「リカちゃん」人形の生みの親で、玩具メーカー大手タカラ(現タカラトミー)創業者の佐藤安太(さとう・やすた)さんが2月26日、老衰のため死去した。94歳だった。

後日、お別れ会を開く。

 佐藤氏は1924年3月、福島県いわき市に生まれた。米沢工業専門学校化学工業科(のちの山形大学工学部)在学中に学徒動員となり、福島県郡山市で終戦を迎えた。45年同校を卒業、上京した。

 53年、東京・葛飾区で佐藤ビニール工業所を設立。ビニール製の雨合羽や雑貨をつくった。経営指導で「戦略」という言葉を知る。戦時中に習った陸軍幹部養成用の教科書を読み返してみると「勝つには敵の弱点にわが方の戦力を集中して攻撃し、突破口を開く」とある。成功には競合他社が不得意な新製品の開発が必要だと気付き、ビニール人形を試作した。

 モデルは小学生の時に愛読していた戦前の漫画『冒険ダン吉』。南の国に渡ったダン吉のために、ヤシの実を採ってくれる部下ウインキーをイメージし、「木のぼりウインキー」と名付けた。

 60年、銀座の百貨店一階に「木のぼりウインキー」を置いてもらうと、ウインキーを見た女性店員が「わー、かわいい」と腕につけ、そのまま食事に出掛けた。
ウインキーが「だっこちゃん」に変わった瞬間である。さらに大相撲の七月場所のテレビ中継で、その人形を持った観客が映ったことから全国的に流行が拡大。「だっこちゃん」の愛称が定着した。

 佐藤氏はウインキーを腕につけるなど、まったく想像していなかった。ブームになったことさえ信じられなかった。1年で240万個を販売したが、人気があったのは1年間ほど。「デザインが黒人差別だ」との批判が出たのは、だいぶ後のことだ。

●着せ替え人形「リカちゃん」がロングセラーに

 だっこちゃんの人気が去り、「自分は売れる仕組みが全然わかっていない」と気付いた。

 ビニール加工のノウハウを生かして着せ替え人形市場への参入を計画していた佐藤氏は、きちんとしたストーリーをつくり、良い品質の商品をつくり、効果的な宣伝が伴えば、米国のバービー人形のように息長く売り続けることができると考えた。

 66年、社名をタカラに変更した。

 着せ替え人形「リカちゃん」誕生の秘話を、2019年3月3日付東京新聞のコラム「筆洗」は、こう綴った。

「その少年は一三歳の時、高台の洋館に住んでいた一人のお嬢さんが気になってしかたがなかった。

▼赤い屋根。庭にはブランコ。一九三七年(昭和十二)年ごろの福島での話。当時としてはモダンな家だったのだろう。女の子は少年と目が合うと、ニッコリとほほ笑む。少年は洋館の前を行ったり来たりしていたそうだ。
▼約三十年後、大人になった少年はお嬢さんの面影からある人形を考える。今なお子どもたちにかわいがられている『リカちゃん』人形である」

 企画するにあたり、ファッションドールというテーマを掲げた。小学生という設定、小さな女の子の手で持てる身長21センチという大きさ、当時流行していた少女マンガのヒロインのような顔立ちが採用された。

 67年、リカちゃんを発売した。米マテル社のバービーなど競合製品が先行していたため、初のテレビCMを打つなど広告やマーケティングを徹底した。最初の1年で48万体を売るヒット商品となった。
目がパッチリして可愛いという親しみやすい仕様が日本の女の子たちに受け入れられ、発売から2年後の69年には、リカちゃんの売り上げがバービーを上回った。

 当時、玩具の流行の期間は1年とされていた。「2年目は別の人形を」と主張する問屋に、佐藤氏は「今年もリカちゃん」と言い続けた。

 佐藤氏は、きちんとしたストーリーをつくればロングセラー商品になると考えた。リカちゃんには、両親や妹に弟、大勢の友人の人形が存在する。バービー人形には両親はいないそうだ。狙い通り人気は続いた。小学生の女の子の定番商品となったリカちゃんは、累計販売数が6000万体を超えた。

 佐藤氏はリカちゃんのほかにも「人生ゲーム」や「チョロQ」など、数々の人気商品を世に送り出し、「おもちゃの王様」と呼ばれた。

 2002年、佐藤氏はタカラの経営から退いた。タカラは06年、トミーと合併しタカラトミーとなった。

 佐藤氏は引退後、人材育成に携るNPO法人の理事長などを務めた。
10年、86歳にして山形大学で工学博士号を取得したことが話題になり、山形大学の客員教授にも就いた。

 日本の女の子たちに可愛がられた「リカちゃん」の生みの親が旅立った。
(文=編集部)

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