Text by 山元翔一
Text by よろすず
「アンビエントミュージック」の提唱者、ブライアン・イーノ。2023年にソロデビュー50周年を控え、今年10月には「現在の気候の非常事態」をテーマにしたアルバム『FOREVERANDEVERNOMORE』をリリースすることが発表されており、現在京都で開催中の大規模個展『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』も盛況だ(会期は9月3日まで)。
ミュージシャン、プロデューサー、アクティビスト、とさまざまな顔を持つイーノだが、今回の個展を機に、ビジュアルアーティストとしての側面にあらためて注目。アンビエントユニット「UNKNOWN ME」のメンバーであり、アートディレクター / グラフィックデザイナーとして活動する大澤悠大を招き、Shuta Hiraki名義で音楽制作も行なうライターのよろすずとの対話から「デザイナー視点で見たブライアン・イーノ」を紐解いた。
ブライアン・イーノ / Photo by Cecily Eno
ミュージシャン、プロデューサー、ビジュアルアーティスト、アクティビスト。1970年代より40枚以上のアルバムをリリースし、Talking HeadsやU2、Coldplayなどのプロデュース、デヴィッド・ボウイらとのコラボレーションといった音楽活動と並行して、光や映像を使ったビジュアルアートの創作活動を続け、世界中で展覧会やインスタレーションを行う。ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめ、広範囲に渡ってアート・エキシビションを行なっている。長期に渡るスパンで文化的施設や機関の基盤となることを目的とする「Long Now Foundation」の創設メンバー、環境法慈善団体「ClientEarth」の評議員、人権慈善団体「Videre est Credere」の後援を務めている。 2021年4月には「EarthPercent」を立ち上げ、音楽業界から資金を集めて、気候変動の緊急事態に取り組む最も影響力のある環境慈善団体への寄付を行なっている。
よろすず:展示を観る前の段階で、ブライアン・イーノというアーティスト / 人物にはどういった印象をお持ちでしたか?
大澤:ぼくがブライアン・イーノを知ったのは高校生のころで、そのころはイーノのアンビエントミュージシャンの側面はあまり知りませんでした。
当時はロックを聴いていたのもあって、ロック文脈での活動、たとえばデヴィッド・バーンとの『My Life In The Bush Of Ghosts』(1981年)を聴いて面白いなと思ったり、ソロ作だと『Another Green World』(1975年)などの歌ものをポップミュージックとして楽しんでいました。わりとポップミュージシャンとしてのイーノの印象が強かったのかなと思います。
アンビエントの側面はのちにクラブミュージック(※)や実験的な音楽を聴くようになってから、そういった流れのオリジネーターのひとりとしてあらためてしっかりと認識しました。
その当時の現行の活動としてWindows 95の起動音などをつくったり、音楽だけでなく映像やビジュアルデザイン方面にも精力的に活動していて、イーノはさまざまなジャンルを越境する総合的なアーティストだと思います。
大澤悠大(おおさわ ゆうだい)
アートディレクター / グラフィックデザイナー。1984年生まれ。2006年多摩美術大学卒業。広告制作会社などを経て独立。企業のロゴや広告、アーティストのジャケットなどのアートディレクション / グラフィックデザインを中心に活動。アンビエントユニット「UNKNOWN ME」「Atoris」のメンバーとしても活動中。最近の仕事は、崎山蒼志の一連のジャケットデザインや、三軒茶屋のレコードショップ『Kankyō Records』のロゴデザインなど。
よろすず:展示の全体的な印象はいかがでしたか?
