2010~11年頃にかけて「ぽいぽいぽいぽぽいぽいぽぴー」のコールで一躍ブレイクした、女性エンターテインメント集団あやまんJAPAN。一時は連日テレビなどで目にしない日はないほどの勢いだったが、近年は表舞台からは遠ざかる“潜伏生活”を送っていたとか。

しかし、今年に入り、女優活動や会社設立など本格的に活動を再開し、“再ブレイクが期待される注目株”に急浮上した。そんなあやまんJAPANを率いるあやまん監督に、「あやまんJAPAN結成のきっかけ」「今だから話せるブレイク時の裏話」「潜伏生活と会社設立の経緯」などを聞いた。

――名刺には「代表取締役監督あやまん」とあります。本名は公開されていないようですが、「あや」だから「あやまん」なのでしょうか?

あやまん監督 そうなんです。いつの間にか「あやまん監督」になっていたんですよね。あまり名前にはこだわりはなく、今まで普通に「あやまん」と呼ばれていました。みんな「あや」だと知っているというか、わかっていると思っていたのですが、以前舞台の記者会見で「今回はあやまんじゃなくて、一人のあやとしてやらせていただきます」と話したら、「本名ポロリ」みたいにニュースで取り上げていただき、びっくりしました。私としたら「えっ、だいたい想定の範囲内だよね!」と思っていたので。35歳、独身のあやまんでーす!

――そのあやまんさんが、あやまんJAPANを結成したきっかけはなんだったのですか?

あやまん監督 きっかけはイベントコンパニオンの仕事で知り合った、とあるお姉さんに、サッカー選手との飲み会などに誘われるようになり、ミーハーな集まりによく顔を出すようになったことですね。群馬県の出身なのですが、実は28歳まで地元に住んでいて、イベコンの仕事も群馬から通っていたんですよ。仕事があった夜は、そのまま都内で飲んで、次の日に始発で帰るという生活をしていました。もともと、自分から積極的にいくタイプではなかったんですけど、そのお姉さんたちがすごかったんですよね。
盛り上げから、下ネタトーク、男子への絡み方がすごくて。それを見ていて、自分も影響されて、だんだんやるようになっていきました。

 性格的に、自分からいろんな人に連絡を取ったり、周りの女の子に声を掛けて集めたりとほそぼそしたことをやっていたら、次第に輪が広がっていって、夜な夜な六本木界隈で飲み明かしていました。当時はサッカー・ドイツW杯の前で、岡田JAPANが決定力不足だとか、いろいろ言われていたんですよね。その岡田JAPANに対抗して、ある日、西麻布での試合(飲み会)で、私たちはあやまんJAPANだと言いだして、「全員フォワード! とにかくシュートを打って、ゴールを決めようぜ」みたいな。たぶん、その夜にあやまんJAPANが誕生した気がします。活動的には、ずっと同じようなことをやっていましたけど。

――飲み会のことを「試合」って呼んでいますが、「全戦全勝」だったと聞いていますが。

あやまん監督 そうなんです。一晩に2試合は当たり前で、多い時は一日5~6試合をはしごして週5とか。最盛期は、年400~500試合はしていましたね(笑)。明確な勝ち負けはないのですが、「勝つ=お持ち帰りされる」ということではないのですよ(笑)。
相手の方は普通に合コンだと思っていたでしょうし、私たちも黙っていれば、見た目は中の中、中の下くらいの女の子が集まっていたので、相手に「これイケるんじゃない?」と思わせる感じで。

 でもご飯を食べて、カラオケに行くと私たちが豹変するわけですよ。歌のセットリストも決まっていて、最初はその場の空気を読んで、近藤真彦さんの『ギンギラギンにさりげなく』とかから入り、私たちが盛り上げてから、みんなで盛り上がるという戦術を監督の私が考えていくわけです。そうすると、男性陣があっけにとられるんです。「何、この子たち?」みたいな驚く顔が面白くて。最初はドン引いた男性たちも、最後はみんな一つになって盛り上がり、でも私たちはその場ではお持ち帰りはされずに、盛り上げてそのまま帰るみたいな「やり逃げ」で(笑)。そうすると男性陣はみんなポカンとした顔で、それが私たちの勝利です。

●テレビ出演からブレイク

――ぶっ飛んでいますね。そこからテレビに出るまでには、どのような経緯があったのですか?

