Text by 大石始
Text by 山元翔一
2月以降、毎日のように報じられているから、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻のことを知らないという人は限りなく少ないだろう。テレビやラジオ、ニュースサイトやSNSを通じて発信されるその情報は、2022年の日常の一部にすらなっている。
印象深く思い出すことがある。それは3月5日のこと、新宿駅前で行われていたウクライナ侵攻に対する反戦デモのすぐそばで、沖縄の辺野古新基地建設問題に抗議する人々が集まっていたのだ。ウクライナの人々の安全と平和を願うのと同時に、日本の安全と平和のために沖縄が犠牲になっていること、第二次世界大戦の負債をいまなお背負い続けていることを心に刻み続けなければならないーーあの日、そう強く感じさせられたのだった。
それから3か月ほどが経ち、本土返還50年という節目の年、6月半ばの梅雨真っ只中の沖縄に我々は飛んだ。
思えば、あの日のデモの中心に音楽があったように、沖縄が直面する現実、その背後にある歴史について考えるきっかけを私にくれたのは音楽家たちだった。かつて、デモの首謀者のマヒトゥ・ザ・ピーポー、そして七尾旅人の歌と取材を通じて受け取った言葉たちに私がきっかけをもらったように、音楽を通じて沖縄について知り、考えるきっかけをつくりたいーーそんな思いから、文筆家の大石始と沖縄に取材に向かったのだった。
CINRAでは、沖縄の音楽、そのなかでも「ウチナージャズ」(沖縄のジャズ)にスポットを当て、3人のミュージシャンに取材を行なった。そしてその内容をもとに、沖縄が背負っているものに考えをめぐらせるべく、「連載:#沖縄返還50年とウチナージャズ」と題し、複数回にわたって記事を掲載していく。本稿は、いわばそのイントロダクションにあたるものだ。
私たちの記事があなたにとって、沖縄の歴史や現実について知るきっかけになれば何よりだ。
2022年5月、沖縄は1972年の本土復帰から50年を迎えた。
実際、今回の取材中、何度も「50周年の祝いなどではない」という地元住民の言葉を耳にしたものだった。沖縄の外部に住む私たちは、基地を取り巻くさまざまな問題や課題をどのように自分事としてとらえることができるのだろうか。
その気づきのきっかけとなるかもしれない一枚のジャズアルバムがリリースされた。それがウチナー・ジャズ・オール・スターズの『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』だ。
アメリカの占領下、キャンプ内のクラブでは多くの沖縄出身ジャズマンが演奏を行ない、1950年代から60年代にかけてはウチナージャズ(沖縄のジャズ)の黄金時代が築き上げられた。ジャズクラブでは腕のあるプレイヤーが当時最先端のジャズを演奏し、カウント・ベイシーやルイ・アームストロングなどアメリカの大物ミュージシャンが沖縄にやってきては彼らに刺激を与えていった。
その一方で、1972年の本土返還によって多くのジャズマンが仕事を失い、そのなかには廃業を余儀なくされたプレイヤーも少なくなかった。ウチナージャズの歴史とは、時代に翻弄され続けた苦悩の歴史でもあったのだ。『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』にはそうした時代を知るレジェンドが多数参加しているほか(最高齢は92歳)、そのスピリットを受け継ぐ若手たちが彼らをバックアップしている。

1954年撮影の一枚。提供者であり、本企画の協力者のひとりである上原昌栄(右端)はこのとき18歳
『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』が発売された6月22日とは、沖縄戦の犠牲者を偲ぶ「慰霊の日」の前日にあたる。
現在86歳の上原昌栄は、ウチナージャズの生き証人だ。1950年代初期、高校生のころに米軍クラブで演奏活動をはじめ、現在まで沖縄を代表するジャズドラマーとして活動を続けてきた。
1950年代は沖縄島における基地の拡大とともに、ジャズクラブが増えていった時期。上原もジーン・クルーパやバディ・リッチといったジャズドラマーに憧れながら、ビッグバンドスタイルのスウィングジャズからモダンジャズを吸収していく。

上原昌栄(うえはら しょうえい)
1936年1月15日、那覇市生まれ。父親が琉球古典音楽をやっていた関係で物心がつく前から音楽に対して関心を持つようになる。1953年、高校在学中、米軍のクラブでプレイするようになる。担当楽器はギターとトランペット。その後ドラムを担当する。高校卒業後も米軍のクラブを中心に演奏を続け、1960年に沖縄一を誇るクラブ「V.F.Wクラブ」のオーディションに合格し、以後13年間ここを中心に演奏を続ける。
「東京からも声がかかったんですよ。君ぐらいの腕があれば東京でもやっていけるって」――だが、上原はその誘いを受け入れることはなかった。
「東京に行ってもいいけど、沖縄でもジャズはできますからね」
そこにはアメリカや東京を追いかけるのではなく、沖縄で自分たちのジャズを演奏するんだ、という意識も見え隠れする。
上原はドラマーである一方で、琉球古典音楽の師範でもある。「(演奏する)人が変わってもジャズであることは変わらない。ジャズというのは世界共通。琉球音楽は琉球にしかない」と話す上原が叩き出すリズムには、沖縄の暮らしのなかで育まれてきたリズム感覚がしっかりと息づいている。

