江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。
■18歳未満でもかまわない
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写真を拡大 図1『犬著聞傾城亀鑑』(墨川亭雪麿著、文政10年)

 図1は、山本屋の花魁・勝山の道中を描いている。

 道中と言っても、いわゆる「花魁道中」ではない。客に呼ばれて、引手茶屋に向かうところである。

 花魁ともなると、多数の供を従えて道中する。

 先頭に禿がひとり、そして勝山、後ろに新造ふたりと禿ひとり、最後に遣手と若い者が従っている。

 勝山の道中の背景からも、吉原のにぎわいがわかろう。

 右端は、蕎麦屋の出前。芸者と、三味線を運ぶ若い者は、妓楼の宴席に向かうところだろうか。左端は笛を吹いている按摩で、杖を持っていることから盲目であろう。

 

 さて、図1の勝山は、作中では16、7歳という設定である。16、7歳で上級遊女の花魁とは、ちょっと信じがたい。

 あくまで戯作『犬著聞傾城亀鑑』の誇張なのだろうか。

 しかし、戯作はフィクションとはいえ、当時の作者はたいてい吉原で遊んだ経験があったし、読者も吉原のことはくわしかった。それなりに根拠のあることを書いていたはずである。

 ひるがえって現代、法律や条例で18歳未満の女性との性交渉は、たとえ相手の合意があったとしても、淫行として禁じられている。
 また、性風俗店でも、18歳未満の女性を雇用し、働かせるのは禁止されている。

 ところが、江戸時代にはセックスに関して、年齢による禁制は皆無だった。
 吉原の妓楼は、10歳前後で買い取った女の子を禿として教育したが、14、5歳で下級遊女である新造とした。そして、初潮があるや、すぐに客を取らせた。

 つまり14、5歳で新造として遊女デビューしたわけだが、人気があればすぐに花魁に出世した。

 新造と花魁では、その揚代は桁違いである。人気がある遊女は年齢にかかわらず花魁にしたほうが、妓楼はもうかったのである。

 その意味では、吉原の遊女は年功序列制とは無縁の、実力主義の競争社会だった。

 このことを考えても、図1の花魁・勝山が16、7歳というのはけっして不自然ではない。

■遊女の適齢期は?

 ここで、吉原を舞台にした戯作で見てみよう。

『傾城買四十八手』(山東京伝著、寛政2年)
 「しっぽりとした手」の花魁は十六歳
 「見ぬかれた手」の花魁は二十歳くらい
 「真の手」の花魁は二十二、三歳『傾城買二筋道』(梅暮里谷蛾著、寛政10年)
 「夏の床」の遊女は二十一、二歳
 「冬の床」の花魁は十七、八歳

 という具合である。
 とにかく、みんな若い。
 楼主の著とされる『吉原徒然草』(元禄・宝永年間)に――

 女郎のさかりは、十七より十九二十とも、水あげより七年ともいへど、廿三四過ぐれば、すがるゝ事、おうやうたがわず。

 とあり、遊女は23、4歳を過ぎれば、もう衰える、と。
 すなわち、吉原の遊女は若さを消耗させ、年季を終えたといえようか。

現代ではご法度!未成年との"火遊び"が許された江戸・吉原
写真を拡大 図2『跡着衣装』(十返舎一九著、文化元年)

 図2は、花魁の瀬喜川が引手茶屋に道中している様子である。
 先頭に禿、新造、瀬喜川、禿、新造、そして最後に遣手。
 作中では、花魁・瀬喜川は16歳という設定である。
 これも、充分にあり得ることだった。

 江戸時代は、16歳の高級娼婦と公然と遊べる社会だった。

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