400年経った現代でも続いているポピュリズムを見たらプラトンは何を思うだろうか。
【前篇 不朽の名著「国家」が生まれるまでにあったプラトンの葛藤】