安部公房は「文」の人であり、また「士」と呼ぶに値する高い見識と志を有していたが、ふたつの言葉を合わせた旧来の「文士」という作家のあり方を超えた、独特の言語藝術家だった。
公房は1924年3月7日に、東京府北豊島郡滝野川町西ヶ原(現・東京都北区西ヶ原)で生まれた。翌年に、母ヨリミとともに父安部浅吉のいる満洲に赴き、2歳から16歳まで奉天(現・瀋陽市)で暮らした。
日本に戻って成城高校に進学するまでの多感な時期を大陸で過ごしたこと、そして育った町が奉天というバロック様式の都市であったことが、他の日本生まれ日本育ちの作家たちとは一線を画する作品世界を生む源となった。
高校卒業後は東京帝国大学医学部に進学。45年1月に奉天に戻り、そのまま敗戦を迎えた。
10代のときから『世界文学全集』を読み、リルケ、エドガー・アラン・ポー、ドストエフスキー、カフカ、ニーチェに熱中した未来の大作家は、当時親しく哲学談義を交わした友人に宛てた書簡で、「リルケを読んでください」と熱っぽく語ることもあった。
この頃すでにその後の創作のテーマは完成していた。18歳のときに書いた成城高校の校友会誌『城』に掲載された論文『問題下降に依る肯定の批判』で安部は次のように書いている。
「実を云えば現代社会はそれ自体一つの偉大な蟻の社会に過ぎないのだ。無限に循環して居る巨大な蟻の巣。而(しか)も不思議に出口が殆どないのだ。」
出口のない閉鎖空間=現代社会からいかに脱出するか。
23歳のときに『終りし道の標(しる)べに』を刊行し、27歳で『壁―S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞。戦後の前衛作家の代表と目されるようになり、以後、文学史に残る傑作を次々と発表していく。
1962年、38歳のときに著した『砂の女』では、人間を支配する不条理な社会を砂に見立て、そこから逃れようとジタバタする男を描いた。白く乾いた砂丘になかば埋もれた家に迷い込んだ昆虫採集家は、そこに住む女と同居することになってしまう。やがて「砂」から脱出するチャンスをつかみながらも、男は村人たちを救うべくそこに残ることを決意する。そして男は思う《べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。》と。『箱男』(73年)は会社も家庭もすべての「帰属」を捨てた「人間」の手記だ。
60年代以降、世界的な作家となった公房には、フランスのアラン・ロブ・グリエ、イギリスのデヴィッド・ミッチェル、アメリカのポール・オースターなど、海外の作家のなかにも愛読者が数多い。
人間とはいったい何か――。
この問いかけを、乾いた文体と黒い笑いと辛辣な警句を散りばめて書き続けたのが安部公房だ。
〈雑誌『一個人』2018年4月号より構成〉