Text by 吉田薫
ウォン・カーウァイ監督が初めてドラマ制作に挑んだ『繁花』。中国で2023年末に放送されると、大手レビューサイト『豆瓣(Douban)』で10点満点中8.7点の高評価を獲得し、一大ブームを巻き起こした話題作だ。
原作は、中国文学界の最高峰『茅盾文学賞』を受賞した同名小説。1960年代の文化大革命から1990年代の高度成長期という、歴史の転換点にある上海の情景を描いた大河小説だ。ドラマでは80年代から90年代、計画経済から市場経済へと転換した激動の上海にフォーカス。1人の平凡な青年が経済界でのし上がっていく物語を、徹底的な時代考証とウォン・カーウァイならではの耽美な絵作りで描き出している。
そんな本作が、3月20日よりWOWOWにて日本独占初放送・配信される。数々の映画作品を世に送り出してきた巨匠が、なぜドラマという新たなフォーマットに挑んだのか。上海をいかに映像で捉えたのか。ウォン・カーウァイ監督にメールインタビューを実施した。
<ストーリー>1990年代の上海。かつて若く無鉄砲な青年だった阿宝(アーバオ / フー・ゴー)は、「旦那」と呼ばれるビジネスの師に導かれ、誰もがその名を知る「宝(バオ)社長」へと上り詰めていた。しかしある日、暴走する1台の車が彼の運命を変える。飲食店を営む玲子(リンズー / マー・イーリー)、国営貿易会社に勤める汪明珠(ワン・ミンジュー/ティファニー・タン)らがその身を案じる中、重傷を負った阿宝は表舞台から姿を消す。
ー原作を読んで、特に強く印象に残った点や魅力に感じられた要素は何でしたか?
ウォン・カーウァイ(以下、ウォン):この小説が私の心を打ったのは、ある時代の正確なリズムを——上海が自己を再発見しつつあった瞬間を——見事に捉えていたからです。また、日常的な質感が幾重にも織り重なった物語の構造には、映画的なものを感じさせました。
この物語は、私の兄や姉の世代についての物語でした。私が遠くから見守っていた変革の波を、登場人物たちがまさに身をもって生き抜いていました。この作品を映画化することは、あの変化の時代を再構築する試みとなりました。
1958年生まれ。上海生まれ、香港育ち。映画監督デビュー作『いますぐ抱きしめたい』(1988年)がカンヌ国際映画祭の批評家週間で上映され、続く『欲望の翼』(1990年)で香港電影金像奨(香港アカデミー賞)の作品賞、監督賞を受賞。1992年に設立した製作会社ジェット・トーン・フィルムズの第1弾『楽園の瑕』(1994年)を2年越しで完成させる。
ー30話という長編のドラマですが、苦労したことはありましたか? ストーリーテリングにおいて、映画とは違うリズムがあったのではないでしょうか。
ウォン:この小説は上海の近代の流れ全体をたどっていますが、私たちは物語の焦点を80年代後半から90年代に絞ることにしました。この時期は、人々が若さゆえの無邪気さから卒業して、歴史の激流に放り込まれ、計画経済から市場経済への大きな転換期を必死に生き抜いていった時代だった。
全30話という長さがあったからこそ、小さな瞬間の積み重ねで一つの時代を浮かび上がらせるという、原作の本質を守ることができました。人間関係がゆっくりと育まれていく様子や、変わりゆく街の細やかな移ろいを描くには、映画というフォーマットでは収まりきらなかったと思います。
映画とテレビは、それぞれ異なる言語です。この物語が求めていた言語で語ることにした、ということですね。
フー・ゴー演じる主人公・阿宝(アーバオ)
ー映画と同様に、本作でもすべてのショットに映像的な精度への強いこだわりを感じます。1990年代の上海の世界を立ち上げるにあたって、どのようなアプローチを追求されたのでしょうか。
ウォン:本作は数十年にわたる物語です。
ロケ地も、記憶を宿している場所を選びました。楊浦(※1)の埠頭が持つ荒々しく工業的な骨格は、汪明珠(ワン・ミンジュー)の過酷な自己再生を映す視覚的な鏡となりました。蘇州河(※2)は薄明かりの青みがかった灰色に染まり、静かな強靭さを映し出しました。
90年代の爆発的なエネルギーを表現するために、私たちは黄河路(※3)を実物大で再現しました。ネオンの星座群と水銀灯が濡れたアスファルトににじみ出す光景は、あの時代の熱狂的な鼓動と、上海と双子のような香港が持つエネルギーの、色彩的なオマージュでした。
ー登場人物たちの衣装はどのように構想されたのでしょうか? 本作は中国で公開後、特にファッションやライフスタイルの面で社会現象を巻き起こしたとも言われていますが、そのような反響をどのように受け止めていますか。
ウォン:衣装においては、上海に芽生えたファッション感覚が最重要テーマでした。改革開放(※1)は、一面の青い海(※2)を鮮やかな花園へと変えました。
私たちは2万点以上の衣装アーカイブを構築しました。
マー・イーリー演じる玲子(リンズー)
