DeNAでルーキーイヤーから粉骨砕身の活躍を続けてきた三嶋。(C)産経新聞社
揺れ動いたファーム最終戦の横須賀
「ものすごい声援とタオルの数で……」
2024年のファーム最終戦、9回のマウンドを託された横浜DeNAベイスターズの三嶋一輝は、スタンドを埋めたファンの姿を目にして少々戸惑った。
【関連記事】「取り組み方が甘い」――日本Sで出場機会ゼロ “ハマの黄金ルーキー”度会隆輝に飛んだ、元首位打者の厳しき言葉【独占】
ファームのシーズンラストゲーム。
それだけに最終回にガラスの割れる音から始まる三嶋の登場曲が流れた際、スタンドは異様な雰囲気に包まれた。
ファンの胸がざわつく理由はあった。
クローザー、セットアッパーとブルペンの核として長年チームを支えていた三嶋だが、2022年のオフに身体の異変を感じ取った。原因は国難病指定の「黄色靭帯骨化症」だった。早期復帰を目指すため、リスクを承知で身体負担の低い、前例のない術式でのケアを敢行。過酷なリハビリにも勤しみ、12月にはブルペン入りと順調にステップアップ。遂に開幕1軍切符を掴んでみせた。
迎えた23年シーズン、三嶋は4月に8試合で3勝を挙げ、防御率も0.00と完全復活を印象付けた。しかし、その後に成績は下降戦を辿った。
しかし、現実は厳しかった。完全復活を目指し挑んだ24年の1軍登板はわずか7試合。本人も「野球に対して、こんなにうまくいかないものなのかと思った、そんな1年でした」ともがき苦しんだ。
点と点が線になる。その姿を目の当たりにしていたファンの足が、重いながらも横須賀に向かっていくことは、いわば必然だった。

原因不明の違和感と向き合う中でも“意地”を貫いた三嶋。(C)萩原孝弘
忸怩たるシーズンに悟った想い
イメージ通りに進まなかった24年シーズン、三嶋は原因不明の違和感を覚えていた。「別に痛いとかそういうのはないんですけど、キャンプで実戦が始まっていっても、なんかイマイチ乗り切れてない自分がいるっていうのが正直なところありましたね」と、開幕から忸怩たる想いを抱えていた。
「ファームでも日によってというのがあって……。
ゴールデンウィークを迎える頃には1軍に昇格した。それでも三嶋は「毎日でも投げたい」タイプでもある。周囲もそれは理解しているはずである。しかし、なかなかチャンスに恵まれない状況に「1軍では投げるチャンスがなくて……。長くプロにいますから『なんで俺だけ』という感じではなく、それは自分の力が認められてないから投げられないことが多くなったのかなって」と悟るものはあった。
さらに「首周りから肩への変調も感じていました」と試行錯誤を繰り返しながら、なかなか好転しない日々。それゆえに「足りないものはなんだろうって考えましたね。ちょっと1回、いままでの自分をいい意味で諦めるっていうか、なんか変えなきゃいけないと思って。いろいろ新しく取り組んでみようかなと思ったんです」と思考も変えた。
全ては復活のため。三嶋は「最終的に考えるのは自分だし、自分がその意見を取り入れるかどうかも自分の感性だし、自分の感覚だと思っていたんですけど、それを1回やめて、色々トライしてみようと思ってやってやりました」と、ゼロベースで自分と向かい合う覚悟を決めた。
ふたたび降りたファームでは「動作解析する人もいて、トレーナーさんもたくさんいて。
そこで従来とは異なる治療法やトレーニングにも着手。とにかく新たなチャレンジに取り組んだ。
「今までやってた自重だけの筋トレではなくて重りを使ったりとか、治療方法もトレーニングの内容も変えました。数値的に筋量が5、6キロ上がったんですよ。身体もちょっとでかくなりましたね」
また、猛暑の中でも34歳は若手以上にハードなトレーニングを重ねた。
「やっぱり見られてるわけじゃないですか。若い選手がたくさんいる中なので、弱音や変なことも言えない。僕が若い頃ファームにいたとき、先輩たちの中にはやることやらずに文句ばっかり言ってる人がいて。僕はこういう先輩になりたくないと思ってたんで、ずっと黙々とやろうと思ってやっていましたね」
半ば意地にもなり、ポリシーを貫いた。
新たなチャレンジの末に辿り着いた「原点回帰」
若手と過ごす日々に、新たな調整方法。自分のために組まれたプログラムを一通りこなした上で、三嶋はもう一度自分に問いかけた。
「自分が思ってることをあえて我慢して、出さずにしていたのかなと。変に自分で小さくなってたっていうか。やっぱり野球選手は、もっとガツガツしていんじゃないかなって思えてきましたよね」
「もっと自分らしさを出すことが必要なのでは」――。あえて“急がば回れ”の精神で地道に取り組んできたからこそ、導き出せた答えだった。
自身に中に思うところはあった。国難病指定の「黄色靭帯骨化症」を患ってから、いわば逃げ道を作っていた。
「今までは正直、やっぱりうまくいかなくて当たり前だなと思ってたんですよ。左足全く感覚なかったのに、手術して感覚良くなったら元に戻るって。そんな話ねぇよなって。ちょっと球がいかなくても、『いや、これ手術したせいだわ』って思ってたし、『俺、難病なんでこれは難しいな』とか軽々しく言ってたこともありました。でも、やっぱりそれじゃダメ。この世界で生きていくためにはそんなこと言ってること自体がダメ」
反省するとともに、持ち味の反骨心にも火が点いた。
フォーカスしたのは、持って生まれた身体の柔らかさを活かし、“キレ”を取り戻す作業。三嶋は「手術したところは、どんな動きをしても気になるところであって。そこはずっと付き合っていかなきゃいけないところ」とケアを念頭に置きながら、「それを凌駕するキレを手に入れます」と宣言する。
「オフは基礎基本のところですね。シンプルに運動量多くしてます。あとは食事管理と、お腹周りを鍛えています。もう35歳にはなりますけれども、一つひとつの動作ではまだまだ全然動けるし、ランニングのタイムも出ています。以前の自分の身体の柔らかさと、それ以上の身体のキレを手に入れるためにも、今までのタイムも全部上回るようなコンディション作りを徹底的にやります」
来る25年シーズン、目指すべき場所はもちろん1軍の座だ。無論、厳しい現実が立ちはだかることも重々承知している。
「やっぱり今年の三嶋は違うな、使いたいなって思ってもらえるようなパフォーマンス出すには、今まで以上、自分のキャリアよりも本当にもっともっと上のレベルのパフォーマンスを見せるぐらいじゃないと、なかなか使ってもらえない。もう本当に追い込んでやるしかないなって思っています」
単年契約の25年シーズン。同じ病を抱える人や、自らの治療にあたってくれた医師、心配してくれた妻や家族も復活を待っている。さらに「ファーム最終戦で改めて思いました。たくさんのファンが後押ししてくれているって」と、偶然に舞い込んだ横須賀での登板で受けた多くの声援はしっかりと心に刻まれている。
ルーキーイヤーの輝きから一転、ドン底も味わった。華麗なる復活を果たした後に、難病を患った。その度、不屈の魂で立ち向かっていった野球人生。
“逆境こそが最高の舞台”。三嶋一輝の不死鳥伝説は、まだまだ終わらない。
[取材・文/萩原孝弘]