あやまん監督 初めてテレビに出たのは、10年1月の『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)の素人芸コーナーです。ある試合に、おぎやはぎの矢作兼さんがいらっしゃって「君たち面白いね」となって、それとは別に木梨憲武さんにもお会いして、ノリさんはバブル時代の方なので「君たちバブルの匂いがするね」と言ってくださって。また別のラインでも『みなさん』のスタッフの方にお会いすることがあって「君たち頭おかしいよね」となって(笑)。そんなこんなで、番組に出ることになりました。
まさに、すべての出会いが「試合」だったのです。

――『みなさん』に出た時は、視聴者にはものすごい衝撃でした。

あやまん監督 見てくださった方からはすごい反響だったんですけど、私たち的にはすごく理不尽でしょうがなかったんですよ。なぜかというと、元ネタはもっと激しかったんです。でもゴールデンタイムのテレビ番組だったので、あれはダメ、これはダメとなって、収録前日の夜中まで放送作家の方と「これだけは言わしてくれ」「いやダメだ」とやり合っていました(笑)。最後の大オチで、わけもわからずにお尻を出す流れになってしまいましたが、実は放送では言えなかった替え歌の歌詞の中にお尻を出す意味があって、それが美学だったんです。あの流れとオチがないと成立しないと思っていた中でやったので、私たちは自信満々で「私たち面白いでしょ、見て!」ではなく、「こんな“ぽいぽい”の何が面白いの?」という感じだったんです。放送では、私が我慢できずにタイツを脱いでお尻を出そうとしたところで底に落とされたんですよね。でも、あそこはうまいことやっていただきました。出しちゃったら、終わっていたでしょうね(笑)。

――その後、テレビで見かけない日はないほどブレイクしました。今だから言える、当時の生活は?

あやまん監督 私たちは何年も下積みしたタレントさんや芸人さんのようにテレビを目指していたわけではなく、ただ毎晩六本木で飲んでいたら、こうなっちゃったみたいな感じなので、いきなりガラッと生活が変わったんですよね。
よくテレビとかで聞く「ピンク・レディーの全盛期」みたいな生活を、一瞬ですけどさせていただきました。まあ忙しかったですね。初めてテレビに出た時は、「この間テレビに出ていたよね」くらいだったのですが、2回目に出させていただいてからは、着ボイスを出したり、CDを出したりと一気に。10年の春から翌年までくらいですかね。テレビを見てくださった方からしたらタレントだったんでしょうけど、内心では複雑でした。自分たちでタレントというのもおこがましい気がしていて、でも人前でやっているからには、そういう自覚も必要ですし。

 とにかく忙しくて、マネージャーさんに栄養ドリンクの「アリナミン」を毎日買ってきてもらい、そういうのにひたすら頼っていました。メンバーのファンタジスタさくらだは、過労が原因で激太りして、私は逆に激ヤセしましたね。昔は、試合は自分たち発信で勝手にやっていたことなんですけど、テレビで求められるようになって、しんどくてもやらなければいけなかったので……。ひな壇とかに座って、話を振られて、しゃべるということは六本木ではやっていなかったので、うまくできない葛藤もあったし、私たちがそれをやることに複雑な気持ちがありました。

 でも、テレビに出たくても出られない人など山ほどいるので、お仕事をもらえたのはうれしいことでしたし、振り返ると結果的には楽しかったです。あれがあったからこそ、今もこうしてなんとなく生きているので(笑)。
もともと、手に職があったわけでもなく、楽観的に将来のことよりも今を楽しもうと生きてきたので、今も何だかんだでやりたいことができているのは幸せです。

●すごかった「ぽいぽい」印税

――あれだけテレビに出ていると、収入はすごかったのでは?

あやまん監督 私たちがテレビに出たのは一時ですし、最初は新人だとギャラが安いんですよ。忙しさと比例して収入が増えるわけではなかったのですが、一つだけ言えるとしたら「ぽいぽい」印税ですかね。お金が入ってきたなと実感できたのは、それくらいです。

――もともと普通のお姉さんだったわけですが、「こんなにもらえた!」というレベルでしたか? それとも「これだけかよ!」という感じですか?

あやまん監督 いやあ(笑)。でも、六本木でワーッとやって飲んでいた頃は「タク代もらえた。やったー!」とかでしたけど、「ぽいぽい」の印税は人生の中では手にしたことがなかった額だったので、「おおっ!」って思いました。でも、メンバー3人で割ったのでね……。あれが一人だったらよかったかなと(笑)。35歳独身ですし、この先どうなるかわからないので、ちゃんととっておいてあります。結婚資金ですね。

――最近では女優活動もされ、あやまんJAPAN株式会社も立ち上げられました。


あやまん監督 「ぽいぽい」でブレイクして、その後さくらだが結婚して辞めてしまったので、活動はいったん下火になってしまい、新メンバーを入れたものの、これからどうしようと。そんな時に私に舞台のお話が来て、ソロでやらせてもらったりもしましたが、割とローな感じの日々が続いていました。実は2年前に六本木に店を出したのですが、この年で朝までシャンパンをポンポン開けるのは、すごいきつかったんですよ。それがしんどくて、その疲れから一転してロハスな生活を送るようになりました。誰ともあまりしゃべりたくなかったので、ずっと家に引きこもっていて豆苗を育てたり、スーパーで食材を買ってきて一人でつくって食べていました。

