2019年10月1日の日本経済新聞は、上場企業の取締役に占める社外取締役の比率が初めて3割を突破したと報じた。同記事では、女性や外国人が増え、「異なった経験や知見を経営に生かす体制が広がってきた」と記している。
一方で記事は、「日本ではこれまで曖昧だった取締役の役割を経営の執行に対する監督と位置づける動きが広がっている」とも記している。こちらの方は納得がいく。いまやこの「コーポレート・ガバナンス」にはさまざまな概念が付随しており、ひと言で語ることが難しくなっているのだが、簡単にいえば、1.株主から見て、2.経営者がちゃんとやっているかを 3.可視化することである。
だから、取締役に「経営の執行に対する監督」を委ねよう、となる。経営執行を監督するには、違った目線・観点が必要であり、当該企業とはしがらみのないほうが適任である。それには、日本企業においてはまだまだ主流である「日本人」「男性」「内部昇進」から離れている「外国人」「女性」「社外」取締役のほうが信頼が置けるということになるのだろう。逆説的にいうと、日本企業は今まで、女性や外国人が取締役にいなくとも、あるいは社外取締役が少なくても、それなりにうまくやっていたのだ。では、今まで日本企業におけるコーポレート・ガバナンスはどのように行われていたのだろうか?
戦前の日本企業は株主が強かった戦前の日本企業は株主が強かった。その際たる事例が財閥である。
たとえば、三菱重工業の社長が同郷の陸軍高官に頼まれ、東条内閣の内閣顧問に就任した。これを聞いた三菱財閥トップ(つまりは株主)の岩崎小彌太(こやた)は「三菱の従業員は政治不介入であるべき」と怒り、社長を更迭してしまった。
このように、事業に直接関わりがないことでも、大株主の逆鱗に触れると社長ですら簡単に閑職に追いやられてしまう。それが戦前の日本企業の姿だった。
では、なぜ株主の力が強かったのか。その理由は簡単で、特定の個人に株式が集中していたからだ。前述の三菱重工業は1934年に株式公開していたが、1940年代に至っても三菱の財閥本社、および傘下企業で過半数の株式を所有していた。だから、財閥本社のトップ・岩崎サンは思い通りに財閥企業を経営することが可能だったのだ。
経営者がちゃんとしていようがいまいが、株主が簡単に経営者を更迭できる状況下では、コーポレート・ガバナンスという概念は不要である。換言するなら、現代企業は経営者が自律し、株主の意向が経営に反映されづらくなったからこそ、コーポレート・ガバナンスが必要になってきたともいえよう。
戦後の日本企業は経営者が強かったところが、戦後の日本企業は一転して、専門経営者(=サラリーマン重役)が強くなっていく。
財閥解体で、巨大企業を支配していた財閥家族が経営から強制退出させられ、財閥本社は解散。それらが所有していた株式は株式市場に放出された。それとともに、資産家層に莫大な財産税・相続税をかけ、戦前ほどの大金持ちがいなくなった。
株式所有が広汎に分散した結果、戦後の日本企業では、株主が経営者を抑えることができなくなっていった。その状況が、取締役の人選に大きな影響を与えていく。
戦前は株主が取締役になり、取締役会で社長を選んでいたが、戦後になると「取締役=株主」という構図が崩壊してしまう。建前では取締役会で社長が選ばれることになっているが、実際は社長が取締役を決めていた。かくして戦後の日本企業では、取締役などの人事をすべて握る社長が、絶大な権力を持つに至ったのである。
ガバナンスの担い手はメインバンクでは、社長を抑える者がいなかったのかといえば、そうではない。怖かったのは株主ではなく、銀行なのだ。
高度経済成長期は「作れば売れる」時代だった。しかし、それにはカネが要る。個人大株主がいないということは、そもそも株式市場が振るわなかったということにほかならない。
数十の金融機関相手に企業が書類を書くのも面倒だが、金融機関だってひと苦労である。そこで、メインバンクという役割が生まれた。最も親密な銀行がメインバンクとして当該企業を審査し、その他の金融機関がメインバンクの審査を信じて協調融資を形成するという方式だ。
換言するなら、企業が借りて借りて借りまくるには、メインバンクの意を損ねてはならない。なにせ、どの企業にカネを貸すかは、銀行の胸三寸なのだ。株主なんかぁ、目じゃあない。
一方、メインバンクはそれこそ案件ベースで当該企業の経営を審査していた。というのも、融資というのはお小遣い制(月額いくら)ではなく、すべて案件ベースで発生するからである。「こういう事業を起こすから、予算がいくらくらいで、自己資金がいくらくらいで、これぐらいお借りしたい」というロジックだ。
1970年代の三菱商事社長の述懐によれば、メインバンクの三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)役員が居並ぶ席で、1件1件案件を説明していると、「なぜこの案件は三菱銀行を通していないのかね?」といった細かい質問がたくさん飛んできたのだという。
こうして日々の経営に口出す反面、メインバンクの責任は重かった。
当該企業が経営不振に陥ると役員を派遣して経営の立て直しに奔走し、最悪、企業が破綻すると、協調融資に参加した他の金融機関からカネ返せとばかりのプレッシャーを受け、実際、相当の負担をかぶって破綻処理を行わなければならない。
事実、1977年に「十大総合商社」の一角・安宅産業が倒産した際、メインバンクの住友銀行(現・三井住友銀行)は同年9月の決算で1132億円もの不良債権を一挙に償却するハメになり、11年間守っていた銀行業界収益トップの座を降り、都市銀行13行の中で8位に陥落した。この事件は、その後の住友銀行の経営方針に大転換を強いるほどの大打撃を与えたという。
だから、銀行は融資・審査を通じて、厳しく企業経営を監視していたのである。
結局、行き着く先は大蔵省では、銀行自体のガバナンスは誰が見ていたのか。それは大蔵省(現・財務省)である。
大蔵省は銀行経営に関する許認可権をすべて握っていたので、何かで銀行不祥事が起きれば、直接的に銀行を罰することはできなくとも、別のところでその銀行に対し「それは認可しません」といった“お灸”をすえることが可能だったのだ。
戦後、1980年代後半くらいまでは、大蔵省といえばエリート中のエリートであり、泣く子も黙る存在として崇め奉られていた。それは、銀行が日本企業を抑え、そしてその銀行を抑えていた総元締めが大蔵省だということを、国民もなんとなく感じていたからに違いない。
日本的ガバナンスの終焉改めて、なぜ銀行が日本企業を抑えることができたのか。
さらにバブル崩壊で、銀行自体の経営がおかしくなった。大蔵省も不祥事が相次いだ。
ではそれらはなぜダメになってしまったのか。戦後教育が悪かった(=戦前の教育が優れていたからこそ可能となった所業だったのだ)といった見方もあろう。
ただ、仮に銀行員と大蔵(財務)官僚の資質が維持できていたとしても、いずれにせよ金融当局→銀行→企業というガバナンスの構図は終焉を迎えていただろう。日本企業は今、新たなコーポレート・ガバナンス形成の必要性に迫られているのである。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。