賛否の先で論じる『シン・仮面ライダー』。現実と符合してしまっ...の画像はこちら >>



Text by 山元翔一
Text by 小田切博



映画『シン・仮面ライダー』が興行的に苦戦しているらしい。公開前から商品タイアップも多数なされた話題作で期待感も高かったものの、公開第1週の興行収入は2位スタートに終わり、翌週には5位に転落。

レビュー等での評価も賛否両論あるようだ。



作品を鑑賞してみたところ、これまで感じたことのない妙な居心地の悪さを感じて、その違和感について友人相手に何度か話をし、SNSや映画レビューサイトもチェックしたのだが、どうもほかには自分が抱えるようなモヤモヤを感じている人はあまりいなさそうで、そのことがより私自身の心持ちの落ち着かなさに拍車をかけている。



この感覚を率直に言葉にすると「気持ち悪い」だが、あらかじめお断りしておくと、だからといって私はこの映画を批判したいわけではない。逆に肯定や賞賛をしたいわけでもなく、私の感じるこの「気持ち悪さ」は、映画としての評価とは別なところで「結果として偶然生じてしまった」、本作といま日本社会で起きている事件や問題との奇妙な符合に対するものだ。



2023年3月に劇場公開された映画『シン・仮面ライダー』は、『シン・ゴジラ』(2016年)、『シン・ウルトラマン』(2022年)に続く庵野秀明監督プロデュースによる国産特撮ビッグタイトルリメイク映画の3作目で、制作発表直後からつねに話題になり続けてきた。



それは庵野本人が監督を務めること、『シン・エヴァンゲリオン』(2021年)と併せて「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」という、名称だけ見ると「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」を思わせる映画配給会社の枠を超えたコラボレーション企画の一環であることも発表されていたことも大きいだろう。



公開後の評価は賛否あるようだが、庵野秀明というクリエイターの作品はつねに肯定派と否定派を生み、両者が激しい議論を戦わせることでヒットしてきた面があるため、じつはこの点に関しては「普通の庵野作品」だともいえる。



観客としての私自身に関していえば、アマチュア時代の作品から鑑賞してはいるが、作品を網羅的に見ているわけでもなく、庵野秀明という映像作家に対する個人的な思い入れはほぼないといっていい。



ただ、私は『仮面ライダー』というキャラクターフランチャイズに関しては、1971年に開始された最初のシリーズを再放送でではあるが、小学校低学年の時期に視聴しており、比較的リアルタイムに近い番組視聴体験をしている。そのため、今回の映画に関しても、庵野秀明監督作品というよりは、1970年代のオリジナルテレビシリーズのリメイクとして鑑賞し、その意味では単純に納得した。



つまり、この一本の映画を観た体験は、何となく身体の底に残っていた幼少期のオリジナルシリーズ、それも1話からダブルライダー共演くらいまでのそれを見ていたときの感覚ときわめて近いものだったのだ。



1971年開始時の『仮面ライダー』は、子ども向け変身ヒーロー特撮番組としては嚆矢となるもののひとつであり、はじまった時点では実験色の強いコンテンツだった。



ホラー風の物語や暗い画面、フェイスペイント、全身タイツのアングラ演劇みたいな戦闘員や怪人……初期の『仮面ライダー』は子どもだった私にとってはグロくてとっつきにくい番組だったのである。しかし、そうした忌避感は内容的に明るくなった2号ライダー登場あたりから徐々に薄れ、ライダーカードの流行もあって、ダブルライダー共演からは素直に「かっこいい」ヒーローものとして熱中の対象になっていく。



いきなりエグめのスプラッタ描写からはじまる今回の映画は、個別のシーンやアクションの類似以上に、この「最初暗くてとっつきにくかったが、だんだん見やすくなっていった」という視聴体験をそのまま追体験させてくれる映画だったのだ。



こうした映像体験としての『シン・仮面ライダー』の説得力に比べると、その物語に対してはさほど感銘を受けたわけではない。



『シン・仮面ライダー』の物語は、高度なAIの分析をもとに「人類の幸福を追求する」組織ショッカーが結果として暴走し、その活動の歪んだ価値観を危惧して組織幹部、緑川博士(塚本晋也)とその娘ルリ子(浜辺美波)が組織に洗脳される前の改造人間、本郷猛(池松壮亮)を伴って脱走したところからはじまる。



本作の本郷はショッカー殲滅に強いモチベーションを持つわけではなく、学生時代の恩師である緑川によって組織に連れ込まれて改造され、気がつくと逃亡生活を強いられていた人物でしかない。



