異色の“がん闘病本”著者インタビュー【後編】

 2018年10月、仙台在住の菊地貴公さんが著書『フガフガ闘病記 オシャレは抗がん剤より効くクスリ?』(TYPHOON BOOKS JAPAN)を上梓した。S状結腸癌のステージ4、腹膜播種もあり余命2~3年を宣告された、おしゃれ好きの妻・ナオミさんの闘病記。

ナオミさんは、2013年11月にS状結腸の腫瘍を摘出後、2015年11月には滋賀県の病院で腹膜播種(腹膜の細かい腫瘍)を摘出する大手術を行う。その後、脳への転移が認められ、肝臓、肺の腫瘍も増悪。2017年10月5日、47歳で逝去した。

 この【後編】では【前編】に続き、ナオミさんが行った治療について現在ではどのように考えているか等々、当事者ならではの現在のがん治療を取り巻く状況などについて、夫である菊地貴公さんに話を聞いた。

●菊地貴公(きくち・たかひろ)
テレビ番組ディレクター、CMディレクター。1965年、宮城県生まれ。仙台を拠点にテレビ番組やCMのプランナー、ディレクターとして活躍している。1995年~1999年、仙台市にて家具ショップ「BUBBLE」を運営。死別した妻についてのブログ「思い出したら泣いちゃうのに。」を2017年12月に開設。

●付きっきりの看病が必要になれば、洋服が買えない

――抗がん剤治療を行っていた地元・仙台の病院では腹膜播種の手術はできないということで、2015年11月、滋賀県の病院で腹膜播種を切除する大手術を受けられます。広範囲に渡って患部周辺を切除する可能性もあるリスクが高い手術で、批判的な意見もあるようですが。

菊地貴公 確かにネットの口コミ情報などを見ると、手術によって余命を縮めてしまった方や、長く生きられてもQOL(クオリティ・オブ・ライフ)が著しく低下してしまう方もいるといった情報もありました。
ですが、もちろん結果論でしかないけれど、ナオミちゃんの場合は、この手術をしたおかげで1年くらいは長く生きられたと思います。滋賀に行くついでに京都旅行を楽しむこともできましたしね。

――地元・仙台の病院では施術できる医師がいない手術だったということですが、この手術を含め、ナオミさんの闘病中、治療費に対しての不安はありませんでしたか?

菊地貴公 がんの発覚以前から宮城県の県民共済には入っていたので、入院や手術代をある程度まかなえる分は支給されました。よく知られている通り、保険が適用される治療費については、「高額療養費制度」を申請すれば、所得に応じて設定された1カ月の上限額を超えた分は、あとから戻ってきます。うちの毎月の負担上限額は4万円程度でしたので、それ以上はかかりませんでした。

【編註:現在では、あらかじめ「限度額適用認定証」の交付を受けて病院に提出していれば、最初から、その月の限度額を超える分を支払う必要はなくなる】

 もしナオミちゃんが動けなくなって私が付きっきりで看病せざるを得なくなったら、収入がなくなるので洋服を買うどころではないな、貯金を取っておかないとな……などとは漠然と考えていましたが、そんなことを考えているうちに亡くなってしまった……という感じでしょうか。

●フリーランスだからこそ、闘病に寄り添えた

――菊地さんはフリーランスのテレビ番組やCMのプランナーとして活動されています。ナオミさんの闘病中、菊地さんのお仕事には、実際のところどの程度の影響があったでしょうか?

菊地貴公 抗がん剤治療でもたいした副作用は出ず、付きっきりで看病するような必要はなかったのですが、いつ何が起こるか不安なので、自宅とは別に借りていた仕事場ではなく、自宅で仕事をするようになりましたね。仕事についても、「何日に撮影で納品がいつ」といった形でスケジュールが見えているレギュラーものの仕事だけを受け、予定が見えない突発的なものは、できるだけセーブ。また闘病そのものについては、仕事関係者を含め、知人に言っても心配をかけるだけだと思い、ほとんど言っていませんでした。ただ、急に仕事に行けなくなるような状況に陥るとやばいので、万一のときには別の人を立てられるよう、限られた人には伝えていました。

 こうした融通を利かせた対応ができたのは、私がフリーだったことが大きいでしょう。
サラリーマンの方では、なかなかこのような対応は難しかったかもしれない。そういう意味では、フリーという私の立場のおかげでナオミちゃんと4年間一緒にいられたわけで、恵まれていたとは思いますね。

――菊地さんは東北地方の中核都市である宮城県仙台市にお住まいです。一方で、医療に関しての選択肢がもっと豊富な首都圏にご在住ではない。実際、腹膜播種の手術を行っている先生が仙台にいなかったから滋賀まで行かれたわけですが、がん治療と居住地との関連性という問題について、居住地によるハンデなどは感じましたか?