大澤:個人的には、全体的に「研究者の実験」のような印象を持ちました。視覚がどのように聴覚に影響を与えるか、時間がどのように視覚に影響を与えるか、それぞれの作品に、人間の感覚の変容が関係しているような印象で、とても興味深かったです。
よろすず:まずは『The Ship』についてお伺いさせてください。
大澤:ぼくはきちんと音楽をリスニングする際、部屋を暗くし視覚情報を少なくして聴覚に集中させる、ということをよくやるのですが、『The Ship』の鑑賞環境にはそれと似たような印象を持ちました。部屋を薄暗くして聴覚に集中させることで、音楽が想起させるものをさらに増幅させているのではないでしょうか。
『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』より『The Ship』 / Photo by So Hasegawa
大澤:それと個人的な解釈として、アンビエントミュージックは大音量で聴くと小さな音で聴くのとはまた違った体験ができる、と考えていまして。『The Ship』は薄暗くして視覚を制限した状態で、大音量で音楽を聴くことで「心落ち着ける」とか「癒す」というよりは、スケールの大きなスペクタクルや物語を感じました。
よろすず:たしかに、『The Ship』は音量も大きめでしたし、場面によってはとてもダイナミックで。映画的ということができそうな作品ですよね。
大澤:そうですね。2020年に青山スパイラルホールで開催された『See by Your Ears』を鑑賞したときにも同じようなことを考えました。視覚と聴覚の関係性は本作にとってキーなのではないかなと思います。
大澤:それと空間設計も興味深かったです。ギターアンプやスピーカーが祭壇のように積まれているオブジェが点々とあって、これは勝手な想像ですけど、なんだか音楽自体が弔われているような厳粛な印象を感じました。
よろすず:『The Ship』は入口付近にも音が出ていないスピーカーがいくつも積まれていましたね。私は観た段階では意図を測りかねていたんですが、大澤さんの見解を聞くとたしかに暗闇に積まれたスピーカーにはある種の墓標的な趣を感じたりもします。
大澤:音楽もつねに緊張感があって、ときに不気味な印象すら感じました。
『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』より『The Ship』 / Photo by So Hasegawa
よろすず:次の『Face to Face』についてはいかがでしたか?
大澤:こちらの作品は、時間が視覚に与える影響の面白さを感じました。個人的な感想として、そこから連想したのはミニマルテクノのDJミックスでした。
ミニマルテクノのDJミックスは、部分的に切り出すと同じフレーズが繰り返される変わり映えのしない印象なのですが、トラックとトラックが徐々に重なっていくことでつねに変化し続け、同じ瞬間はない状態がつくりだされています。そんなところに面白味を感じる音楽です。そういう状態を視覚的に表現すると『Face to Face』のような作品になるのかな、なんて考えながら鑑賞しました。
『Face to Face』。横に3つ並んだ顔が少しずつゆっくりと変化し、年齢・性別・人種を超えてさまざまな人の顔を形成する
大澤:3つの顔がコンマ単位でゆっくりと変化するのは、パッと見だとその変化をとらえづらい。だけど、ちょっと考えごとをしていてふと気づくと全然違う顔になってたりする。
その感じは、ミニマルテクノのDJミックスで踊って夢中になってたら、気づいたときには全然違うトラックになってた、みたいな経験と似ている気がしました。
よろすず:この作品が「顔」という対象を用いていることについては、どう思われました?
大澤:『Face to Face』には「Equality=人間の平等性」を感じました。
年齢や性別や人種がランダムに移り変わっていくなかで、人間の属性と属性が混じり合い、ひとつなぎになっていく。
よろすず:私も『Face to Face』には人種問題や差別意識に触れてくるようなものを感じました。
イーノは音楽家としてのキャリアを確立する1970年代~80年代までは、政治的な立場や意見の表明を回避するスタンスでしたが、1993年からはじまった「ウォー・チャイルド」(※)との関わりを契機に、それ以降は紛争や移民、難民問題、環境問題、資本主義の構造的問題などについて積極的に発言や活動を行なっています。
『Face to Face』は今回の展示作のなかではそういった背景が色濃く反映された、ある意味では現在のイーノらしい作品という位置づけができるように思いますね。
よろすず:『Light Boxes』はいかがでしたか?
