若い頃からの目標が、永久に続くというのは当たり前ではない。長い人生、価値観が大きく変わることはあるものだ。

ビジネスカンファレンスMASHING UP Vo.3(2019年11月開催)では、そんな人生の転換期に大きくキャリアチェンジしたEBEL代表、保育士の髙田勇紀夫さんと、華道家の山崎繭加さんが登壇。マッキンゼー等外資系企業を経て、ほぼ日のCFOを務めた篠田真貴子さんをモデレーターに迎え、「新たな夢への飛び込み方: 長い人生、価値観は変わる。肩書きも学歴も関係なく、キャリアチェンジしてみた」と題したトークセッションを行った。

名刺を破かれてもくじけなかった会社員時代

髙田勇紀夫さんは、1974年、日本IBMに入社。ITがまさにスタートした頃で、「これからはITの時代になる」という思いを抱いての就職だった。以来、2011年の定年退職まで38年間、勤め上げた。

「SEからはじまって、営業、本社、工場と周り、海外ではアジア地区や米国本社でマネジメントをして、内部統制や小会社の売却にも携わりました。

いろんなことを経験させていただいたのは大変ありがたかったですね」(髙田さん)

印象に残っているのは、SEから突如、営業に異動した頃のこと。大手の銀行を担当することになり、事務センターに挨拶に行くといきなり名刺を破かれた。

「『うちはA社とB社を使っているから、もう来なくていいよ』と言うわけです。当時は通産省指導の『国産を使いましょう』という運動もありましたからね。それで発想を変えまして、銀行本店の近くにある喫茶店に毎朝8時に通いました。そして、毎日一部門、各部門部長のところに『5分、お時間をください!』と周り、1年目に本部に導入が決まり、2年目に事務センターにも導入していただき、出入り禁止が解け、3年目に銀行の基幹システムを入れ替えていただきました」(髙田さん)

新聞記事に衝撃を受けたことがきっかけに

EBEL代表、保育士 髙田勇紀夫さん。

仕事に情熱を捧げたIBM時代。

昭和という時代背景もあり、「男は外で稼ぎ、女は家を守る」というのが当然だと思っていた。転機が訪れたのは4年前のこと。

「新聞で、いわゆる“保活”に失敗した女性が仕事を失うという、非常に悲惨な記事を読みまして、こういうことが世の中にあるのかと。それまで自分がいた世界では想像もしていなかった内容で、とてもショックを受けました。これは大問題だと思って調べたら、政府は25年も前から手を打っているにも関わらず、改善できていないのです。それなら自分が何かできないかという気持ちになりました」(髙田さん)

とにかく「何かをしないとまずい」という、心底から沸き起こるような強い問題意識があったという髙田さん。

まずは内部で何が起こっているのかを知る必要があるものの、部外者では保育園に立ち入ることも許されない。そこで、「それなら自分が保育士になろう」と、はたから見れば飛躍と思える結論に至る。もともと「考えるより、行動する」タイプなのだ。

「保育園と幼稚園の違いもよくわからない、ピアノも弾けないし、『パプリカ』も踊れない。ないないづくしで悩みましたが、ぜひ自分でやってみたいと思ったのです」(髙田さん)

子どもと親、保育士仲間を思いやる「じじ先生」に

「保育士になりたい」と妻に言うと、「自分の子どもさえ満足に子育てできなかった人が、できるわけない」と反対された。しかし、それ以上に突き上げる思いがあった。そして、髙田さんに若かりし日に発揮した情熱と行動力が蘇る。

「大学に入り直すと時間がかかりすぎるので、通信教育で勉強して保育士試験を目指しました。4か月、1日8時間勉強して、春の試験で落とした分は秋で取り返し、ようやく合格したのです。しかし、ハードルはそれだけではなくて、就職しようと思って仲介サイトに登録しようにも、59歳までしか年齢のタブがないわけです。当時私は65歳でしたから、職場を探すのも一苦労でした」(髙田さん)

それでも働き先を見つけ、晴れて保育士に。紙オムツの前と後ろもわからなくて周りを驚かせながらも、情熱の炎を絶やさずに現在に至る。

「朝、保育園に行くと子どもたちが『じじ先生、お相撲して!』とか『じじ先生、紙芝居やって!』と飛びついてくるんです。

保護者の方が、『うちの子をお願いします』と言って仕事に向かうときの後姿を見て、やっていてよかったな、と思っています」(髙田さん)

