ドラマなので、当然現実との乖離はある。ドラマの最後に六法全書のイラストカットが出るが、そこに小さな文字で「実際の法律実務とは異なります」という但し書きがなされている。ドラマのテロップには、法律監修者として2人の本物の弁護士の名前も登場する。ただ、あまり堅いことを言っているとドラマとして成立しないので、必要に応じて現実との違いに目をつぶって演出している部分も少なくないだろう。
しかし、素人の視聴者にしてみれば、どこまでが現実的でどのあたりが非現実的なのかわかりにくい。そこで、前回記事『ここがヘンだよ「リーガルハイ」~古美門暴走の法廷シーン、裁判官の年齢に執務室』に引き続き、第1期全11話、スペシャル版、そして第2期全10話の合計22話を基に、ドラマと現実の法廷の違いを取り上げ、あまり知られていない法曹界の姿を浮き彫りにしてみたいと思う。
●「陳述します」で傍聴席はちんぷんかんぷん『リーガルハイ』に限らず、法廷ドラマでは弁護士や検事が裁判の中でたくさん話す。事件のいきさつ、自分の主張をしっかり説明してくれるので、視聴者は事件の中身や検察側・弁護側双方の主張をよく理解できる。
しかし現実の法廷では、裁判を傍聴していても事件の中身はさっぱりわからない。双方の主張はあらかじめ書面でやりとりされていて、法廷ではその書面を読み上げることすらしない。「陳述します」の一言で、読み上げたことにしてしまうのだ。
判決文は民事、刑事どちらの裁判も、裁判官が全文を読み上げるし、刑事事件では検察側からの冒頭陳述、論告・求刑、被告からの最終弁論も全文を読み上げる。だが、そのほかの途中経過でやりとりされる書面は、裁判の中で読み上げられることはない。
1996年に民事訴訟法が改正される以前は、民事裁判ならほぼ2~3カ月に1度のペースで法廷を開き、そのたびに弁護士は毎回「陳述します」の一言を発し、次回の法廷の日程を決めるだけ、ということを繰り返していた。
それが改正によって、弁論準備制度が誕生した。これは、法廷という公開の場ではなく、裁判官と当事者だけで話し合いをし、論点の整理をする制度だ。法廷を使うのは初回公判と、次は証人尋問の時、そして判決の言い渡しの時、合わせて3回とするのが改正後のスタイルである。
証人尋問は双方の主張が出そろい、争点の整理も終わり、最後の仕上げの段階で行われるものだ。ゆえに裁判の途中経過を知りたければ、事件記録を閲覧するしかない。
改正前も、基本的に「陳述します」という言葉しか発しないので、傍聴していてもちんぷんかんぷんではあったが、まれに争いの内容をうかがい知ることができるようなやりとりもあったので、途中経過がまったくわからない現在よりはマシだったといえる。
第2期の第2話において、法廷で古美門が若手実業家・鮎川光(佐藤隆太)と一騎打ちになるシーンが出てくるが、法廷であれだけやりあってくれたら、傍聴人は事件の内容や双方の主張が明確にわかる。現実もああなってほしいとは思うが、実現の可能性はゼロに等しい。
●ドラマではホワイトボード、フリップ、パワポを駆使『リーガルハイ』では、ほぼ毎回といっていいほど、法廷で弁護士がホワイトボードやフリップボードを使用して説明したり、パワーポイントを駆使して作成した資料をモニターで流す場面が登場する。
だが、現実の法廷ではホワイトボードもフリップもモニターも、絶対に使用されることはない。すべては証拠書類として紙に落としたものを裁判所に提出する。唯一の例外が裁判員裁判で、証拠説明のために法廷内に設置されたモニターが使用されている。
スペシャル版において、不動明王の落書きオヤジの裁判でもモニターが使用され、第2期の第3話では、全身美容整形妻と夫の遺伝子が組み合わさった場合の生まれてくる子供の顔のシミュレーションを、巨大なフリップで説明する場面があるが、どちらも本来なら紙に落として提出するべきものだ。
立体的なものなど紙以外の証拠を提出する必要がある場合は、まず写真を撮って台紙に貼り付けて提出し、後から現物を相手方や裁判官に見せるという手順になる。
ドラマのように、傍聴席にいる傍聴人にもわかるような証拠説明をしてくれれば、願ったりかなったりだが、これもまた実現の可能性はゼロに等しい。
ちなみに、裁判所に提出する証拠書類には番号を付与する。民事の場合は、原告提出の証拠を「甲号証」と呼び、提出順に番号をつけて甲1号証、甲2号証などとする。刑事なら検察側の証拠が「甲号証」。対して、被告側が提出した証拠は「乙号証」だ。『リーガルハイ』の作中では、一度も「甲号証」「乙号証」という言葉は登場していない。
●非現実的な什器備品法律業務は膨大な量の紙を使う。
弁護士事務所は、手掛けた事件の記録を保管する書庫を持っている。各事務所によって多少は異なるが、事件終了から最低10年間は資料を保管するため、大きな書庫と膨大な量の書類作成に必要なパソコンなどの機器、それに大きなコピー機くらいなければ、まったく仕事にならない。だが、古美門事務所には大きな書庫も、コピー機もなさそうだ。