大澤:『Light Boxes』は、より抽象的でもうちょっとパーソナルな記憶とリンクさせてくる印象がありました。子どものころに見た海の水平線のことをぼんやり思い出したり、色によって山だったり街だったり、記憶のなかのいろんなものが想起させられる瞬間がありました。
よろすず:なるほど。モーフィング的にゆっくり移り変わっていくところなど、特徴や方法を抜き出すと『Light Boxes』と『Face to Face』は共通する部分も多いですよね。
でも一方で、前者は「光」と「色」という抽象的かつ普遍的な事象、後者は「顔」という具体的で鑑賞者の社会的な観点が発生しやすい対象を扱っているところが対照的という見方もできるように思いました。
大澤:そうですね。『Light Boxes』を内面的とするなら、『Face to Face』は社会問題や人種問題などもっと外側に意識が向く感じ。そういう意味では、たしかに対照的と言えそうですね。
『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』より『Light Boxes』 / Photo by So Hasegawa
よろすず:『Light Boxes』のいくつか発光する物体が並んで微かに干渉してる感じからは、UNKNOWN ME『BISHINTAI』(2021年)のジャケットを連想させられたりもしました。大澤さんの視点からは『Light Boxes』の「光」と「色」の扱いはどう感じられましたか?
大澤:『Light Boxes』の場合は立体作品という側面もあって、後ろの壁の色を変化させたりもしていたので、視覚表現的な意味では『Face to Face』とは近しいようでいて、違ったアプローチもしているんじゃないかなと思いました。
間接光などにも注意が行き届いている印象で、作品が立体であることも相まって平面ではなく、より空間的な意識を強めた作品なのではないでしょうか。
よろすず:立体であることはたしかに大きな違いですね。そしてその効果も言われてみるとたしかに。
大澤:あと、あの背景の色とそのライト自体の色の組み合わせがとても絶妙でグッときました。淡いながらも印象的な色合いで常に変化していくところにイーノの美意識を感じます。美しい色の組み合わせの妙をグラフィックデザイナー的には感じました。
よろすず:大澤さんはライブのVJもされていますが、そこでは「光」をどういったものとして扱っているのでしょうか?
大澤:UNKNOWN MEのVJでは、音楽を補うと同時に音楽に補われるような映像の流れを心がけています。僭越ながら、イーノの作品の空間にも共通するものを感じて嬉しかったです。
音楽を際立たせるために照明を暗くして視覚情報を減らしたり、部屋と部屋を超えた会場全体で共通の音楽がつねに鳴っていることで展示全体のトーンを揃えていたり。イーノのさりげない演出がとても効いています。
そのとき何を感じさせたいかによって、映像を動きのあるものにしたり、逆に静かな印象にして音楽を際立たせたりして、見る人の想像性を喚起するようなVJになればいいなと思ってます。
よろすず:次の『77 Million Paintings』は膨大な数の絵柄がゆっくり移り変わっていく作品で、そのなかで表れる一つひとつの絵はイーノが過去に描いてきたものです。ここで表れてくるイーノの絵柄をどう見ましたか?
大澤:デジタル処理されたアナログな絵柄は、アフリカの民族衣装や伝統的な文様のようなプリミティブな印象を受けました。
『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』より『77 Million Paintings』 / Photo by So Hasegawa
大澤:それと『77 Million Paintings』は視覚情報へのフォーカスという点で、『The Ship』と対照的な印象の作品に感じました。
『Face to Face』や『Light Boxes』のように、時間の経過とともにゆっくり変化していく作品ですが、そのなかでも『77 Million Paintings』は特にエンターテイメント性が強いのかなと思います。
よろすず:この作品は複数のモニターをパズル的に組み合わせているのが新鮮で、浮かび上がっている絵柄の性質によっては万華鏡やステンドグラスのように見えてきたりもしました。
大澤:展示空間自体も居心地がよくてとてもリラックスできました。ソファーがいくつも並んでいて、地面から天井まで竹のようなものが伸びていたり、砂山のようなものがところどころあったり、異空間のなかでリラックスしているような空間でした。
モニターを複数組み合わせて新たな模様をつくるのも舞台装置的な発想に思えたり、部屋全体がさまざまな感覚を刺激するエンターテイメント性の高い総合芸術なのではないでしょうか。
よろすず:今回の展示は個々の展示のあいだの通路やトイレなどにも切れ目なく音がかかっていて、建物全体も『The Lighthouse』と題された作品となっています。大澤さんは建物全体を作品として見て、どんなことを感じられましたか?