今後も、子どもと保護者のために役立ちつつ、現場を担う保育士の女性たちが幸せになれるよう、保育士の婚活を助ける仕組み作りに貢献できれば、と考えているという。

外資系コンサル、東大、ハーバードで夢中になって働く日々

華道家 山崎繭加さん。

いけばなの叡智をビジネスや教育界につなげるIKERUを主宰する華道家の山崎繭加さん。19歳からいけばなをはじめ、2011年に師範となる一方、大学卒業後に入社したマッキンゼー・アンド・カンパニー東京大学助手を経て、ハーバード・ビジネス・スクールの日本リサーチセンターに10年間勤務するなど、現職とは無縁のキャリアを築いてきた。

仕事は3回変わりましたが、それぞれ夢中になりました。マッキンゼーではハイテンションで、ひたすら働いて、頭をフル回転させてインパクトを出すことを考えて。東京大学では、私は珍しい民間出身のスタッフだったので、だからこそ大学を変えていくということに集中しました。

ハーバードでは、ハーバードの教授と日本についての教材を教授と一緒に作ったり、日本についての研究をするという仕事で若い頃に比べれば落ち着いたトーンに変わりつつ、それはそれで熱中していました」(山崎さん)

いけばなをして得た「生きている」実感

最後のハーバードでの仕事では、後年「やり尽くした」という思いを抱くようになったという山崎さん。そんなとき、パーティーと展覧会で、1日に2度、花をいける機会があった。

「華道業界は高齢化が進んでいて閉鎖的なところもある世界です。そうした中では、いくらいけばなが好きでもその世界の中でいけばなの先生になるのは違うな、とずっと思っていたのです。でも、1日に2回、花をいけたその日は、本当にその日を生きたという実感がありました。それで、どうやらいけばなは私にとって本当に大切なもので、私が私であることを最も引っ張ってくれているものだと気づいたのです」(山崎さん)

ハーバードの教授陣が来日したとき、自ら申し出ていけばなセッションを開催したところ、ものすごい反響があったこともきっかけとなった。「いけばなは世界に通用する価値のあるものだ」という確信を持った瞬間だった。

過去のキャリアを新しい夢につなげて

ハーバードの教授からは、ハーバードで働きながら少しずついけばなの活動をやればいいのではという意見もあったが、それよりも華道家として独立して本気でいけばなをビジネスにつなげていくことを選択した。

いけばなは単なる趣味やお作法ではなく、今、ビジネスが求めているものの中核を成すものだということを伝えたい、企業研修としていけばなを導入していこうと思い立ちました」という。この点は、ビジネス・スクールでのキャリアがあってこその視点といえるだろう。

「さらにちょうどその当時、奇跡的に結婚したのですが、楽観主義の夫に背中を押してもらった、ということもあります」(山崎さん)

迷うことも尊いプロセス

振り返って感じるのは、価値観の変化は突然変異的に起こったのではなく、さまざまなものが繋がって、自然に起こったということだ。

「数年前まで、自分のやりたいこともよくわからず、独立する人とか起業する人とか見て、『すごいな、いいな』と、ずっと思っていたのです。でも、独立や起業というのは、それまでのその人のいろんな想いや経験が繋がって、そのときが来れば、自然とその道を歩き出すということなのだな、と思います。もし今、迷っている方がいたら、その悩み自体も尊いし、迷った先に、きっと何か新しいものが拓ける。私自身の経験をもとに、力強く『大丈夫です』とお伝えしたいと思います」(山崎さん)

若い頃の夢に固執せず、柔軟に生きる

篠田 真貴子さん。

外資系企業から「ほぼ日」へと転職したモデレーターの篠田さんは、2人のトークを聞いて次のように語った。

「若手のときは、自分らしさをすごく探していますし、ちょっと見つけたらそこにすごくしがみついてしまいます。これこそが自分だと信じたくて、それを命綱のようにしてしまうのです。でも今、お話があったように、実は私たちの価値観は、大きく変わるときがあります。内面が大きく変われば、キャリア選択も当然、変化します。外野からはその内面の変化が見えないから、過去のキャリアを捨てると『もったいない』とか『無理だ』と助言をされてしまうけれど、自分としては冒険しているつもりはなく、自然な選択なんですね」(篠田さん)

過去の自分を否定するのではない。だが、価値観が変わったことに気づいたら、人生の目標とともにキャリアが変わるのも自然なことだ。新しい夢へと歩き始めた2人を称賛しつつ、自分の価値観を変えるきっかけに出会ったときには、チャンスを逃さないよう柔軟でありたいと思わせられたセッションだった。

MASHING UP vol.3

新たな夢への飛び込み方: 長い人生、価値観は変わる。肩書きも学歴も関係なく、キャリアチェンジしてみた

撮影/今村拓馬

▼ Sponsored

コロナ後を自ら創る。Unchainedがラディカルに描く未来の社会/小林弘人 ✕ 菊池紳