「ニュースは動詞に宿る。意見ではない」ノンフィクションライタ...の画像はこちら >>

 毎日新聞、バズフィードジャパン、そして現在は雑誌でテレビでとメディアを横断して活動するノンフィクションライターの石戸諭氏。新刊『ニュースの未来』(光文社新書)は、彼自身のキャリアを通し、メディアではなく“ニュース”の本質とその未来についてつづった本だ。

 メディアの質低下が叫ばれる中、なぜ今ニュースなのか。本に書かれなかった現在のメディアの問題点とはなにか。バズフィードジャパンでの同僚でもあった筆者が聞いた。

著書で「ジャーナリズムの話」をしなかった理由

ーー本、拝読しました。まず面白いと思ったのは、この本は『ニュースの未来』というタイトル通りにニュースの話が中心で、メディアの話ではないところです。

 そうなんです。

僕は経営や運営側の話はしていません。もっと言えば、ジャーナリズムの話をしていないんです。なぜならジャーナリズムの話をした瞬間に離れるお客さんがいるからです。この本は大学の講義を一つのベースにしていますが、大学生相手に大上段から「ジャーナリズムとは何か」という話をしても受け取るまでの距離があるように思いました。

 それは当たり前の話で、ジャーナリズム論はそんなに身近なものではないのです。今は新聞社、テレビ以外の業界の人たちもオウンドメディアやPR、YouTubeであったりとさまざまなメディアを駆使して「ニュース」を発しています。

むしろ、身近なのは「ニュース」なのです。

 この本では「ニュース」を「実際に社会で起きた出来事をもとに、創作を交えずに伝える情報全般」と大きく定義して、その中にはストーリー性の高いノンフィションやドキュメンタリーも含まれるとしています。つまり、ブログや企業の発信もニュースだとしているのです。そうなるとニュースと無縁に生きている人はいない、という僕の主張も納得してもらえると思います。

 独立して思いますが、ブログでの発信も含めて、ライターという仕事の大半はニュースを書くことだと言ってもいいのに、あなたたちも実はニュースを発信しているんですよと言われて「そうなのか!」と思う人たちがとても多いのです。

 ウェブの世界で言えば、サイトを作り上げるエンジニアも「ジャーナリスト」ではありませんが、ニュースの世界の仲間です。

そういう人たちに対して「かくあるべき」とジャーナリズム論を語ってもそもそも価値観が違うので、「まぁそうですよね」という話にしかなりません。

 それではダメです。ジャーナリストではない人たちも現実にはニュースに関わっている中、古いメディア以外のニュース発信者たちを全部包摂できるような本を書きたいなと思いました。多くの本はジャーナリズムの話、新聞記者の話、メディアの話になってしまっています。それではあまりにも間口が狭い。

 ジャーナリズムは、僕の定義では巨大なニュースという世界の一部であって、全てではない。

ニュースに対して、ジャーナリストでないと何も言えないとなると、一部のYouTuberやライターがやばい手法の取材や発信をしていても「だって俺たちはジャーナリストじゃないから」という言い訳を許容してしまいます。そうではなく「みなさんもニュースに関わってますよ」というアプローチができる切り口、多くの人が読んで「そうだよね」と思えるものが書きたかったんです。

ーーこの本ではニュースにはどういう形式があるのか。良いニュースとはどういう要素があるのかを体系的に書いています。メディアに関わる人間だと、漠然と持っていたものが言語化され、すっきりする部分がすごくありました。

 良いニュース、ニュースのクオリティに関する話はみんなうまく言語化しきれないという思いが、ずっとありました。

みんな「良いニュース」の根拠を「取材力です」と言ったり、「手間がかかってるんですよ」と主張したりするのですが、手間がかかっているから、そのニュースは良いのかというとそれは別問題です。逆にウェブメディアでありがちですが、手間をかけずにPVを稼げる、コスパ良くシェアを広げるのが良いと言っているのもおかしな話です。

 クオリティの話を言語化しないといけないと考えたのですが、過去の文献にもこの部分に言及したものがないんですよね。昔、書かれたジャーナリズムの本などは非常に参考にはなるけれど、今使うにはインターネットへの言及があまりなくて弱いんです。インターネットに対して過度に楽観的か悲観的なものに分かれます。

 もう少し使い勝手の良いものが必要だなと思いました。

そうしなければ、共通の言語で議論ができないという危機感があったからです。マスコミとネットメディアの中でも共通の議論がなかなかできそうにない。これをうまく何かつなげるものが必要だろうと思ったのが、この本を書いたもう一つのきっかけだと言えるでしょう。

