かくしてソ連・共産主義の脅威や、ルーズヴェルト民主党政権内部における
ソ連のスパイたちの暗躍を追及することは、マスコミやアカデミズムではタブ
ー視され、保守派が内部で隠れるようにして研究と議論をするだけにとどまっ
てきたのです。
ところが、一九九五年、アメリカ政府が公開したヴェノナ文書によって、ル
ーズヴェルト政権内部にソ連のスパイたちがいたことが「事実」であると判明
しました。
アメリカのサヨク・マスコミから全否定されていた、チェンバーズやベント
レーの証言は大筋で事実だったことが立証されただけでなく、ソ連の工作がそ
れまでに考えられていたよりはるかに計画的・体系的で強力なものであったこ
とが明らかになったのです。マッカーシー上院議員の告発も、内容自体はほぼ
正しかったことが現在では判明しています。
その結果、アメリカでは、一九九一年のソ連崩壊後、エリツィン大統領がソ
連時代のコミンテルン・KGB文書の一部(リッツキドニー文書と呼ばれる)
を西側研究者に公開したこともあいまって、ルーズヴェルト政権やその後継の
トルーマン政権の実態解明が進み、当時に関する歴史観の見直しも急速に進ん
でいます。
また、マッカーシーへの批判があまりにも強かったことから、一九四〇年代
後半から一九五〇年代にかけて、アメリカの連邦議会の下院非米活動委員会や
上院国内治安小委員会などで議論されたソ連のスパイ工作を巡る膨大な証言録
や報告書はこれまで、「反共ヒステリーの時代の産物」として軽視されてきた
のですが、ヴェノナ文書公開によって、これらが貴重な情報の金鉱であること
が改めて浮き彫りになりました。
現在の目でこれらの議会記録を読み返してみると、戦後間もない頃からすで
に、かなり真相に迫っていたことに改めて気付かされます。
議会の証言録は、太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations, 略称IPR)というシンクタンクひとつを扱ったものだけでも五千ページに達しています。
この太平洋問題調査会は戦前、ルーズヴェルト政権と連携して日本の中国「侵略」宣伝を繰り広げたシンクタンクとして有名ですが、その研究員の多くがソ連と中国共産党のスパイであったことがヴェノナ文書によって明らかになっています。
■連邦議会はコミンテルンに強い警戒心を抱いていた ここで連邦議会、政府と、コミンテルンの秘密工作の関係についても基本的な事実を紹介しておきたいと思います(以下、米国下院非活動委員会編(時局問題調査会訳)『共産主義について知つておかねばならぬ600事項』立花書房、一九五一年、及び黒川修司『赤狩り時代の米国大学』中央公論社、一九九
四年を参考にさせていただいた)。アメリカの連邦議会は一九一九年にコミンテルンが創設された当初から強い警戒心を抱いており、その関係の会合が首都ワシントンDCで開催されたことから、上院は直ちに特別委員会を設置して、その調査にあたっています。
翌一九二〇年には、ハミルトン・フィッシュ及びジョン・マッコ―マック下
院議員をそれぞれ委員長とする特別委員会がいわゆる「外国からの脅威」を調
査するため下院に設置されました。
その後、ナチス・ドイツの台頭を受けて民主党のマーティン・ダイス下院議員が「今にしてアメリカにおける全体主義諸国の宣伝を鎮圧しなければ国内に革命が起こるかも知れない」として、国内における非米的活動及び宣伝の調査のため特別委員会設置に関する決議を採択、ダイス委員長をはじめとする七名の超党派の「非米活動及び宣伝調査特別委員会」(通称ダイス委員会)を設置したのです。
「非米(un-American)」とは、共産主義やナチズム、ファシズムは階級的憎悪または人種的憎悪を基盤とする無神論的政治哲学であり、デモクラシーを奉じるアメリカの政治的伝統を壊すイデオロギーであって認められないとの考
え方を示しています。
この委員会の委員長になったダイス下院議員は与党民主党所属でありながら、テキサス州出身の保守派でした。このため、特別委員会と政権は対立し、ルーズヴェルト政権に対して調査員及び法律専門家の派遣並びに調査資料の提供を要請しましたが、政権側はその申し入れを断っています。
以後、この超党派のダイス委員会は反ルーズヴェルト政権の牙城のような様相を呈しました。政権内部に共産主義者が入り込んでいるとの非難を繰り返し、当時、「反日親中」の宣伝を繰り返していたアメリカ共産党系の「アメリカ平和デモクラシー連盟(American League for Peace and Democracy)」の郵送リストを入手して、そこに記載されていた五百六十三名の連邦政府職員の名前を公表したりしたのです。
戦後の一九四六年秋の中間選挙で共和党が勝利すると、共和党のJ・パーネル・トーマス下院議員が委員長に就任したことからトーマス委員会と呼ばれ、正式名称も「下院非米活動委員会(The House Committee on Un-AmericanActivities、HUAC)」に変更されました。
このトーマス委員会は一九四六年十月、検事総長に書簡を送り、「アメリカ共産党並びにモスクワの指令に基いてアメリカ国内で活動をしている工作員たちは、アメリカの行政の正常な機能に対する一大障害となっており、政府は直ちにこれを是正すべきである」と述べ、共産党が訴追される理由として次のような点を挙げています。