大澤:ぼくが印象に残ったのは、階段の途中に銀色のパネルや盆栽、石などが置かれてたことです。それらがもともと建物に飾られてあるものなのか、それとも今回の展示のために設置されたものなのか、特に明かしてないのが面白いなと。
キャプションがないものでもあの展示空間にあると意味深に見えてくるというか、ふだんは気に留めない盆栽や石でも作品に見えてくる。美しさを見出せばどんなものも作品になりうるのではないか、というメッセージを勝手ながら感じられて面白かったです。
よろすず:それぞれの展示をテンションを保ったまま回れるように照明の具合などが上手く調整されている印象でした。
『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』より『Light Boxes』 / Photo by So Hasegawa
大澤:今回の展示は「時間の経過」というのも作品の重要な要素ですね。日本の伝統的な文化も、自然のなかで時間を経て枯れていくものに価値を見出したりします。
東京と違って、京都はゆっくり枯れていくということの価値がまだ色濃く残っているような土地柄に感じます。そういう意味ではイーノの展示は京都という場所との相性がとてもいいですね。
よろすず:京都という土地で開催されている必然性はそういうところにもありそうですね。東京でやっていたら全然違った体験になっていた気もします。
大澤:そういえば、イーノ展からの流れでお蕎麦屋さんに行ったんですよ。昔ながらのお蕎麦屋さんっていうよりは若い人がやっている立ち食い蕎麦屋さんなんですけど、そこが面白くて。
出てくる蕎麦もこだわっていて美味しいんですけど、すごく古い建物を居抜きみたいな感じで使っていて、いまにも崩れそうなところで、おそらくあえてそういうところでやっているのかなと。
机もすごく湾曲した木材をいい感じに活かしていて、そういう時間の経過を活かす感覚がユースカルチャーにも反映されていて京都という土地柄に感心しました。
よろすず:ここまで話していただいた作品から感じとれるイーノの思考は、グラフィックデザインをつくっていく際の考え方と近かったりもするんでしょうか?
大澤:アテンションを何に向けるか演出する、という点では近いところはあります。デザインする対象によって大きく変わるんですが、たとえば扱う写真やグラフィックにアテンションを向けたい場合にはタイポグラフィは控えめにしてビジュアルに注意を向けたり、文字がないレイアウトがよい場合もあります。
よろすず:引き算的な思考というか、主張を抑えるという点では近いんですね。
大澤:そうですね。個人的には自分の作風はなるべく前面に出ないように、素材を生かすデザイン演出を心がけています。
よろすず:そもそも今回の『BRIAN ENO AMBIENT KYOTO』は、イーノのビジュアルアーティストとしての側面に触れられるのが重要なポイントになっています。大澤さんも先ほどおっしゃったように、「ビジュアル」といっても展示されているものは、どれも時間的に変化していくものばかりだったところが気になりました。
大澤:イーノは自身の音楽的なバックグラウンドもあり、時間の経過に対して特に意識的なのではないでしょうか。ミニマルな音楽やミニマルな映像におけるゆっくり移り変わっていく楽しさは、音楽家ならではの視点だと思います。
イーノが作品のなかで時間感覚にエンターテイメント性を与えているのは、改めてとても面白い視点ですよね。
よろすず:デザインの領域において静的なものと動的なものでは、どのような感覚的な違いがあるのでしょうか?