上原昌栄(本人提供)。上原のリーダーアルバム『ウチナー・ビート!』(2011年)を試聴する(サイトを開く)
沖縄でジャズクラブが増加した1950年代とは、日本本土に展開されていた地上部隊が沖縄へと集約されていった時代でもある。「銃剣とブルドーザー」と呼ばれた厳しい土地接収によって人々の生活の場所は更地になり、そこに米軍基地が広がっていった。
1972年の本土返還後、米軍クラブは次々と閉鎖。ウチナージャズの火は消えたかと思われたが、時代に翻弄されながらも上原はジャズを手放さなかった。本土返還からの50年間について上原はこう話す。
「そのあいだ、生きるためにいろんなことをやってきました。でもね、自分がミュージシャンであるということは忘れたことがない。いままで聴いてくださった方のためにね、これからもがんばっていきたい。みなさんにもっと喜んでもらえるような音楽をやっていきたい。ジャズは何があっても私の身体からは離れない。私の生涯の宝物ですから」

上原昌栄。2022年、宜野湾にて(撮影:編集部)
『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』という作品は、本土返還の翌年にあたる1973年に那覇市首里で生まれたトロンボーン奏者 / アレンジャー、真栄里英樹がプロデュースを手がけている。

真栄里英樹(まえざと えいき)
沖縄県那覇市首里出身。
真栄里は両親ともに元ミュージシャン。ギタリストだった父は上原との共演経験もあるというが、1972年の本土返還とともに音楽活動を断念せざるを得なかった。
「時代の急激な変化もあって苦労したみたいですね。あの時代はよかったよという話は聞きましたけど、大変なこともたくさんあったと思います。だからなのか、ぼくが音楽をやることには否定的でした」
真栄里はウチナージャズの特徴をこう話す。
「沖縄には明るくて前向きなジャズが多いと思います。みなさんサービス精神旺盛で、『俺の音を聴け!』というプレイヤーはほとんどいない。沖縄の県民性もあると思うんですよ。

ウチナー・ジャズ・オール・スターズ『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』ジャケット(試聴はこちらより)
『ウチナー・ジャズ・ゴーズ・オン』の背景にもまた、「ゆいまーる」の精神に基づいた緩やかな結びつきが存在している。だが、そこには「支え合わないと生きてこれなかった」という厳しい現実があったことを忘れてはいけない。光があるところには闇があり、喜びの裏には苦しみと悲しみがある。真栄里はこう話す。
「沖縄が抱えている問題をいろんな方に知ってほしいですし、この作品がその入り口になったら嬉しい。基地の問題などに関して沖縄が強いられている状況は見えにくくなってるぶん、根深くなってると思うんですね。沖縄のことを知ってもらいたいんです」
1950年代のウチナージャズ黄金時代、その演奏は録音作品として残されることはなかった。アルバム制作がはじまったのは1970年代末以降。キャンプ内で演奏する機会が奪われ、米軍関係者以外に向けて演奏する必要に迫られてからのことだ。
「与世山澄子さんの“サマータイム”(1983年作『INTRODUCING』収録)を最初に聴いたときは本当にびっくりした。こんな歌を歌える人が沖縄にいたんだって。屋良文雄さんのアルバム『南風』(1983年)にもオーラがありますよね」
そう話すのはDJ NU-DOHだ。沖縄県与那原町生まれの彼は、ジャズやレゲエ / ダブに軸足を置きながら、ジャンルレスなプレイで知られるDJである。沖縄民謡とベースミュージックをクロスオーバーするChurashima Navigatorのメンバーでもある。

Nu-doh(Churashima Navigator / BAR MOHICAN)
1993年よりDJを開始。96年に上京。AUDIO SUTRAなどでの活動を経て2004年から沖縄へ戻り、2005年から地元・与那原町で「夜の人間交差点」BAR MOHICANを営む。 SINKICHI 、堀内加奈子とのユニットChurashima Navigator で『PLAY TIME FESTIVAL』(モンゴル)ほか多数のフェス等にライブ出演。シングル、アルバムリリース。 2019年、イアン・シモンズ のアルバムリリースツアーに参加。ワールドミュージック、琉球民謡好き。深みのある島人(シマンチュ)になるべく日々精進中。
彼が名を挙げる与世山澄子は、沖縄を代表するジャズシンガー。高校生だった1955年に米軍キャンプ内のクラブで歌いはじめ、1980年代には数枚の作品を残している。屋良文雄はピアニストとしてウチナージャズを体現する作品をリリースしている。DJ NU-DOHはこう続ける。
「与世山さんもそうだし、屋良文雄さんの『南風』にも沖縄っぽさがあると思う。メロディーは明るいんだけど、沖縄が背負ってきたものも詰まってる感じがしますよね。喜び、苦しみ、重さを、音楽を通して訴えようとしている」

屋良文雄『ベスト&ラストライブ』(2010年)ジャケット(試聴はこちらより)
ウチナージャズには内地のジャズとは異なる響きが詰まっている。
では、そのオリジナリティーを育んできたものとは何か? その謎を探ることで、沖縄をめぐる社会背景やアイデンティティーが浮かび上がるのではないだろうか。次回はウチナージャズのレジェンドのひとり、上原昌栄のインタビューをお届けする。