 僕のように新聞社とネットメディアで正社員になって、そこからフリーランスのライターになったというキャリアの人はあまりいなかった。だから他の人にはない視点で書けるのではというのもあった。徳重さんも知っているけれど、僕らがいた当時のバズフィードは周囲からの高い期待と、中の現実が全然マッチしていなかった。結局そんなものなんですよという話はやっぱりきちんと書かなきゃいけないんです。

 ネットメディアに関してはみんな期待値が高すぎるし、新聞やテレビ、出版といったこれまでのメディアに対しては逆に期待値が低すぎます。持っている力量は旧来のメディアの方があまりにも大きいにもかかわらず、です。旧来メディアとネットメディアでは実力の差がある中で、何かもうちょっとバランスのとれたニュース論が必要だと考えました。

ーー私も石戸さんも「ネットメディアはそんなに幸せな世界ではない」という認識が共通してありますが、その一方でいまだにネットメディアを信じていたり、本当は信じていなくても利益のために理想郷だと発言している人もいます。

 ネットメディアについては、そろそろ正当な評価するべき時期に来ていると思っています。これから数年で倍々ゲームで利用者が増えて、新聞社のような人数を雇えるような規模になるならいいけれど、でも現実には無理な話です。いろいろなニュースの仕事を組織的にカバーしようと思うと、新聞社くらいの人数が必要ですが、そこまで成長するのも夢物語でしょう。ネットメディアは、新聞社より小規模の「週刊文春」の規模や記者の質に追いつくことも厳しい。

ーー記者志望の人がこの記事を読んでいるのなら先に言っておきたいんですが、ネットメディアで人材を育成するのはかなり厳しい。

 そうなんですよ。本の中でも人材育成は業界全体の課題だと書きましたが、新聞社は新人を大量に採用し、10年ぐらいをかけて相応の力がある記者を育てる力があります。他方、ネットメディアは日銭を稼がなきゃいけないから、育てる時間的な余裕はありません。もちろんトレーニングをすれば、できるようになる部分もあるけれど、本当に力を鍛えるような経験はできないと思います。

 表玄関から入って「何か聞かせてくださいよ」というインタビューを取ることはできるけれど、裏口から入って関係者といろいろつながって話を取ってくるとか、話を聞きました以上の記事が書けるライターを一から継続的に育成するのは、今はまだ難しいかなと思います。

ーーただ本にも書いていますが、メディアが今後どうなるかという問題と、記者であれライターであれ編集者であれ、個人が良いニュースを作れるかというのはまた別の話です。

 今、ニュースの問題は、組織運営の話であったりとメディアの諸問題が混在していることにあります。マネタイズの問題はまさにそうです。メディア業界のお金をどこから持ってくるか。広告主からなのか、読者からなのかという話はそれはそれでいくらでも議論したらいいと思います。でも売り物であるはずの、ニュースのクオリティの話はどこに行ったのかとずっと思ってきました。何を売るのか、どういうクオリティのものを売るかはついぞやっていません。

 これはメディアをやっている人間はよくわかると思うんだけれど、結局「良いニュースとは何か」を定義できていないのです。だから質的評価、質的な指標を作ろうという話から逃げてしまうのです。なぜ質的評価ができないかというと、その評価には評価する個人の価値観が入ってしまうからです。

 質の評価がおろそかになる一方で、数字には価値観が入らないため、PVやシェアで評価するという考えは隆盛を極めています。今はPVやシェアを取る方法自体があまりにもパターン化されていますよね。楽なのは、メディアのスタンスを決めてしまって、コミュニティの一員になることです。そうすれば数字は確実についてきます。

ーー実際にネットメディアは保守、リベラル、フェミニズムなど特定のオピニオンの”業界紙”と化したり、その「ムラ社会」の一員となっているものが増えています。ただ片方の意見に加担すると、もう片方の意見の人はそのニュースを読まないし、信じないため、結局その層の人を取りこぼしてしまう。それはより広く情報を伝える意味でのメディアの役割を捨てていることにならないかと疑問に思っています。

