軽井沢、万平ホテルで キッシンジャーを出迎える田中角栄( 1972年8月19日撮影)

 日本中を騒がせたロッキード事件から間もなく45年となる。「今太閤」と呼ばれ、高等小学校卒ながら首相まで登り詰めた田中角栄は1976年7月27日、受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の容疑で逮捕された。

 筆者は当時、中学生だったが、首相まで務めた人間が逮捕されたことに少なからずの衝撃を覚えた。ロッキード社の売り込みに関わり、田中に5億円を贈ったとされる「丸紅」の幹部が国会に呼ばれた後、次々に関係者が逮捕されたことも強く印象に残っている。

 ロッキード事件発覚以前の60年代後半の話になるが、筆者の父親が合併で今は社名が消えた総合商社で、南米の某国を舞台にした国産機YS-11の売り込みに関わり、しょっちゅう長期の出張に行っていた。

 1年以上かかった商談がまとまり、いざ飛行機が南米に飛ぶ時は羽田空港まで機体を見せに連れて行ってもらったのを覚えている。丸紅の幹部が逮捕された時は、もしや父も売り先の南米で同じような工作をしたのではと思ったが、当時は真正面から聞くことはできなかった。ただ、賄賂の単位を表す符丁として、丸紅が使ったピーナッツの他に羊羹一切れ、カステラ一切れとかの表現もあるという話だけは聞くことができた。

 そうした個人的な動機もあり、ロッキード事件には長年にわたり興味を持ち続け、関連の本が出版されるたびに読み続けてきた。リチャード・ニクソン元大統領やヘンリー・キッシンジャー元国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官による陰謀説を始め、様々な視点から事件を見た本が出版されたが、その多くが裏付ける資料もなく、伝聞に基づく憶測の域を出ない仮説を並べ立てたものだった。

東京地検の田中逮捕を確実にするため巧妙に仕掛けられたキッシンジャーの罠

 2020年10月に出版された『ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』(KADOKAWA)は共同通信社でニューヨーク支局特派員、ワシントン支局長を務めた春名幹男が15年の歳月をかけ、米国立公文書館などから入手した膨大な量の機密文書を読み解き、米国の当時の関係者への取材もし、当時は埋もれていた事実をあぶり出した。新たな視点からロッキード事件を紐解いた「ロッキード事件の決定版」(小松健一・元毎日新聞北米総局長)だ。

 これまでも知られているように、東京地検特捜部による田中逮捕は、海外の要人に賄賂を送り、自社の航空機売り込みを図ったロッキード社が保管していた秘密文書の入手がなければ成り立たなかった。秘密文書は全部で約5万2000ページあったが、このうち、米司法省などを通し東京地検に提供されたのは全体の僅か5.5%の2860ページだった。日本関係の資料が6000ページあったという証言もあり、これが事実だとすれば、何らかの理由で日本関係の資料の半分以上は日本に手渡されなかったことになる。

ただ、渡された数少ない資料には「Tanaka」ないし「PM」(Prime Minister=首相)を明記した文書が含まれており、これが後の田中の逮捕、起訴への決定打となる。

 当初、国務省の幹部らは田中を含む政府高官名が記載された文書の引き渡しは自民党政権の崩壊を促し、反米政権の誕生に繋がり日米安保体制を危うくしかねないと反対していた。加えて、対外販売に関する賄賂の公表は、米国企業の対外的信用を失墜させ、厳しい不利益にさらすと懸念する声もあった。実際、秘密文書を扱うワシントン連邦地裁の決定で政府高官名を公表禁止とする保護令も出ていた。

 しかし、ここで当時の国務長官だったキッシンジャーは政府高官名の取り扱いについて、「国務省の専門家が判事に助言する」という“意見書”を決定の中に潜り込ませる秘策を打ち、確実に田中の名前が記載されたロッキード社の資料が東京地検に渡るよう仕掛けた。著者の春名は高官名を公表禁止とする連邦地裁の保護令が出ていたのにかかわらず、東京地検が受け取った資料の中に「Tanaka」などの日本政府高官名が記載されていた謎を連邦地裁の決定とキッシンジャー“意見書”を読み直し精査する中で、このキッシンジャーが仕掛けた巧妙な罠に気づいた。

 首相を退いたとはいえ、田中は自民党最大派閥を率い、依然キングメーカーとしての影響力を保持した。首相への返り咲きを狙う田中を政治的に葬りたいと考えたキッシンジャーはロッキード事件による逮捕こそが田中にとどめを刺すと考えていたようだ。

 キッシンジャーは米国に先駆け、72年に日中国交を正常化し、73年の第四次中東戦争後は、米国に随従一辺倒だった日本の中東外交を親アラブに方向転換させるなど、日本の“独自外交路線”を試みようとした田中を蛇蝎の如く嫌い、事あるごとに足を引っ張った。

 本書では田中の首相在任時の73年10月のソ連訪問と北方領土交渉も、キッシンジャーによって進展が阻まれたことが明らかにされている。キッシンジャーは田中とレオニード・ブレジネフ(ソ連共産党書記長)の日ソ首脳会談を前に、アナトリー・ドブルイニン駐米ソ連大使をホワイトハウスに招き、「米国としては、日本に反ソ政策を押し付けないので、ソ連側の見返りを期待したい」と、田中が進めようとする領土交渉進展を阻止したいとする米国の意向を受け入れるよう求めた。これに対し、ブレジネフからも、「ソ連が四島に関して譲歩することは問題外だ」とする回答が寄せられた。