ウォン:ワン・ミンジューは外国貿易に携わり海外のバイヤーを接待するという、新興ホワイトカラー階級を体現する存在です。そのため、プロフェッショナルで洗練された装いを求めていました。国営企業の女性たちが一般的にズボンを着用していた一方で、外国貿易に関わる女性たちは日本のテレビドラマの影響を受け、スカートを履き始めていました。そこで、当時の日本のオフィスワーカーたちのスカート丈を精緻に研究しました。
すべての衣装が、キャラクターの個人的な趣味と社会的地位を無言で物語っていたのです。
観客の反応は、予想以上でした。作品の影響がスクリーンの外まで広がっているのを実感しています。歴史フィクションがここまで深く届くと、単なる娯楽じゃなく「共有された記憶」になるんだと思います。当時の言葉やファッション、さらには食文化にまで関心が広がっているのを見ると、本当に誇らしいですね。
ティファニー・ヤン演じる汪明珠(ワン・ミンジュー)
ー本作では多くのヒット曲が使用されていますが、音楽はどのような考え方で選びましたか? また、その具体例として小田和正さんの楽曲を選ばれた理由も教えてください。
ウォン:映画における音楽は、感情を支えるだけでなく、その時代や場所を示す手がかりにもなります。
このシリーズでは、マンドポップ(主に北京語で歌われるポップス)やカントポップ(主に広東語で歌われるポップス)の名曲に加えて、日本の印象的な楽曲も使っています。長年一緒に仕事をしてきた梅林茂(※)の音楽のほか、五輪真弓や山口百恵の曲をカバーしたものも取り入れました。リンズーと阿宝(アーバオ)が銀座で出会う場面では、吉田正の“有楽町で逢いましょう”を使って、あの街の空気感をより強く感じられるようにしています。
特にうれしかったのは、小田和正の“ラブ・ストーリーは突然に”を使えたことですね。『東京ラブストーリー』は当時の中国の視聴者にとって、青春を象徴する作品でした。『繁花』放送時、リンズーが銀座の街をアーバオの手を引いて走る場面で、あの象徴的なイントロが流れた瞬間——中国国内のドラマで初めてこの曲が使われたということもあって、全国の視聴者が沸いたのを覚えています。一瞬でみんなを90年代へ連れ戻したんです。
最終的に、この時代の名曲を50曲以上使用しました。それらは単なるBGMではなく、一世代の個人的な憧れや失恋を刻んだ「音の記憶」なんです。無鉄砲な希望、せわしないスピード感、そしてほろ苦い感情——曲を聴くだけで、その時代の空気が一気によみがえります。
ー『繁花』の物語は、アーバオとリンズーが日本で出会わなければ、物語が成立しなかったかもしれないとも思えます。また、リンズーが経営する居酒屋『夜東京』は物語のなかで重要な役割を果たしています。この作品では、日本という場所や文化が人を引き寄せる「強い魅力」として描かれているように思いますが、その点をどう考えますか?
ウォン:1972年の日中国交正常化を経て、上海と東京のあいだでは、経済・文化・スポーツなど多岐にわたる交流がなされ、深い絆が育まれました80年代には多くの上海人が日本で学び、働いたあと帰国しましたが、リンズーはまさにその世代を体現しています。
原作では、東京でのリンズーの生活は明確には描かれておらず、映像化の過程で加えたものです。監督として、東京と上海はどちらも本当に絵になる都市であり、豊かな質感を持っていると感じています。だからこそ、賑わう銀座でのリンズーとアーバオの出会いと、発展途上の上海での別れを対比させたかったのです。
当初は銀座でのロケを予定しており、いくつかの名だたるクラブも訪問していました。しかし残念ながら、パンデミックの影響により、銀座の一角を上海で再現せざるを得ませんでした。100%正確とは言えませんが、私が記憶していた街の本質を捉えることはできたと思います。
ーウォン・カーウァイ監督の最新作ということで、日本のファンも楽しみにしております。日本のファンに向けたメッセージをいただけますでしょうか?
ウォン:『繁花』は、急速に変化する世界のなかで自分の居場所を見つけ、名を残そうとしながら、愛、友情、裏切りを経験する人々の物語です。
視聴者は、1990年代の上海の具体的な光景や音に触れると同時に、より良い人生を求める普遍的な衝動も感じるでしょう。野心は世界共通の言語なのです。こうした「普通の人々」の情熱と信念こそが、彼らを特別な存在たらしめるものであり、そしてその物語は翻訳がいりません。
90年代の上海は、不確実性のなかにこそ革新が花開くとを教えてくれました。あの夢追い人たちは地図を持たず、ただ自分の腹の底に羅針盤を宿していました。現代の観客が向き合う嵐はまた違うものかもしれませんが、時代を超えて挑戦する勇気は不変です。
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