日本では4月、大学の入学式や企業の入社式が行われたが、メディアでは大学の入学式で男女の服装が黒一色だと話題になっている。葬式ではないのに黒一色のスーツとは、私が住むフランスでは考えられないが、不気味といえば不気味である。



 そもそもフランスでは入学式を盛大にはやらないし、親も出席などしない。なぜかというと、入学しても進級が厳しいので、無事に卒業できる保証はないからである。その代わり、卒業式はフォーマルな場なのでガウンとキャップを着て盛大に行う。親族も参加することが多い。日本では卒業式より入学式が盛大なイベントになるのは、大学に入れば簡単に卒業できるので“入学式で一丁上がり”ということであろう。

 私が聞いた範囲では、今年の東京大学、早稲田大学、国際基督教大学(ICU)など、多くの大学の入学式で新入生は男女とも黒などのダーク系スーツだという。
私が教鞭をとる明治大学も例に漏れない。明治大学は毎年4月7日に日本武道館で入学式を行うが、写真を見るに圧倒的に黒などダーク系のスーツであり、それ以外を見つけるのは難しい。明治大学のモットーは「個を強くする」だが、これでは埋没して個も何もない。いや、人は中身だろうという人もいるだろうが、一事が万事という言葉もある。髪の毛が茶髪の人もいるだろうから、それが個性といえるのかもしれないが。

 学生たちがこうした服装をする理由として、昔からの減点主義や横並び主義を挙げる社会規範論もあるが、どうもしっくりこない。
昔は減点主義と横並びで会社員人生を全うできたが、今の学生はそうは思っていないであろう。経団連の中西宏明会長が終身雇用の維持は難しいと明言するくらいなので、終身雇用もさほど信じられているとは思えない。

 これだけ環境変化が激しく、シャープや東芝など由緒ある大企業であっても一寸先は闇である。政府を筆頭に耳にタコができるほど「多様化、多様化」と呪文のように叫ぶので、周りをみて画一化に向かうのが正しいとは学生は思っていないのではないか。しかし彼らは、入学式が示すように多様化とは真逆に進み、その傾向が強くなってきているようでもある。

●自己効力感を感じられない社会

 筆者が思うに、今の学生たちは人生で自己選択をしたことがないのではないか。
お受験を通して親がすべてを先回りして計画するので、子供は自分で選択する機会がない。そして、入試を通して、彼らの多くはいつも「選んでもらう存在」だった。序列の明確な大学ランクでは、東大を筆頭に高いランクの大学から、学生は選ばれた、選んでもらった、入れてもらったのである。東大を自分が「選んでやった」と思う学生は、どれくらいいるのであろうか。受験戦争の勝者とは選ばれた者である。

 そもそも、日本の入試は、学生の出来を見ているのではなく、落とすためにあるのであるから、生き残りゲームのようなもので、残った者は選ばれた者という意識を持つだろう。
入学式で「君たちは選ばれた」などと言うからたちが悪い。つまり、これまでの人生で、いつも「選択される側」で「選択する側」になったという意識を持ったことがないのではないか。

 これでは、自己効力感を感じられない。そもそも、政府が働き方や休みも国民に指図する日本は、明らかに自己効力感を感じられない社会である。自分に選択権のない社会に住み、次もきっと誰かに選択されると思っているのではないか。もはや、この「選択される」という意識は、姿勢として埋め込まれている。
将来の希望がどんどん持てなくなるなかで、閉塞感を感じながら、その一方で選択されることが染みついた若者は、「自分では何も変えることはできない」とあきらめているのかもしれない。
 
 自己選択をしない者は、自己判断する基準を持っていない。多様化とは可能性の広がりであるが、多様化する環境とは、自分の価値判断がしっかりしていないと辛い環境である。選択されてきた者にとっては、好ましい環境ではない。多様化の重要性を理解していても、拒絶反応が出てきてもおかしくはない。「大学に入学したから、今日からテストという一元化から解放され、多様化の世界になります。
なので自己判断しましょう」は、まさに敗戦によって「天皇陛下万歳」が一夜にして、その内容を理解しないまま「民主主義万歳」になったのと同じ構図である。

 興味深いのは、今年とバブルの走りの1986年の日本航空の入社式の服装の違いである。今年の入社式を見るに、示し合わせたようにほぼ全員が同じ髪型でダーク系スーツ姿である。

 一方、1986年の入社式の写真を見ると、服から髪型までみなバラバラで個性的である。この違いは何から来ているのであろうか。私も1980年代前半の就職組なのでわかるが、この時代はバブルに向かい、閉塞感がなく、内定長者も多く、学生が「会社を選んでいた時代」ではないか。仮説であるが、「自分が会社を選択した」という意識から、入社式の服装についても周りとは関係なく自分で決めていたのではないか。当時は情報入手が容易な今とは違うという見方もあるだろうが、多くの人が同じようにインターネットで調べるというのは、私のいう自己選択ではない。

●選択されてきた者の身体的反応

 安倍政権のおかげで、高い有効求人倍率を背景に、ここ数年の新卒の就職率は高いのだが、それは人気のない企業の求人も含めた全体で高くなっているということでもあり、上位の人気企業への就職は極めて熾烈である。やはり「企業に選ばれた」という意識が強くなるのではないだろうか

 就活で学生たちはみな同じようなリクルートスーツを着ているが、人と違ったことをして選ばれない原因となることは極力せず、自分で責任を取らない安心な状況をつくりたいわけである。ゆえに、皆と同じリクルートスーツを着て一生懸命個性を語るという、興味深い現象が生まれるわけだ。入社式もその延長である。

 このように考えると、それまでの人生で選択されてきた者が、身体的反応として周りに判断基準を求めるのは不思議ではない。前述のとおり自分が選ばれない原因を極力排除していけば、結果は皆と同じになってしまう。これは、無難な選択というよりも、選択されないで後悔することになる要素を身体的に排除しているのである。

 生き残るためにはリスクテイクが前提となる多様化が避けられない状況のなかで、このような新入生や新入社員は、果たして生き残れるのか、一抹の不安を感じずにはいられない。

 筆者は、すべての国民に「選択される権利」を与えることを是とする政府と、それを望む国民と国家に将来はないのではないかと考える。少なくとも、大学で学生たちが選択肢を拡大し、選択の自由を確保するにはどのようにすべきなのかを真剣に考えて、実践するようになってもらいたいと思う。そのために教員は何ができるのかを、真剣に考えなければならない。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)