菊地貴公 2017年4月に脳に転移したときは、サイバーナイフ(放射線治療装置の一種で、腫瘍にピンポイントで放射線を照射する装置)は地元・仙台の病院にありました。逆に、その手術のために遠くから来ている患者さんもいますし、そういう意味では、地方在住だから一概に不利だ、とまではいえないと思います。滋賀の先生による手術はちょっとリスキーなので、その手術を受けると、もともとかかっていた病院では診てもらえなくなるというケースもあるそうなのですが、私の地元の東北大学病院は、「これでよくなるといいですね。引き続き抗がん剤治療を続けましょう」と迎えてくれた。これも大変ありがたかったですね。

 いい先生も悪い先生も、患者さん次第だというところも大きいと思うんです。ナオミちゃんにとっていい先生が、みんなにとっていい先生だとも限りませんし。ナオミちゃんは、先生に全面的にお任せするというよりも、自分できちんと調べて、「こういう治療法があるようですが、どうですか?」とよく質問していました。
それに対して地元の先生は、「素人なんだからこっちの言ったことだけやってればよい」といった態度ではなく、「それは私も知らなかったので、調べてみましょうか」と言ってくださるような方だったので、そういう点でも信頼できましたね。

●痛みにのたうち回るような最期は回避できた

 菊地さんは、ナオミさんの闘病における最後の転換期として、最期の1週間を挙げている。転移した肝臓がんの進行が早く、すでに抗がん剤治療も手術も行えない状態。ナオミさんは大学病院をいったん退院し、彼女の闘病を知っている限られた友人たちと一緒に、食事会を開いた。そののちすぐに入院。苦しみを極力避けるため、モルヒネの点滴を行っていく。

――長い治療の中でも、最期のその1週間は、それ以前の治療とは状況がまったく違ったということですか?

菊地貴公 闘病4年間のうちの1週間という短い期間ですが、あっという間に、急速に状態が悪化するのを目の当たりにしました。昼に退院したときと夜とでさえ、まったく様子が違うほど。5時間くらいの間に、急にげっそりとしてしまう。家の中の移動でさえ、おんぶが必要なほど動けなくなり、本人もくやしがっていました。

 ナオミちゃんは、「生きたいわけじゃない、死にたくないの」と言っていました。当事者の闘病ブログでは、ある時期に急に更新が止まり、しばらくしてご家族によって「ご報告、◯◯は旅立ちました。
最期は凄絶な痛み、苦しみと闘いましたが、今は楽になったと思います」といった文章が書かれるケースがたびたびあったからです。つまり、痛い、苦しいというのが嫌だと。

 けれどナオミちゃんは、最期の1週間までは普通にごはんを食べたりおしゃれをしたりしていましたし、動けなくなってからは入院してモルヒネを打ち、痛みを感じることもあまりなく、夢みたいなことばかり言って混濁状態になり、そして3日後に亡くなりました。本を出版したのは、「がん患者は苦しい最期を迎えるばかりではない」ということを一般の方にも知ってほしいという思いからでもあります。もちろん、4年間のほほんと闘病していたわけではなく、自宅で青い顔をして「お腹が痛い」と苦しんでいたことも何回もありますし、脳に転移して顔面麻痺にもなりました。ただ、一番恐れていた、痛みにのたうち回るような最期の瞬間は回避できた。

――川島なお美さん(2015年9月に胆管がんで死去)や小林麻央さん(2017年6月に乳がんで死去)が亡くなった際には、代替医療や民間療法など、一般的には「エビデンスがない」「治療効果がない」との批判もある治療について、取り沙汰されました。ナオミさんの場合、治療についてご夫婦で意見が分かれたことはありましたか?

菊地貴公 がんが発覚したばかりの頃は、よくわからないサプリのようなものを買って飲んだこともありました。けれど、あえて話し合ったわけではありませんが、お互い早々に、暗黙のうちに「こういうものは違うね」という雰囲気になりました。私はマスコミ業界に身を置いているという職業柄、ある程度は情報に対して敏感なところもあったし、ナオミちゃんも、いろいろな情報をネットでとことん調べるタイプだったからかもしれません。さまざまな治療法に惑わされる気持ちもわかります。実際、私たちも一瞬惑わされましたから。
そこで意見が合わずにけんかになる夫婦もいるかもしれない。

●東日本大震災で、人間ドックに行けなかった

――いま、ナオミさんへの治療に関して後悔の念はありますか?

菊地貴公 いえ、ありません。手術によってQOLが落ちていたら、後悔していたかもしれませんが。患者が亡くなったあとに、「もっとやれることがあったんじゃないか」と遺された人が考える……というケースも多いようですが、私に関しては思い浮かばないですね。もっといろいろな抗がん剤を試してみたかったとは思いますが、死期に関しては、そんなには変わらなかっただろうとも思いますし。

――発見された段階でステージ4だったそうですが、もっと早くに発見できれば……という思いはありますか?

菊地貴公 そうですね。長年苦しんだ便秘の原因が腫瘍にあるのかもしれないと思い当たれば、腹膜播種になる前に摘出できたかもしれないとは思います。2011年3月の東日本大震災までは毎年人間ドックに行っていたのですが、震災でバタバタしてしまい、結果として健康診断を2年ほどサボってしまった。ちゃんと検診を受けていたら、違っていたかもしれない。でも、そんなことを言っても時間は戻せませんから。だからナオミちゃんとは、そういうことは一切話しませんでしたね。

 死別後、友人たちに「健康診断にはちゃんと行っておいたほうがいいよ。
ナオミちゃんが行けと言ってるよ」と言うんですが、みな、「そうだね」と生返事をしつつ、結局は面倒でなかなか行かないんですよね(笑)。それはやっぱり、当事者になってみないとわからないことなのかなあと。若いうちはなおさら、まさか自分が大病をするなんて思ってもみないでしょう。

 手術も難しい、抗がん剤も効果がない――そのような最期の頃、それでもナオミさんは、こう口にしたという。

「意味がないって言わないでほしい」
「わたしは頑張りたいって思ってるのに、そんなこと言われたらどうしていいかわかんなくなる」

 ナオミさんが遺した言葉とともに、今、菊地さんは前に進もうとしている。
(構成/安楽由紀子

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