「細かい書類作成はすべて黛先生」といったセリフが出てくるが、弁護士が事務仕事を全部引き受けていたら、弁護士としての仕事が回らなくなる。こまめに毎食豪勢な料理をつくっていると見られる服部(里見浩太朗)が書類をつくるような場面も、ついぞ登場しなかった。
最終回で、服部が書類作成を引き受けているようなセリフがあったが、その肝心の書類が画面に出てこなかったので、実際のところはわからない。
●立ったままの証人、証人の真横に立つ検事、弁護士
毎回のように登場する証人尋問のシーンも、現実とはだいぶ違う。ほぼ全話にわたって、証人が立ったまま証言をしているが、実際の裁判では、最初の宣誓だけは立ったまま行うが、尋問の時は着席させている。
弁護士や検事の立ち位置も、実際とはだいぶ違う。これもほぼ全話にわたり、古美門をはじめ、黛、三木長一郎(生瀬勝久)、羽生晴樹(岡田将生)、本田ジェーン(黒木華)といった弁護士たち、そして醍醐実検事(松平健)も、みんな証人の真横に立ったり、証人の周りをぐるぐる歩いたり、顔を近づけたりかがみ込んだりしている。第2期の第1話に至っては、古美門が被告人・南風るんるん(小島藤子)の両腕をつかんで揺さぶったりしている。
現実には、質問のために証人に証拠書類を提示する場合以外は、弁護士も検事も自分の席を離れてはならない。証拠を提示した時も、即座に席に戻ってから質問を開始しなければならない。
これは極力証人にプレッシャーを与えないためのルールなので、守らない検事や弁護士に対しては、裁判官が注意すべきものとされている。
だが、実際の法廷でこのルールが厳格に守られているかというとそうではない。筆者はかつて執筆した記事で名誉毀損訴訟を起こされたことがあるが、その1審の証人尋問の場で、筆者の代理人だった弁護士のうちの一人は、尋問の最中に高らかないびきとともに爆睡していた。この裁判、実は原告は弁護士だった。悪徳弁護士の不正を批判する記事を書いたら訴えられたのだ。
当の原告は逆上していたので、興奮で眼鏡は曇り、顔面にはぽたぽたと垂れるほどの汗。尋問もおよそ冷静な質問とはいえないものだった。筆者は着席していたが、原告は真横に立って筆者を見下ろし、頭の上から大声で怒鳴り続け、汗や唾が容赦なく筆者にふりかかった。それにもかかわらず、こちら側の弁護士は、一人がいびきをかいて爆睡、他の弁護士もそれを注意もせず、異議を唱えることもなく見ているだけ。裁判官も一切注意をしなかった。
弁論準備で代理人弁護士がさんざん手を抜き続けた結果、裁判官の筆者に対する心証は、「いい加減なことを書いた上に、まじめに反論もしようとしない、法廷を冒涜する悪徳ジャーナリスト」として形成されていたからかもしれない。そんなわけで、この尋問後、筆者は1審で完敗し、判決文にも筆舌に尽くしがたい屈辱的な表現を書き並べられたが、弁護士を替えた控訴審では、初回の弁論の数日後、原告が請求を放棄した。
裁判が始まると、原告は被告の同意なしには訴えを取り下げることができないので、被告が同意しない場合に訴訟をやめるためには、請求を放棄するしか手段はない。請求放棄とは、原告が自分の負けを認めることであり、被告側にとっては全面勝利になる。
●民事の尋問はセレモニーのようなもの尋問の際に、突然新たな証拠を出し、それに対する質問をするという、いわゆる“不意打ち”も現実では禁止されている。
また、違法な手段で入手した証拠も、証拠として裁判所に採用してもらうことはできない。
第2期の第3話で、黛の高校時代の同級生の熊井健悟(塚地武雅)が、妻は全身整形していたという事実を知り、騙されたとして妻を訴えた裁判で、尋問の場でいきなりハゲ治療の診断書を被告弁護士の羽生から突きつけられるシーンが出てくる。
そもそもハゲ治療の診断書を、本人の同意なしに第三者が入手することは不可能だが、例えば担当医師やクリニックのスタッフを脅迫したり買収したり、あるいはクリニックに忍び込んで盗み出すなどして入手したのなら、それは違法な手段で入手したものであり、証拠としては認められない。
原告、被告双方が出す証拠は、なんらかの立証目的があって出すものだし、その説明に合理性がなければ裁判所は証拠として採用しない。証人についても、申請さえすれば誰でも法廷に呼べるというものではない。証人に何を証言させるのかを説明し、裁判官が納得しなければ尋問はおろか、証人を呼び出すことすらできない。
第1期の第10話で、有害物質ヘルムート38の発見者であるヘルムート・マイヤー博士(Otto)が証人として法廷に現れて古美門が驚くシーンがあるが、事前に誰が証言に立つか知っているはずなので、現実から考えるとおかしい。公判当日、傍聴に来ている人をいきなり証人申請し、それが認められ、すぐ尋問に移るなどということもありえない。