 先ほども言いましたが、今の時代は極端な話、リベラルや保守といった政治的なクラスター、インフルエンサーが多い医療界隈、科学者界隈のコミュニティの中にうまく入ることができれば、メディアはそこそこ食えます。PVも取れますし、シェアも広がり、結果的にお金になるんです。今のネットメディアぐらいの規模だったら、そこそこ回ります。ただし、それではもっと幅広い層に届けるという役割はプラットフォーマーに依存することになります。論点のフィールドになることは極端に少ないでしょうね。

ーーネットメディアのタコツボ化ともいえると思いますが、ここ最近ではこの悪い手法が新聞社やテレビ局などマスメディアといわれるものにも流入している。大手メディアの記事を読んで感じるのが、両論併記をやめている。片方の意見ばかりを載せるものが増え、バランスが悪くなっている印象があります。

 特に新聞社が悪い意味でネットメディアのようになっています。バランスが悪くなっているというか、バランスを取るという考えそのものを捨ててしまっているように思えます。別に「自分はこういう立場です」とやりたければやっていいけれど、良いニュースを目指したいのならばもっと丁寧にかつ言葉を尽くす必要があります。

 結局、今はオピニオンの時代なのです。だから取材対象は誰でもよくて、オピニオンが自分たちの味方か敵かという考えが先にきてしまっている。中にいる人たちは、このままでいいのかという危惧はあると思います。オピニオンに寄せてニュースを発信すると、怖いぐらいに影響力があるわけですから。

 本当にみんな党派でよく固まりますが、僕はもうそれは好きにやってくださいという立場です。そんなことよりも、どう良いものを作っていくかということにシフトしていかないとニュースには未来がないからですね。

ーー小規模、中規模が多いネットメディアならともかく、新聞社のように数百、数千人を抱えるメディアで多様性が希薄になっているのは、危機感を感じてしまいます。

 メディアの陣営化ですよね。一つのメディアの中で多様性があるということが価値だったと思うのですが、もうあまり望めなくなっています。ネットに傾注するとやっぱりそうなるな、という感じです。本の中で<毎日のようにSNSで怒りを表明し、感情の連帯を強め、インフルエンサーになることも大切ですが、現場に足を運んだり、立場の異なる人間と対話をしたり、方法を考えることで研ぎ澄まされていく「複雑さ」への感覚はもっと大切です>と書いたけれど、マスメディアが率先して複雑なものに対して目を向けないとこの先は厳しくなります。

 ネットメディアが複雑さや物事や人物の機微を捉えているのならば、オルタナティブになると思いますが、課題が多い。

 今はオピニオンを強く打ち出すことで数字が取れるから、その選択も合理的ではある。でも長期的にオピニオン路線を続けるためには、無限に正しくないといけないのです。それはメディアが自分が自分で首を絞め、幅を狭める行為だと思います。

ーー自分で首を絞める例の一つが先日、テレビ朝日の社員が緊急事態宣言中に10人で飲み会をして、一人が店の外に転落して緊急搬送された件ですね。これまで自粛を求め、政権のコロナ対策をかなり批判していただけに、その事実が発覚した際には炎上しました。

「テレビ朝日は番組で偉そうなことを言ってるんだったら、ちゃんと行動しろよ」となっちゃいますよ。「偉そうなことを主張していたのは別の番組だ」という主張は、業界内部では理解されるかもしれませんが、社会的には理解されません。

 そうした批判は、自分たちの言い続けてきたことの帰結です。でも、ニュースとして本当に面白いのは、なぜ彼らは自分たちが言っていたことをなぜできなかったというところじゃないですかね。

 たとえばイギリスでは政府の新型コロナウイルス対策顧問を務め、“ロックダウン教授”と言われたニール・ファーガソン教授が辞任する騒動が2020年にありましたが、その理由は不倫スキャンダルなんです。ロックダウンしろと言っていたファーガソン自身が、その間に不倫相手を家に招いていて、結局辞任したのです。でも、僕は非常に人間味があるなとも思っていました。人間は望ましいことがあるとわかっていても、できないことがあります。そこにニュースが宿ると思うのです。

ーーたしかにそうですね。今は大谷翔平みたいに品行方正で能力も高いヒーローがいるけれど、人間みんながああいうふうになれるわけではありません。

 社会は高潔な人ばかりではない、という考えが今のニュースにはなかなかありません。それがオピニオン化の問題だとも言えます。例えば、テレビ朝日の玉川徹さんが多くの支持を集めているのも、彼が、政権に批判的であったり、新型コロナに対する自分の考えを肯定してくれるといったように、オピニオンが一致しているから拍手喝采しているわけです。