一、共産党は外国政府の機関として外国の支配下にあるものであるから検事総長のもとに登録されていなければならない。
二、外国元首の機関となっている個人は、国務長官のもとに登録されなければならないのであるが、共産党の役員は誰も登録されていない。
三、共産党及び同党選出議員は上院及び下院の選挙費会計報告を提出すべきことを規定した連邦腐敗防止法にこれまで従っていない。
四、『デイリー・ワーカー』及び『ニュー・マッセス』その他の共産主義の刊行物は第二種郵便物の取扱いを受けているが、これは宣伝物撒布のための郵便利用を禁止する法律に違反している。
五、共産党は多数のフロント団体を持っているが、これらの団体は慈善団体もしくは愛国団体であると主張しているため所得税を免除されている。
こうした連邦議会の動きを受けてトルーマン民主党政権も一九四七年三月二十一日、政府職員に忠誠・機密保持の計画を実施する大統領令第九八三五号を出しています。
国家の安全保障が重大問題となっている今日、「政府内に一人でも不忠誠な
、破壊的な人物が存在することは、わが国の民主主義に対する脅威となる」として、「連邦政府に雇用されている人は、合衆国に対して完全で不動の忠誠心を持つことが決定的に重要である」としたこの大統領令に基づいて、「忠誠調査委員会」が設置され、連邦諸機関や国際機関に勤務する全職員を対象として、司法長官が破壊活動と指定した約八〇の団体(一九五一年一一月二九日のリストでは二六一団体に増加していた)と彼らがかかわりないかどうかを含む忠誠審査が実施された。軍人を含む主要政府機関の職員から始まり、国防省や原子力委員会と契約関係にある私企業の従業員、さらに米国内にある国際団体に勤務する米国民まで、約六〇〇万人を対象とする忠誠計画が実施されたのである。(黒川修司『赤狩り時代の米国大学』一一八頁)
この計画で不採用または解雇された者は五百六十名、審査中に自ら志願を撤
回または辞職した者は六千八百二十八人にのぼりました。
一方、下院に設置されたダイス委員会はその後、本書でも取り上げている国
務省幹部アルジャー・ヒスらによるソ連の工作活動に関して頻繁に公聴会を開
催し、一九四八年八月二十二日、ソ連の工作員に関して、次のような中間報告
書を公表しています。
①第二次世界大戦中および戦後において政府機関内においてアメリカ共産党並びにその機関と協力し、ソ連に情報を提供したスパイ活動が存在した。
②このスパイ事件の徹底的究明のため調査続行の必要がある。
③不忠誠政府職員の追放に関して本委員会は、政府機関(当時はトルーマン民主党政権)と十分協力しつつある。
④検事総長に対してこのスパイ事件に関する公聴会の全記録を提供しており、このスパイ事件に対する責任は専ら司法省側にある。
⑤いままでの調査並びに公聴会の結果により、スパイ活動及び不忠誠な目的を隠蔽しようとする共産主義者の巧妙な戦術に対して新規立法措置が必要である。
この下院の動きは上院にも波及し、一九五〇年二月二十三日、上院外交委員会に、この共産主義の問題を扱う小委員会が設置されました。
親ソ的発言を繰り返したオーウェン・ラティモア民主党のタイディングズ下院議員が委員長を務めたことから、通称タイディングズ委員会と呼ばれたこの小委員会において共和党のジョン・マッカーシー上院議員が、「アメリカの極東政策の主要な決定者の一人」であったオーウェン・ラティモアを「共産党のシンパ」だと非難し、大きな政治問題となりました。
こうした連邦議会における記録やヴェノナ文書の公開を踏まえ、ソ連とルーズヴェルト民主党政権の責任を追及する保守派のリーダーの一人こそ、前にご紹介した『スターリンの秘密工作員』の著者の一人、エヴァンズです。
この本は、浩瀚【こうかん】な史料に基づいて、スターリンが強力なインテリジェンス(情報・諜報)工作でアメリカをいかに翻弄したか、その全体像を描き出しています。

特に、それらの工作の集大成がヤルタ会談であるととらえ、ヤルタ会談で実入際にどんなことが起きていたのかを、これまで公刊されてこなかった当事者の日記などの記録や、一九四〇年代の終わりから連邦議会で行われてきた調査や証人喚問の議事録や報告書などをもとに掘り下げています。
そして、ヤルタ会談に至ったアメリカのインテリジェンスの敗北の原因を、歴史をさかのぼって分析しています。
今や相当な量に達したデータが示しているように、強力で邪な敵が、一九四
〇年代半ばまでにアメリカ政府(およびその他の影響力のあるポスト)に無数
の秘密工作員とシンパを配置することに成功した。これら工作員たちは政府の
中でソ連の国家目的に奉仕し、アメリカの国益を裏切ることができた。
アメリカ国民がおめでたくもこんな危険を全く知らずにいた一方で、かなり
の数の政府高官たちは、あるいは無関心を決め込み、あるいは加担していた。
我が国の治安と安全にとってこれ以上に警戒を要する事態は想像するのも難し
い。(『スターリンの秘密工作員』p.5, )
アメリカはソ連の秘密工作員たちによって内側から散々に食い荒らされ、国を守るべき指導者たちはそれに手を貸したり、見て見ぬふりをしたりしていた──エヴァンズらには、アメリカがまさに亡国の危機だったのに、その歴史が明らかにされてこなかったことへの切実な危機感があるのです。これは日本の危機でもありました。
(『日本は誰と戦ったのか』より抜粋)