――それが一般の人だったら別に普通ですが、あやまんさんですからね(笑)。

あやまん監督 そうなんですよ! 舞台をやったのも、別に何か主軸があるわけではないので、いろいろやってみようと思ったからなんです。やってみたら、思いのほかやりがいを感じ、評価もいただけたんですけど、「ぽいぽい」をやっていた頃の自分とローな自分との間で、自分を見失いだしたんですね。どれが本当の自分かよくわからなくなって……。テンションを上げることも苦ではないんですけど、その時はできれば静かにしていたくて。でも言われれば、「楽しませたいな」とやりたくなっちゃう。そんな中で、舞台では別の人間を演じるということが楽だったんですよ。すみません、女優みたいなことを言って(笑)。

 そんなこんなを経て、今年の7月に『有吉反省会』(日本テレビ系)に出させていただくことになって、「最近あまり元気がないんです」と話したら、有吉さんや周りのゲストの方にも「元気なほうがいいんじゃない?」と言ってもらえて。私的には、もうそんなに求められていないだろうなという気持ちがあったんですよ。「ぽいぽい」もひと段落したし、別にいまさら私たちが何かやってもねと。でも番組の最後の「みそぎコーナー」でテンションを上げてダンスをやったら、ツイッターなどですごい反響があって、「清楚なあやまんもいいけど、笑った」「今年一番面白かった」とか、たくさんのお声をいただいて。やはり、みんなそういうのを求めてくださっているんだ、そういうふうにありたいなと思い、その後すぐにあやまんJAPAN株式会社を立ち上げて、世界中を盛り上げますと発表したんです。それまでは、本当にそのまま静かに暮らしたいと思っていました。

●会社設立

――会社のキャッチコピーは「DDD~どこでも、誰でも、大丈夫~」ですね。同名のCDも発売されました。会社では、どんな活動をしているのですか?

あやまん監督 どこでも誰でも大丈夫ですよ、盛り上げますよという感じです。今までの試合は、知り合いということが大前提で、知らない人に呼ばれていくというわけではありませんでした。でも、あやまんJAPAN株式会社では、「呼ばれたらどこでも行きますよ」というのを一つの軸にやっていこうと思いまして。一応、メンバーは私とルーキタエ、サムギョプサル和田、めんそ~れ愛菜、たまたまこの5人ですけど、大人数の女の子を呼んでほしいとなれば、会社としては対応させていただきます。 実際、昔は本当にその日呼べば集まるような女の子が100人くらいいたのですが、残念ながらみんな結婚したり、真面目に仕事をしていたりと、昔ほどのフットワークが軽い女の子がいなくなってしまったんですよね。できれば20代前半くらいの女の子に、次世代のあやまんJAPANとして活動してほしいですね。

――ちなみに、あやまんJAPANに来てもらうには、いくらくらい必要なのですか?

あやまん監督 結婚式が破談になってしまった方の励ましパーティーや、あやまんの大ファンの子のためにサプライズで呼んでいただいたことがありますが、特別な思いが入っている場合は、お安く伺っています。その分、大企業の方などからは、しっかりといただこうかなと(笑)。そういう感じでやっていきたいですね。

――今後は、どのような活動をしていきたいですか?

あやまん監督 今回、3年ぶりに新曲を出しました。いろいろやってみてわかったのですが、ひな壇で話すとか、大喜利とかは、どうしても苦手な分野なんですね。自分たちが何かを発信する、パフォーマンスをするのが、やっぱりあやまんJAPANかなと思いました。きれいに踊る、かわいく踊るというパフォーマンスは、別にできる方がいらっしゃるので、「女の子がこんなことをするの?」というのが持ち味かな。今後はもっとコンスタントに新曲を出していきたいですし、新たな盛り上げソングの構想もあります。そういうのを出しつつ、夜の繁華街にも積極的に行きます! でも本音を言えば、早く結婚したい……。

――過去の試合で培った人脈は使えないんですか?

あやまん監督 素晴らしい方たちはいっぱいいるんですが、試合の後遺症といいますか、いろんな人のいろんな面を見てしまったので……。酸いも甘いもというか、人間の裏も表もね。やはりどなたに会っても、「どうせ裏でああいうことをしているんだろうな」と思ってしまってダメなんですよね。ちょっとした人間不信ですね。絶対に浮気しない真面目な方がいいです。いないと思いますが、世の中にはいるらしいんですよ。

――最後に、あやまんJAPANとは、どんな存在なのか教えてください。

あやまん監督 新メンバーがあまり周知されていないのは私の責任でもあるのですが、まだ良さを引き出しきれていないんです。5人集まればパワーはあるので、今後はひとりひとりの個性を、もっと出していきたいです。個人的には、人生を変えるきっかけになりました。28歳まで群馬にいたら普通は東京に出てきませんが、なんか行ってみようと思ったんですよね。実際に、その1~2年後にはテレビにも出ることになりました。常に、失うものが何もないので、やりたいことをやっています。現代の社会に生きている普通の方は、いろんなしがらみもあって抜け出せないかもしれませんが、人生は誰かに決められているわけではないはずです。私のように何でもやって、一歩を踏み出してもらえれば。
(構成=中野龍/フリーランスライター)

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