大澤:静的なグラフィックデザインと動的なモーショングラフィックでは、時間感覚の意識の差はあると思います。
グラフィックデザインは、どのようにその他のグラフィックデザインと差異化させるかを考える必要があります。同じようなビジュアルのデザインは、情報を読み取る前段階で埋もれてしまうからです。
そこに、時間軸の感覚を持ったモーショングラフィックを念頭に置いてデザインすると、その時間軸がデザインの差異化を補完してくれることがあります。
よろすず:「時間軸が補完する」というのは?
大澤:以前つくったポスターの例で説明しますと、これはオブジェクトが回転することを前提としたビジュアルです。静止して一枚絵として見ると少し物足りない印象を受けますが、動くことで表れる変化で物足りなさをカバーしています。
大澤:時間軸がデザインを補完してくれることによって、よりシンプルに物事を表現できるんじゃないかと。時間軸を加えることでグラフィックデザインのルールから少しだけ自由になれる感じがします。
イーノの『Face to Face』も時間軸が重要な役割を果たします。一枚絵ではなかなか伝え難い性質の作品だと思いますし、時間軸が作品の本質を補完しているといえるんじゃないかなと思います。
よろすず:時間軸の話でいうと、イーノは自身の作品について「川の流れを見つめるように」接してほしいということだったり(*1)、「考えることを促す」もしくは周囲の環境に「身をゆだねる」経験を導きたい(*2)、といった発言を、さまざまな表現で繰り返し述べています。
よろすず:こういった経験はイーノ作品に限らず、日常のなかでも見出すことができるもののように思います。大澤さんは過去にこういった経験や、それを促された場所として記憶に残っているものはありますか?
大澤:ぼくはよく湖で釣りをするんですけど、フローターっていう一人用の浮き輪でずっと湖にプカプカ浮かんでやるんですね。それはイーノの語っていることに近い経験かもしれないです。
周りが湖や自然に囲まれて地面もなくずっと浮いているなかで、登ってた太陽がだんだん傾いて、それに伴って風も強くなってきたり……1秒たりとも同じ状況はないんだけど、周囲の変化が本当にゆっくりミニマルに訪れることを実感できて、すごくリフレッシュされるんです。
一応イヤフォンとかも持って行くんですけど、音楽は聴かないことが多いです。ただ魚のことを考えながらぼんやりする。そんな感覚は、イーノ作品と通じるなと思いますね。
よろすず:日中ずっと一人で浮いてる、というのはなかなかほかにない状況で面白そうですね。
大澤:やっぱりそういうことって自然のなかに行かないとなかなか体験できないですよね。でもアート作品や音楽はそこまで大きなアクションをとらなくても気軽に鑑賞できます。
大澤:アートや音楽からそういった経験を得るのは、都市のなかでの疑似的な自然のようなものを感じているのかなとも思いますね。少し乱暴な意見ですが、「自然があるところでは、自然を見ればいい」と考えると、アンビエントミュージックには都市生活者のための音楽って側面もあるのかもしれないですね。もちろんそれだけではないと思いますが。
よろすず:イーノは1970年代に「家にいながら自然と触れ合える」と言っていたそうです(*3)。
大澤:そうなんですね。いまイーノ的な時間が求められる背景には、特にSNS以降、生活のなかで情報サイクルがすごく速くなってることへのカウンターって側面もあるんだろうなと思います。
そういうふうにアンビエントには逃避的な側面も確実にあるんですけど、「逃避的」ってだけで表現されてしまうとちょっと違う感じがするんですよね。なんかこう、現実に戻ってきたいんですよね、たぶん。
戻って来れないのは正直嫌で。ちょっとしたリフレッシュや休暇というか、情報や消費とか日常生活のすべてを否定して逃避しちゃうんじゃなくて、音楽も日常の慌ただしさとどこかでつながってともにある、みたいな感じが、ぼくにとってのアンビエントなんだろうなと思います。