 実際行われた会談で、日本側は田中とブレジネフの会談が3日間で計4回、7時間以上費やされたことを成果としたが、領土交渉での進展はほとんどなかった。

事情を知らずキッシンジャーを礼賛する日本人

 こうした裏工作など策を弄するキッシンジャーの実態は日本ではあまり知られていない。学識豊かな元ハーバード大学教授。ベトナム戦争を和平に導きノーベル平和賞を受賞した人物などとして今も尊敬を集める。

 同書ではジョンソン政権下のベトナム戦争時、国務省のコンサルタントをしていながら、同政権内の情報源を裏切り、敵方のニクソン陣営に情報を提供したことや、サルバドール・アジェンデが率いるチリの社会主義政権を米中央情報局(CIA)を使った強引な方法で崩壊させたことなども紹介されている。

 筆者自身も駐在していたプノンペンで、カンボジア内戦を一兵士として戦ったカンボジア政府の高官から、70年に実施された米軍と南ベトナム軍によるカンボジア東部侵攻について、「画策したのはキッシンジャーだ。

あいつだけは許せない。戦争犯罪人として処刑されるべきだ」と息巻かれた。これまで日本国内でのキッシンジャー評しか耳にしたことがなかったので面食らったのを覚えている。

 同書ではキッシンジャーが田中に食らわした外交上の非礼も記されている。田中はウォーターゲート事件で辞任したリチャード・ニクソンの後を受け、副大統領から大統領に昇格したジェラルド・フォードと74年9月、ホワイトハウスで初めて会う。そこにキッシンジャーが割って入ってきて、「大統領、日本のプレスには驚きます。

東京で30人の民間人を相手にオフレコのブリーフィングをしたら、次の日その一問一答が新聞に出ていたんですから」と言い放ったという。

 日米首脳の冒頭に一閣僚が口にすべき言葉ではない。無礼千万な酷い対応だが、日本人を小ばかにするキッシンジャーの言動はニクソン訪中時の毛沢東、周恩来との会談記録を米国家安全保障公文書館の資料から日本語に起こした毛利和子・毛利興三郎(訳)の『ニクソン訪中機密会談録【増補決定版】』(名古屋大学出版会)でも垣間見ることができる。

 キッシンジャーは72年2月23日に行われた葉剣英党中央軍事委員会副主席(中国人民解放軍の創立者の一人で、中華人民共和国元帥)らとの会談で、「我々が日本人に対していつも経験していますが、彼らは秘密を守ることができませんね」、「日本の外交官に何か話すと彼は秘密を守ると誓いますが、それは72時間はという意味です」等々、自らの見下した日本人観を中国の首脳にも述べている。

 軽んじられたものだ。だが、今もキッシンジャーは日本にとり、外交、安全保障問題での巨人、権威として聳え立つ。春名の著書によると、キッシンジャーはフォード政権の国務長官退任後、田中の東京・目白の私邸を3回訪問している。

 春名は「キッシンジャーは日本で自分の関与が具体的に知られていなかったので、平気で来訪することができたのだろう。本書が広く読まれて、キッシンジャーが日本訪問を躊躇するほどになれば、日本人の情報収集能力が見直されることになるかもしれない」と記す。 

 ぜひ、そうあって欲しいと思う。何食わぬ顔で平気で自らが葬った人間に会いに行く神経。

「人を背後から切っても、心にわだかまりを残すような人間ではなかった」(春名)のだろう。

 田中はキッシンジャーの3回目の来訪となった85年1月3日の翌月2月27日に脳梗塞で倒れ、話すのが不自由になった。これで田中自身に、キッシンジャーから如何に酷い仕打ちを受けたのか聞く機会は永久に失われた。

 軽井沢の老舗ホテル、万平ホテルには田中が首相に就任して間もない1972年8月19日に同ホテルでキッシンジャー氏と会談したのを記念して今も会談時の写真や会談に使われたソファーなどが置かれた小さな展示場が設けられている。その中の写真に握手を求める田中とそっぽを向くキッシンジャーの写真がある。その後の顛末を象徴しているようで興味深い。

 意識がはっきりしているうちに事実関係を確認しておきたいと思い、80代後半の父親に南米の某国に国産旅客機YS-11を売り込んだ当時のことを思い出してもらい、相手方の関係者に賄賂(リベート)を贈ったかを今一度聞いてみた。「申し出てみたものの、その人物は“超”がつく金持ちでリベートは断ってきた」という。今となってはそれが事実かどうかを裏付ける術もないが、なんだかホッとした。

 田中が逮捕された翌年の77年、米国で米国外の公務員に対する商業目的での贈賄行為を禁止する連邦海外腐敗行為防止法(FCPA)が制定される。以後、外国の政府高官や公務員に賄賂を贈ることは法で禁じられる事となった。適用対象は米国企業だけでなく米国と関連するビジネスを行う事業者全般にわたり、海外で展開する日本企業も適用対象となっている。