■談志が弟子に求めた昇進基準
立川流の「二つ目、真打ちへの昇進基準」はなぜ厳しかったかの画像はこちら >>
 

 1年2ヶ月の長きに渡る見習い生活から「前座」になった談慶さん。見習い時代とさほど生活は変わりませんが、ここからようやく噺家としての本格的な修行が始まります。

ところで、この落語界独特の制度である「前座」に「二ツ目」、そして「真打」という身分、どうやって決められるのでしょうか。江戸落語と上方落語でも違いがありますが、実は「家元」立川談志師匠を頂点とする「落語立川流」には、明確な昇進基準がありました。それを満たさなければ、例え先に入門したとしても、弟弟子に先を越されることもあったようです。今回はそのあたりのお話、『談志が弟子に求めた昇進基準とは』をうかがっていきましょう。

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 もし落語界に前座をはじめとする身分制度がなかったら、いったいどうなってしまうのでしょう? そんなことをたまに考えます。

 正確に言うと、前座の頃はずっと「前座というランクはなんであるのだろう」とばかり考えていました。

 上方落語界では、東京落語界の前座に相当する期間を「年季」といいます。前座修業を終えれば、晴れて「年季明け」という身分になり、東京でいう「二つ目」という地位に認定されますが、そこから先は「真打ち」というランクは存在しません。

 これはあくまで私個人の推測ですが、関西が「売れへんかったら真打ちも何もないやろ」の「リアリスト」の了見で、対する東京落語界は「真打ち昇進」という「夢」に向けて芸に精進する「ロマンチスト」の了見という違いではないかとの仮説を立てています。むろん、極論ゆえに異論はあるでしょうが。

 ここで「二つ目、真打ちへの昇進基準」について述べたいと思います。

 他団体では真打ち、二つ目への昇進基準が「ほぼ年数」というざっくりとしたものに対し、師匠談志存命中の立川流では非常に確固たる昇進基準を設けていました。

「二つ目」の昇進基準は「古典落語五十席に歌舞音曲」、「真打ち」は「古典落語百席に、二つ目より精度の高い歌舞音曲」とハッキリしています(実はこの昇進基準が、見様によっては師匠のその日の気分によって変化してしまうように見えてしまうのが、より複雑にさせることになってしまうのです。これについては後述します)。

 師匠談志は、なぜここまで詳細で厳密な昇進基準を設定したのでしょうか。 

 ご存じの方もいるでしょうが、わが立川流は「真打ち昇進基準をめぐる諍(いさか)い」から、今から30年ほど前に落語協会から独立しました。まあ、「独立」したはこちら側の言い分です。向こう側は「追い出した」と言うのですが。

 もともと脱退の理由がそこにある以上、団体としての節度をキープする根本が昇進基準にあると師匠は睨(にら) みました。言わば、立川流設立の根幹部分が「昇進基準」そのもの、もっというならば「原罪」みたいなものなのです。

 それを緩めれば、立川流は立川流でなくなるのです。だから厳しいのが当然なのです。

 二つ目昇進が思いのほか長引いていた時期に、師匠は「俺が厳しい基準を設けているのは、お前らのそれを手に入れた時の喜びの大きさのためなのだ」とまで言ってのけたことがありました。さらに言えば、「前座を厳しくしてやったほうが、より二つ目昇進へのモチベーションは加速する」とまで考えて振る舞った人でした。

 

 そう、「前座を長くやっている」というのは、明確な昇進基準を決めている師匠から見れば「二つ目になる意志がない」=「前座が快適なのだ」と、またもやここで超合理的思考で処理してしまうのです。つまり「昇進基準をクリアする」ことこそが、師匠と「価値観を一致させる」なによりの証左なのです。

 わかりやすく言うと、有機体である立川流と結合されたパーツになるための審査資格が、「昇進基準」なのです。今風のゲームっぽく言うならば、談志が極めた「さらなる芸の奥義への世界」への「パスワード解読」こそが「昇進基準クリア」なのです。

 これは実際はどうであれ、弟子たちには「選民意識」が促進され、ますます結束力が高まる結果をもたらすのです。

「お前が、どんなに嫌いなやつだとしてもな、俺は基準さえクリアしたら二つ目にしてやるんだ。逆にどんなにお前を好きだとしてもな、基準を満たさなきゃ昇進させないんだ」

 そう言われたこともあります。

 師匠談志は、自ら設けた基準で自らにも縛りをかけていたのです。これが立川流、そして談志の凄さなのです。

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 日本の一般企業も、仕事の成果や実力で評価されるようになってきたとは言え、まだまだ年功序列の感が残っています。しかし、立川流では落語の実力だけでなく歌舞音曲、つまり歌や踊りまでも昇進基準に入っているのです。これは一見破天荒に見えた談志師匠が、“芸人たるもの幅広い芸に通じていなければダメだ”という伝統を重んじる方だったからではないでしょうか。

そのためには、修行時代は人格や個性を認めない、基本に忠実であれということなのでしょう。次回はそんなお話を談慶さんなりの視点と分析でお送りいたしましょう。

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