民事の場合は事前に陳述書として証人の話をまとめておき、尋問はその内容確認のために行うセレモニーのようなものになる。証人として呼ぶ人物が決まったら、証人に陳述書を書かせて証人が証言する予定の内容を原告側、被告側双方が共有する。
尋問は被告側の証人なら被告代理人だけでなく原告代理人から、原告側の証人なら原告代理人だけでなく被告代理人から反対尋問を受ける。従って、尋問の場で相手方からどういう質問が飛び出すのかは、提出済みの証拠と立証趣旨を理解し、陳述書を読んでいれば、十分に想定ができる。
有能な弁護士なら、反対尋問で聞く内容を準備するだけでなく、その想定に基づいて証人本人にリハーサルまでさせる。弁護士が相手方弁護士役を演じ、さんざん証人が嫌がる答えにくい質問を証人にぶつけ、それに対してどう答えるか、どういうリアクションを取るべきかまで教える。
依頼人以外の第三者を証人に立てる場合は、リハーサルに付き合ってくれるようお願いしなければならないわけだが、依頼人本人にすら尋問のリハーサルをしない場合、それは明らかに手抜きだといえる。
『リーガルハイ』では全般に、当然反対尋問で聞かれることは想定できたであろうと思われる質問に、古美門側の証人が動揺し、答えられないシーンが随所に出てくる。敏腕とうたわれる古美門ほどの弁護士が想定問答もつくらず、リハーサルもやらないというのは役柄のイメージにも合わないところだ。
ちなみに刑事の場合は、検察側の取った調書が証拠として提出され、その確認のために尋問が行われるわけだが、ここで調書の内容を否認するというケースはしばしば起こる。そうなった場合に法廷での証言と調書、どちらに信憑性があると裁判官が判断するかと言えば、現状では圧倒的に調書で、法廷での証言は判決文には「信用できない」と書かれることが多い。
そして何よりもドラマと現実が異なるのは、傍聴席との関係だ。アメリカの法廷ドラマでは陪審員に向かって弁護士や検察官が意見陳述をするシーンが登場する。恐らくそれと同じ感覚で、傍聴席に向かって弁護士や検察官がアピールをするシーンを登場させているのだろう。
しかし、日本の法廷では傍聴席にアピールをしても、なんの役にも立たない。裁判官は傍聴席の反応などまったく考慮しないからだ。それどころか、傍聴人を煽動して拍手をさせたりといったことは退廷処分の理由にすらなる。証人も必ず「裁判官のほうを向いて話すように」という指示を裁判官から受ける。質問している弁護士のほうすら向いてはいけない。
スペシャル版で、いじめに遭って校舎の屋上から飛び降り、大けがを負った小暮和彦(末岡拓人)を、古美門が車いすごと傍聴席に向けて蕩々と自分の意見を述べるシーンがあるが、質問以外のことはしてはいけないので、意見を述べることなどできない。まして相手方の弁護団の席までつかつか寄って行き、議論し合うなどということはありえない。
ドラマの中では、一応、学校・教育委員会側の代理人として登場した勅使河原勲弁護士(北大路欣也)が、裁判官に向かって「この場は意見陳述の場ではないはず」と発言していいる。
●パフォーマンスは無駄ただ、現実の法廷でも、傍聴席を意識した、多少のサービスをする弁護士はいる。傍聴席に座っている依頼人へのアピール、もしくはメディアの記者へのアピールのために、わざと証人の神経を逆撫でするようなものの言い方で証人を逆上させるのである。
結果、冷静さを失った証人から相手方に不利な発言や、相手方に有利な証言の信憑性を疑わせるような発言を引き出せれば、それが立証に役立つかどうかは別にして、少なくとも依頼人は溜飲を下げることができる。「ウチの先生が叩きのめしてくれた」という気分を依頼人は味わうことができ、記者もいわゆる「見出しが立つ」記事を書きやすくなる。
それがムダなことだと喝破する弁護士もいるのは事実で、冷静ではない状態での証言は信憑性を疑われるもとになる。実際は、淡々とさりげない質問から証言の矛盾を証人本人に気づかせないようにしゃべらせるほうが、よほど正攻法で効果的ではある。
もっとも、証人を逆上させる演出をする弁護士は確信犯なので、優秀なスタッフを数多く抱えている大企業の法務部相手に、こういったパフォーマンスをすることはまずない。もしも立証に効果があると勘違いしている弁護士がいたら、それは絶望的なレベルだといえる。
また、第1期の第9~11話は環境被害がテーマだったが、その中で傍聴人が遺影を持って傍聴席に入るシーンが出てくる。かつては遺影を持ち込むことは禁止されていた。証人にプレッシャーを与えるからだ。だが、光市で起きた母子殺人事件を機に、現在では裁判所の許可を取れば持ち込めることになった。
以上見てきたように、現実の裁判は傍聴してもわかりづらく、まったく面白みに欠けるのであるが、ドラマではわかりやすさを演出し、アクションをオーバーにしていることがわかるだろう。
(文=伊藤歩/金融ジャーナリスト)