迷宮入りとなってしまった、歴史上の数々の「事件」。その真相とは? そして犯人はいったい誰なのか? 小和田泰経氏が“歴史警察”となり、残された手がかりから真相に迫る連載「あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察」。
今回は「近江屋事件」を取り上げる。■事件の概要

 慶応3年(1867)11月15日、京都の河原町にあった土佐藩用達の醤油商近江屋において、土佐藩士の中岡慎太郎と坂本龍馬とが暗殺された。これが、世に言う近江屋事件である。中岡慎太郎は武力倒幕を目指す軍事力として陸援隊を組織し、坂本龍馬は海運を担う海援隊を組織していた。坂本龍馬はそれまで薩摩藩の定宿であった寺田屋を宿所としていたが、慶応2年(1866年)正月に、幕府の伏見奉行による襲撃をうけてしまう。いわゆる寺田屋事件である。このとき、寺田屋は30人ほどの捕り手に囲まれたが、1階で風呂に入っていた恋人のお龍が裸で階段を駆け上がり、2階にいた龍馬に危険を知らせたというのは、有名な話である。龍馬は、所持していたピストルで応戦したが負傷し、お龍とともに薩摩藩邸に逃げこんだ。龍馬が近江屋を定宿とするようになるのは、近江屋事件がおきる直前のことである。

 

 龍馬が近江屋を定宿とするようになって1か月ほどしたこの日、中岡慎太郎が、近江屋に龍馬を訪ね、2階の8畳間で、龍馬と話し合いをしている。その内容は、京都の三条大橋に掲げられた長州藩を咎める制札を引き抜いて新撰組に捕らえられた土佐藩士の宮川助五郎の処遇であったという。中岡慎太郎は、その身元引き受けについて坂本龍馬に相談するため、近江屋を訪れたのだった。


 その後も話は盛り上がったらしく、夜になったころ、近江屋に来客があった。元力士で龍馬の従僕をしていた藤吉が階下におりると、その来客は十津川の者だと名乗る。しかし、この来客こそが、実は刺客だったのである。藤吉が龍馬に取り次ぐべく2階にあがったところ、背後から刺客に斬りつけられてしまう。このとき、2階にいた龍馬は、「ほたえな(騒ぐな)」と怒鳴ったが、すでに藤吉は、絶命していた。2階に上がった刺客は、部屋に侵入して中岡慎太郎に一撃を浴びせると、もう1人の刺客が龍馬に斬りかかった。刺客の襲撃を予想だにしていなかった2人は、防戦するまもなく斬られてしまったことになる。動かなくなった2人を見た刺客は、「もうよい、もうよい」と言って立ち去ったという。すぐ向かいにある土佐藩邸から救援が来たときには、すでに刺客は近江屋にはいなかった。このとき、龍馬は即死したとされ、中岡慎太郎は2日後の11月17日に息を引き取った。

■犯人は誰か?
坂本龍馬暗殺の犯人は誰か? 被疑者の動機と状況から捜査するの画像はこちら >>
イラスト/ 羽黒陽子

 実行犯は、中岡慎太郎と坂本龍馬を死傷させたまま逃走した。そのため、いまとなっても、犯人は断定されていない。

新撰組、京都見廻組、薩摩藩、紀州藩、土佐藩が黒幕として挙げられている。いずれも、坂本龍馬と中岡慎太郎とはなんらかの接点があり、暗殺は可能かもしれない。ただ、実際に暗殺を遂行する動機があったのか、それぞれの被疑者がおかれた状況からみていくことにしよう。

1、新撰組
 当時からまず被疑者とみなされたのが新撰組である。新撰組は、文久3 年(1863)、剣術に秀でた浪士を中心に、京都の治安維持にあたった幕府の組織を指す。当然のことながら、幕府の方針に反する尊王派の志士を取り締まることも任務のひとつであり、元治元年(1864)には、京都三条の旅館池田屋で謀議をしていた長州藩・土佐藩などの志士を襲撃し、殺傷している。そのようなわけで、新撰組がまず疑われたというのも、ゆえなきことではない。ただ、このときの新撰組は、新撰組から離脱した伊東甲子太郎が結成した御陵衛士と対立しており、近江屋事件を引き起こす余力はなかったろう。実際、近江屋事件の3日後の11月18日、新撰組の近藤勇らは、京都の油小路で伊東甲子太郎らを暗殺している。

2、京都見廻組
 京都見廻組も、新撰組と同じく、京都の治安維持にあたった幕府の組織である。浪士から選ばれた新撰組と異なり、京都見廻組は剣術に秀でた旗本の次男や三男のなかから選ばれている。京都見廻組は、れっきとした武家の出身で、そういう経緯から、京都の要所を管轄していたらしい。

