アイスホッケー・アジアリーグの日本製紙クレインズが今季限りで廃部、約70年の歴史を閉じる。昨年12月19日に同社が発表した。

これで同リーグは、日本からは王子製紙、日光アイスバックス、東北フリーブレイズの3チームになり、韓国3、ロシア(サハリン)1チームとあわせて7チームとなった。クレインズは12月現在、リーグ2位につけており、チーム代表の安永敦美釧路工場長は「洋紙事情が厳しく、断腸の思い」と絞り出した。

 釧路市を本拠地とするクレインズの前身は十条製紙釧路アイスホッケーチーム。1949年に結成され、札幌五輪の2年後の74年に日本リーグに加盟した。当初から参加していた福徳相互銀行や岩倉組は脱退し、王子製紙、国土計画(のちのコクド)、西武鉄道、古河電工(現・日光アイスバックス)、雪印乳業との6チームで争われる時代が長かった。80年代から十条は沢崎晋司、重野賢司、角橋範若・徹信兄弟、芳賀忠士などの名プレーヤーが活躍したが、日本リーグや全日本選手権では長く下位に甘んじていた。その後、89年に念願のAクラス、90年の全日本は王子を破ってコクドと優勝を争い準優勝した。

 しかし、長野五輪(98年)でも札幌五輪の頃のアイスホッケー人気は再来せず、食中毒事件で痛手を被った雪印が廃部し、西武鉄道、コクドも廃部となり壊滅状況になった。リーグは模様替えし、2003年から外国チームを混ぜてアジアリーグが開催されてきた。

 十条製紙は1993年に会社が山陽国策パルプと合併して日本製紙となり、チーム名も日本製紙クレインズに変わっていた。新チームは「助っ人外国人」も貢献し、アジアリーグ4度、全日本選手権は4連覇を含む7度の優勝と、かつての弱小チームからは考えられない実績を残してきた。

 しかし、新聞の売上減などで製紙業の経営は悪化。
日本製紙は東日本大震災で石巻市の工場が大破し、経営が圧迫されていた。

●有力選手輩出地・北海道でも人気低迷

 長野五輪の後、カーリング人気が沸騰した。一方、アイスホッケーは女子の全日本チーム「スマイルジャパン」がソチ、平昌と五輪で連続出場を果たして奮戦したが、メダル獲得に至らない。銅メダルを取った女子カーリングとはマスコミの扱いも格段に違ったため、北海道銀行など道内有力企業のスポンサーもカーリングばかりにつくようになった。

 アイスホッケーの男子は長野五輪の開催国特権出場の後、一度も五輪の出場権を得ていない。女子と違い体当たりが認められており、体格の劣る日本人には厳しい。「五輪大好き日本人」のなかでの不参加続きでは、人気も低迷する。アジアリーグも優勝決定の時でなければ記事にならず、全国紙はほとんどスコアだけという状態だ。かつてはNHKもBS放送でNHL(北米アイスホッケーリーグ)を中継していたが、現在ではそれもない。

 北海道でのアイスホッケー人気衰退の大きな要因とされるのが、サッカー、そして野球の台頭だ。北海道はかつて「野球後進国」でプロ野球は巨人戦の中継しかなく、大半が巨人ファンだったが、日本ハムファイターズが本拠地を札幌ドームに移し、野球人気が高まった。コンサドーレ札幌の発足でサッカー人気も同様。
かつては釧路や苫小牧の少年たちのスポーツといえばアイスホッケーだったが、徐々に野球やサッカーがそれに取って代わっていく。

 日本リーグ選手の8割を輩出していた両市は寒冷地だが雪が少なく、冬は校庭の一角に水を撒けばリンクに早変わり、子供たちもそこで練習していた。今はそんな光景も少ないという。釧路工業高校などとインターハイ決勝を争っていた駒澤大付属苫小牧高校も以前はアイスホッケーで知られる高校だったが、近年は米大リーグ投手の田中将大を輩出し、野球で有名になってしまった。

 クレインズの24人の選手の引き受け先は未定だ。日本製紙は地元にとって羨ましい就職先でもあり、アイスホッケーの上手な少年を持つ親たちも選手にしようと必死だった。もうそんな光景もない。1980年代の釧路赴任中、十条製紙が日本リーグでほとんど全敗していた王子製紙に引き分けた大激戦(5対5)を見て感動し、一時はアイスホッケー担当記者にまでなった筆者には寂しい限りである。
(文=粟野仁雄/ジャーナリスト)

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