物語自体は緑川弘、ルリ子の親子と緑川の実子だが、ひとりショッカーに残り、現在は組織の中枢にいるらしい長男イチロー(森山未來)の家族間の対立関係をベースに進行していく。映画冒頭でルリ子と本郷の運命を決定づけた緑川は早々に殺されてしまい、ふたりは支援を申し出る政府機関を自称する男たち(竹野内豊、斎藤工)に出会い、ショッカーへの反撃を開始する。



以降は怪人との戦いが個別に描かれていくかたちであり、『シン・ウルトラマン』同様、この映画は存在しない30分枠のテレビシリーズを再構成したようなつくりになっている。



主人公、本郷のモチベーションの希薄さや物語の根幹にあるミニマルな世界観、ルリ子と本郷が政府の依頼で行動していることなど、プロット上の欠点や弱点をここで論じることは可能だが、私自身はそうした点を批判したいわけでもない。



むしろ問題なのは、この映画の物語と「映画の外の世界」との関係である。



『シン・仮面ライダー』公開に遡ること8か月前、2022年7月8日、奈良県奈良市にある近畿日本鉄道大和西大寺駅北口にて、第26回参議院議員通常選挙のための応援演説に訪れていた安倍晋三元総理が銃撃され死亡するという事件が発生した。



当然この事件はマスメディアやネットで大きく報道され、国際的な話題にもなったが、実行犯として現行犯逮捕された山上徹也被告の逮捕後の供述から殺害の動機が安倍元首相と旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)との関係にあったことが判明すると、元首相の暗殺という事件の性格を越えて日本社会は大きな衝撃を受けることになる。



父の自殺や兄の病気などを原因に山上被告の母は彼の幼少期から旧統一教会に入信、ほぼ全財産を投げうつような献金により、彼の家庭は貧困により崩壊、旧統一教会と密接な関係を持つ政治家を襲撃することにより同教団の問題を社会的に周知させることが事件の動機であるとされる。



この実行犯による供述により、事件直後は政治的な動機だと考えられた事件の性格は一変し、同教団が起こした過去の霊感商法事件や強引な献金による集金、自民党との密接な関係などが次々と報道されるに至った。ある意味では、事件自体が「首相暗殺」だけではなく、「宗教二世の悲劇」という別な種類の物語としても読み取られるようになったのである。



以降、日本国内では新興宗教問題が一躍ホットトピックになり、週刊誌やネットニュースなどでは報道され続けている。



さらに『シン・仮面ライダー』公開直前の3月2日には幸福の科学の創始者である大川隆法氏が病没し、そこでもまた新興宗教、そして大川氏の遺族にまつわる問題として、その二世の問題が別なかたちで話題にされることになった。



じつはこの映画は、日本社会においてそうした新興宗教と宗教二世の問題がマスメディアを席捲するなかで公開された映画だったのである。そして、その事実が先に挙げたこの映画のプロットに、おそらく脚本執筆時にはまったく想定されていなかった意味を与えてしまった――私の感じた「気持ち悪さ」はこの点にある。



つまり、「人類の幸福を追求する」ショッカーという団体は、見方を変えればほぼカルト宗教団体であると解釈することが可能であり、過去、実際にオウム真理教によるテロ事件を経験している私たちの眼からは彼らの「幸福追求のための」殺戮行為は宗教テロにも見える。



このような見方をしたとき、『シン・仮面ライダー』の物語は、緑川ルリ子という宗教二世がともに脱会した本郷を連れ立って、政府により非合法化されたカルト宗教の残党を狩っていく、というあまりにも現実とシンクロした物語として「読めてしまう」のである。



この映画の虚構の物語と現実の出来事の符合が不気味であるのは、これが意図的になされた諷刺のようなものではありえないという点だ。



当初2021年の公開を予定していた本作の脚本(※)が安倍元首相銃撃事件の時点で書かれていなかったわけもなく、映画の物語と宗教二世問題の共鳴はまったくの偶然でしかない。

2016年に公開されて大ヒットを記録した『シン・ゴジラ』は意図的に2011年に起きた東日本大震災をモチーフにし、ゴジラを天災のメタファーとすることで古典的な怪獣映画を現代的な物語として蘇らせた作品だった。



対して今回の『シン・仮面ライダー』は、そのような比喩としての意味性を意図せずにつくられた物語が現実の出来事に浸食されてしまったことによって、ある種の象徴性を獲得してしまったという点で際立った不気味さを孕んでいる。



私自身、本作は映画としての出来の良し悪し以上にそのような特異なコンテンツとして記憶されるものなのではないかと思っている。そして、そのような映画を結果として撮ってしまった庵野秀明という監督は、ある意味で本当に「時代に愛されている」のだな、とも。