近江屋事件がおきた時点では、京都見廻組が実行犯として注目されることはなかった。しかし、明治3年(1870)、箱館戦争で降伏した隊士の今井信郎が、犯行を自供したことから、にわかに脚光を浴びることになる。自供をしたのだから、京都見廻組を実行犯と認めてもよいのかもしれない。しかし、幕府の治安維持組織として殺害している以上、暗殺ではなく、正当な権力の行使として公表することもできたのに、あえてしなかったのはなぜなのか。いずれにしても、今井信郎は裁判の結果、禁固刑が科せられており、その後は、特赦により釈放された。

3、薩摩藩
 武力で倒幕を目指す薩摩藩にとって、大政奉還に尽力した坂本龍馬は邪魔な存在であったため、暗殺におよんだものとする。大政奉還とは、幕府が朝廷に政権を返上することをいう。将軍は朝廷から任命される官職であり、最後の将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上したことで幕府は消滅し、倒幕派が大義名分を失うことになったのは確かである。ただ、大政奉還に坂本龍馬が関わったのは確かであっても、その主導的な役割を果たしていたわけではない。それに、中岡慎太郎にしても坂本龍馬にしても、倒幕を否定していたものではなかったから、薩摩藩とはなんら利害が対立するものでもなかった。なにより、薩摩藩の中心にいた西郷隆盛は坂本龍馬とは親しく、暗殺を命令したとは考えにくい。

4、紀州藩
 近江屋事件がおこる半年ほど前の慶応3年5月26日、坂本龍馬率いる海援隊が伊予大洲藩から借り受けて長崎から大坂に廻航させていた蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海で紀州藩の藩船と衝突し沈没してしまう。

紀州藩は、徳川御三家のひとつであり、幕府にも近い。しかし、坂本龍馬は、この紀州藩を訴え、賠償金を支払われている。この交渉を不服とする紀州藩が近江屋事件を引き起こしたとするが、実際、海援隊士の陸奥宗光らは、賠償交渉の責任者であった三浦休太郎が新撰組をけしかけたとみていたらしい。12月7日、京都六条の旅籠天満屋に投宿していた三浦休太郎を、陸援隊と海援隊が襲撃したのである。これを天満屋事件という。このとき、三浦休太郎は新撰組に警護を依頼していたため、陸援隊と海援隊は新撰組と斬り合いになり、結果的に、三浦休太郎を殺害することはできなかった。

5、土佐藩

坂本龍馬暗殺の犯人は誰か? 被疑者の動機と状況から捜査する
イラスト/ 羽黒陽子

 坂本龍馬と中岡慎太郎は、ともに土佐藩の出身であったが、その土佐藩が黒幕だったとの見方もある。坂本龍馬が土佐藩邸に入らず、近江屋を定宿としていたのは、自由に生活できるからといわれることもある。ただ、土佐藩を頼りとしたい反面、土佐藩邸には意見を異なる藩士がいて、身の危険を感じることがあったのかもしれない。わざわざ土佐藩邸とは目と鼻の先にある近江屋を選んだのも、それが理由であったろう。土佐藩のなかでも、特に後藤象二郎が、大政奉還の功績を独り占めするため、殺害したとの見る向きもある。しかし、大政奉還はなにも中岡慎太郎や坂本龍馬だけで成し遂げられたものではないし、両名を殺害したからといって、後藤象二郎の評価が高まるわけでもない。

■極めて現実的な怨恨

 さて、こうみてくると、もっとも疑わしいのは、やはり京都見廻組ということになる。坂本龍馬は、前年の寺田屋事件で伏見奉行所の役人数名を殺傷しており、幕府に狙われる理由は十分にあった。それは、坂本龍馬の進めた大政奉還に異を唱える佐幕派の鬱憤といった政治的なものではなく、幕府の役人を殺害したという極めて現実的な怨恨によるものであったことになる。幕府見廻組が、自力で坂本龍馬の潜伏先を見つけたのかはわからない。伏見奉行所の役人か紀州藩士など、坂本龍馬に個人的な恨みをもつ人間が、京都見廻組に情報を流した可能性もある。いずれにしても、こうした情報をもとに、京都見廻組は、坂本龍馬の暗殺に及んだのではないか。京都見廻組がこれを公表しなかったのは、幕府の許可を得たものではなかったからであろう。有志が実力行使におよんだものであり、そのため、暗殺という手段を用いたものと考えられる。

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