江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■遊女の法要。背景にあった残忍さ

 文化七年(1810)十月末、浅草の慶印寺で、死亡した妓楼「中万字屋」の遊女の法要がおこなわれた。

 吉原では年季中の遊女が死亡した場合、死体は菰で包まれて三ノ輪の浄閑寺に運ばれる。そして、浄閑寺の墓地に掘られた穴に投げ込まれて終わりだった。このため、浄閑寺は投込寺といわれた。

 中万字屋の遊女は異例だったが、これにはわけがあった。

 この遊女は病気で体調が悪いと言い、客を取らずに引き込もっていた。

 楼主の女房が怒り、
「仮病を使い、怠けるんじゃないよ」
 と、きびしく折檻した。

 その後、薄暗い行灯部屋に放り込んで、ろくに食事もあたえなかった。

 空腹に耐えかねた遊女はこっそり客の食べ残しを集め、小鍋で煮て食べようとした。

 これを見た女房は激怒し、遊女を柱に縛りつけ、小鍋を首からつるした。

 ほかの遊女や奉公人への見せしめとしたのである。

 衰弱と飢えで、遊女は柱に縛られたまま死んだ。

 死体は浄閑寺に運ばれ、墓地の穴に投げ込まれた。

 その後、中万字屋に、首に小鍋をさげた遊女の幽霊が出るという噂がひろまった。そんな噂があれば客足が遠のき、妓楼にとって大打撃である。

 そこで、中万字屋はあわてて、死んだ遊女の法要をおこなったのだ。

 ■過酷な遊女への折檻

 上は、『街談文々集要』(石塚豊芥子編)に拠った。

 中万字屋の女房の残忍さは極端としても、妓楼では、遊女や禿が折檻されるのはごく普通のことだった。

 禿が折檻されるのは、言いつけを守らないときが多い。これは、しつけの一環と言えなくもない。

 だが、遊女の場合はやや事情が異なる。

 お茶を引く状態が続いている者、仮病を使って怠けていると思われた者、上客の機嫌をそこねて逃がしてしまった者、楼主や遣手の言いつけを守らず不平不満を漏らす者――こうした遊女は折檻を受けた。

『世事見聞録』(文化13年)は、次のように述べている。

 殴りつけるほか、絶食や便所掃除などの罰をあたえた。真っ裸にして麻縄で縛ることもあった。このとき、水を浴びせると、水で湿った麻縄が収縮してキリキリと体を締め付け、その苦痛に遊女は泣き叫ぶ、と。

 折檻をするのは遣手、楼主の女房である。楼主が折檻することは滅多になかった。しかし、楼主が乗り出してきた場合は、責め殺してしまうこともあった。
 図1は、遣手が、言いつけを守らない遊女を吊り下げている。

 図2では、遊女が柱に縛りつけられている。竹のムチで殴りつけているのは、楼主の女房である。ほかの遊女に見せつけているが、これはいわば見せしめのためだった。

吉原で常態化していた、遊女へのパワハラがむごいの画像はこちら >>
写真を拡大 図1『江戸染杜若絞』(東西菴南北著、文化7年)/国立国会図書館蔵
吉原で常態化していた、遊女へのパワハラがむごい
写真を拡大 図2『風俗金魚伝』(曲亭馬琴著、文政12年)
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