見渡す限り巨大なビルか、だだっ広い工事現場ばかり。中央アジア、カザフスタンの新都市ヌルスルタンでは、なぜか老人もほとんど見かけない。
注目の女子57キロ級、川井梨紗子(24)は見事に3連覇し、3位に入った62キロ級の妹・友香子(22)とともに東京五輪代表に内定して、伊調馨(35)の五輪5連覇の夢を砕いた。とはいえ、全体には男子も女子も厳しい結果となった。
日本の「不振」を象徴したのが、川井とともに五輪チャンピオンとして68キロ級に臨んだ土性沙羅(24)だった。リオデジャネイロ五輪69キロ級の決勝では、ロシアの選手を相手に終了直前の大逆転で金メダルを獲得した勝負師の姿が今も思い出される。今年6月の選抜選手権でも、残り11秒で古市雅子(23/日本大)を逆転して世界選手権の切符を手に入れていた。
だが、土性は大きな不安を抱えていた。昨年3月に群馬県高崎市で行われた女子ワールドカップの試合中、左肩を亜脱臼した。手術は不安だったが「だましだましで東京五輪の前に駄目になっては」との思いから、迷わず敢行した。その後はリハビリ、母校の至学館大学での練習と念入りな準備をしていた。
土性は吉田沙保里と同じ三重県に生まれた。引っ込み思案な子供だったが、8歳からレスリングを始め、吉田の父親、栄勝さん(故人)の「一志ジュニアレスリング教室」で指導を受けるとめきめきと強くなった。
復帰してからは昨年12月の天皇杯で優勝、6月の選抜選手権にも勝ってカザフ入りしていたが、選抜選手権ではショックなことがあった。高校、大学、現在の所属先(東新住建)でも先輩で、リオ五輪の48キロ級でともに金メダルを取った登坂絵莉(26)が、須崎優衣(20/早大)に決勝で一方的に敗れ、世界選手権切符が取れなかった。登坂はリオ五輪後に膝をけがして2度も手術を行い、昨年の全日本も敗れていた。茫然自失の登坂だったが、「一緒に行きたかったけど全力で沙羅の応援にぶつけたい」と土性を激励していた。大先輩の吉田に憧れ苦楽を共にしてきた2人は、「一緒に再びオリンピックに行って金メダルをとろうね」と、約束していたのだ。
熾烈化する代表争いさて、2年ぶりに世界の檜舞台に立った土性。1、2回戦は順当に勝ち上がったが、準々決勝で昨年の世界選手権3位だった米国のメンサストックと当たった。土性は最初からまったく精彩なく、タックルを決められたりバックを取られたり、転がされたりで次々と加点され、1対10で大敗した。試合後「相手が強かった」を繰り返した。幸いメンサストックが決勝に進出したため、敗者復活戦に回れた。
間近に見ていても、「土性なら絶対、逆転するはずだ」という迫力を感じなかった。やはりどこか、無意識のうちに体が左肩をかばっているのだろう。ずんぐりした体からは想像できない鋭いタックルも影を潜めていた。この大会で3位以内なら東京五輪代表内定だったが、お預けになってしまった。試合後、「自分が弱かったんだと思います。
日本レスリング協会のある関係者は、今大会の土性について準々決勝の戦いぶりが象徴していたとみる。
「メンサストック選手は、昨年より進化していた。パワーはあるが粗削り、と見られていたが、技術も身に着け、今年になってから主な国際大会をほとんど優勝していた」
土性も「初めての相手だったが強かった」と正直に話していた。「失敗した」とか「調子が悪かった」といった類の敗戦の弁ではない。力の差をまざまざと感じている表情だった。
土性は「今の自分のポジションはかなり下のほうなので、死ぬ気で1年やらないといけない。周りは成長している」とも話した。「周りは成長している」。この言葉は世界のレスリング界全体に当てはまる。今回の世界選手権。
土性は12月の全日本選手権で優勝すれば東京五輪内定だが、そうでなければ優勝者とのプレーオフとなる。今回、72キロ級で出場した古市雅子が立ちはだかってくるだろう。
ちなみに、土性が敬愛する先輩の登坂にも望みが出てきた。登坂を選抜選手権で破った須崎は、7月のプレーオフで入江ゆき(24/自衛隊)に敗れ世界選手権切符を逸した。ところが今回の世界選手権ではこの入江が、中国選手の豪快な投げ技を食って早々に敗退してしまい、五輪代表内定を逸したのだ。このため12月の全日本は3人を中心にした代表争いになる可能性がある。オリンピックの頂点を極めた女たちに、まだまだ厳しい戦いが続く。
(文・写真=粟野仁雄/ジャーナリスト)