近年珍しいほどにロケを多用し、豊かな自然と、風や光などが美しく映し出されたNHK連続テレビ小説『おかえりモネ』(NHK総合/毎週月~土曜8時ほか)。透明感あるヒロインや爽やかで美しい映像は一見、朝にふさわしい王道朝ドラのようでいて、かなり意欲的な挑戦が目立つ。

それを一身に引き受けているのは、ヒロイン・永浦百音を演じる清原果耶だ。

【写真】『おかえりモネ』で清原果耶が“見せる”印象的な表情

■直接的に“見せない”表現

 大きな挑戦の1つは、震災をはじめ、直接的に見せない表現が多いこと。

 最初の2週間、ゆっくり進む物語の中で、百音が受験に失敗し、音楽もやめ、おそらく「震災」による心の傷を抱えている様子が徐々に見えてくる。貧乏や困難から何度も立ち上がる朝ドラはたくさんあっても、「喪失」からスタートする朝ドラは稀(まれ)だ。そして、その理由が第3週目に見えてくる。

 百音が音楽を好きになったきっかけや、仲間たちを誘って作った吹奏楽部、コンクール、音楽コースのある高校受験などが、BGMに乗ってわずかなセリフと表情でキラキラと紡がれていったのだ。

 しかし、3月11日、父・耕治(内野聖陽)と一緒に仙台に見に行った高校の合格発表に、百音の番号はなく、父に誘われ、部活の最後の練習が気になりながらも、ジャズバーに行く。そして、生演奏にくぎ付けになるうち、震災が起こる。「約束を破り、そこにいなかったこと」が百音にとっての大きな負い目となっていったことが、ここで初めて分かるのだ。ヒロインが心に抱えているものを、希望に満ちていた頃と、負い目を抱えた現在との変化により、わずか1~2話分の放送時間内で表現されていた。

 さらに、震災そのものも、周りの人々の心の傷などをあまり詳しく説明せず、直接的に見せない。震災から10年経った今でもなかなか復興が進まない被災地の人々の心の傷に配慮した部分は、当然あるだろう。
また、震災から10年経っていることで、見えてくる「被災者たちのさまざまなあり方」もある。

 皆、それぞれに喪失感を抱いている。しかし、そうした中でも、懸命に前を向こうとする人々もいれば、人の「死」を見てきたからこそ軽々しく実家の寺を継げないと感じ、逃げ出そうとする友人(前田航基演じる三生)もいるし、大切な人を失い、いまだ震災の真っ只中にいる父を一生懸命支える息子(永瀬廉演じる亮)がいる。「被災者」と「非被災者」に二分するわけではなく、「被災者」といっても、それぞれに受けた傷の場所や傷の深さ、回復の仕方、向き合い方などは、人それぞれだ。そうした一人一人の違いが、そこにいなかった、ある意味多くの視聴者と同じような「外部」の百音の目を通して見えてくる。■清原果耶の「目」で“見せる”表現

 直接描かないからこそ、視聴者は過去も現在の風景も、人々のあり方も、百音の目をフィルターとしながら、自身の記憶やこれまで見聞きしてきた映像や記事などから補完し、想像しつつ観ることになる。

 視聴者の中には、清原の表情のアップが多いことに気付いている人もいるだろう。確かに、これほどまでにヒロインの表情を中心に据えた作品は近年では珍しい。

 本作と同じ清原果耶主演×安達奈緒子脚本がタッグを組んだNHKドラマ10『透明なゆりかご』(2018年)で、産婦人科医院でアルバイト勤務をする主人公・アオイを演じた清原は、「命」を真っすぐに見つめ、静かながらも豊かな感情をたたえた「目」の演技が高く評価されていただけに、『透明なゆりかご』がヒントとなっている部分ももちろんあるだろう。しかし、それだけではない。

 朝ドラの歴史を振り返ると、かつて新人女優の登竜門だった時代には、ヒロインのアップが多用されたこともあった。例えば、現役タカラジェンヌの純名里沙がヒロインを務めた『ぴあの』(1994年)の場合、舞台経験値は抜群ながら、映像仕事に不慣れだったために、苦労したことを本人が後に幾度かインタビューで語っている。
映像経験の乏しさゆえに、舞台特有の大きな芝居になって浮いてしまう違和感を、ヒロインのアップで解消していたわけだ。

 しかし、清原の場合、まだ19歳ながら、映画やドラマなど、映像の世界でその演技力はすでに高い評価を得ている。それどころか、さまざまな角度からの難しい表現を清原であればこなせるだろうという期待、判断から、ヒロインの表情を中心に据えた演出になっている気がする。

 百音の「目」を媒介として、人々の姿や抱えるもの、現在と過去という時間の推移などを描くために、目の演技が非常に重要な意味を持つ『おかえりモネ』。達者なヒロインを配置したからこそ可能となる省略や余白の表現をどこまで汲み取れるかは、視聴者側の感受性に委ねられたところもあるのかもしれない。(文:田幸和歌子)

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