吉原のなかに揚屋町という区画がある。
第26回『江戸の吉原にも「デリヘル」制度があったのをご存知か。』で述べたように、宝暦期(1751~64)に揚屋制度は廃止された。
揚屋町という名称だが、宝暦期以降、揚屋町には揚屋は一軒もなかったのである。それどころか、妓楼もなかった。
吉原遊廓のなかにあって、揚屋町は商業地区であり、居住区でもあった。つまり、江戸の町屋とまったく同じだった。図1に、揚屋町の通りが描かれている。
写真を拡大 図1『春色恵の花』(為永春水著、天保7年)図1を見ると、通りには商店が軒を連ねていたのがわかる。
右手に木戸門が見える。この木戸をはいると路地が奥に通じていて、両側には裏長屋が並んでいた。
裏長屋に住んでいるのは、行商人、職人、幇間や芸者などの芸人、医者、文使い、易者などである。
図を見ると、道に板が敷き詰められているのがわかる。これはどぶ板だった。下には、どぶが流れている。
どぶの汚水は、吉原を取り巻くお歯黒どぶに流れ込んでいたのであろう。
以上からも、江戸の町屋の構造とまったく同じなのがわかろう。
ただし、図の左端に、誰そや行灯が見える。いわば街灯であり、この誰そや行灯は吉原独特だった。
こうした町屋の地区があったため、吉原のなかでほとんどすべての用が足せた。
■「万小間物」図2に、揚屋町の「万小間物」を売る商店が描かれている。

看板を見ると、売っているのは下駄、傘、それに袖乃梅と万金丹、黒丸子。
袖乃梅は酔い覚ましの薬。
図3も、揚屋町の光景である。

おそらく、図1に描かれていた木戸門をくぐってはいっていく、奥まった場所であろう。
右に、「御薬湯」と記した掛行灯がある。ここは、湯屋である。吉原のなかに湯屋があった。
妓楼には内風呂があったが、狭いのを嫌い、さらには気分転換もかねて、遊女がこうした湯屋を利用することもあった。
図のなかほどに、二連式の総後架(公衆便所)が描かれている。揚屋町の裏長屋の住人が利用するが、時には、吉原見物に来た人々が駆け込むこともあった。
総後架の横に井戸がある。
描かれてはいないが、おそらく井戸の横にはゴミ捨て場もあったはずである。
総後架、井戸、ゴミ捨て場を三点セットにして、一カ所に集めるのは、江戸の裏長屋の共通した構造だった。
左に二階建ての建物があり、二階座敷では酒宴がひらかれているようだ。ここは、一般の料理屋である。
それにしても、図3をみると、人々がいかに密集して居住し、生活していたかがわかろう。
揚屋町は江戸の町屋の縮小版だった。