 そのやり方は一部の熱狂的なコアなファンを獲得するけれど、もうちょっと穏健な考えを持もっている中間層にいる健全な知的好奇心を持って、世の中を知りたい、考えたいという層をみすみす手放しているように思えます。

ーー石戸さんの「ニューズウィーク」(CCCメディアハウス)の「沖縄ラプソディ」(2019年2月26日号掲載)が面白かったのは、基地の賛成でも反対でもどちらでもない立場から書かれていたからです。その立場だからこそ見えてくるものがある。

 僕自身の考えは当然あるので、それは原稿の中に明記しています。「沖縄ラプソディ」で採用したのは、賛成と反対の人々の生き方や流儀を同時に存在させるということです。そして、彼らの共通点を見いだす。AとBという人が対立している、私はAの味方をしますというニュースがあってもいいけど、それだとBの方にいる人たちを完全に取り逃してしまうし、考えを深めることにはつながらないのです。

ーー本の中では「一つの仮説を構築するにも相応の時間がかかる」と書いていますが、物事に対して性急に答えを求めるようになっています。そもそも物事の答えを出すには仮説を立て、検証をしてと時間がかかるものなのに、SNSにつられて1秒2秒で白黒つけようとしている。その部分は改めて考えないといけない。

 結局、考える時間が今はないのです。ニュースを読んだり、見たりした瞬間に「自分はこういう意見だ!よしハッシュタグをつけて発信だ!」となっています。ニュースの発信者でも少なくない人がそうなっている。でも、ハッシュタグを書かせること自体は簡単なんです。感情を刺激して、怒って、署名しましょうという話に持っていけばいいからです。それがメディアの役割だという人たちを否定はしないけど、本当に複雑な社会を考えるという役割はどこにいったんだ、誰が担うのかと思うのです。

 この問題はおかしい、私はそのために戦うんだ。それはいいけれど、全員が全員、同じ価値観である必要はない。それだったら、僕はもうちょっとその考えの部分にアプローチした方がいいんじゃないのという立場に立つわけです。

ーーSNS、ネットメディア、これは独立だけでなくマスメディアによるネットメディアも含めてですが、感情を煽ることに熱心で思考する機会、時間を奪っている。立ち止まる大切さはやはり必要です。

 先にも触れたマスメディアのネットメディア化はやっぱり問題ですね。徳重さんは、先程ネットの悪い部分に引きずられていると言っていたけれど、やっぱりネットに触れていくうちに知らず知らずにそうなってしまうんです。マスメディアの人間でもネットの反応を見て「このニュースはいい」と言ってくる人たちがいれば、その考え方に寄っていってしまうのも仕方ない。

 この本でニュースの発信者にこそ安直に答えに飛びつかない力が必要、あいまいさに耐える力が必要だと書いています。

 そのために必要なのはやはり取材です。取材を積み重ねれば、おのずと同じ考えの人だけでなくく、全然違う考えの人に話を聞かなければいけない局面がでてきますし、実際に足を運んでみたらまったく違ったという経験もできるわけです。SNSに染まりすぎない処方箋って僕はシンプルに、取材に忠実であればいいだけだと思うのです。

 そもそもインターネットの中だけが世界じゃない。そういうところからもっと出ていくべきなんです。いろいろな人たちと関わるのも大事だし、現場に行ってみて、会って話を聞いてみると驚きに満ちた何かがあるわけじゃないですか。それに対して素直に表現すれば、そこに繋がる表現になるでしょう。そこが大事なんです;

 意見の違う人と接触するのが難しいと思うかもしれないけれど、たとえば親族の集まりなんかを想像してみてください。自分や自分の周囲と違う考えの人、温度差を感じる機会があると思うのです。でも、それで付き合いをやめているかというとそうでもない。「まあまあ」と言いながら付き合えてはいるのが現実ではないでしょうか。

 現実世界では、みんなそうやって折り合いをつけていることが、インターネットだとできなくなる理由に興味はあります。

ーー昨今メディアリテラシーを誰もが持つべきとなっていますが、石戸さんはこの風潮にも本の中で釘を刺していますね。

 メディアに多い、読み手にリテラシーを求めるというのは違うと思っています。たとえば食べ物で考えると、日本は気をつけて店選びをしなくとも、食中毒になる確率はものすごく低いレベルですよね。だからお店で食中毒になるかをいちいち気にしながら食べてはいない。僕はビールが好きだけど、ビールを飲んで上面発酵か、下面発酵かと調べる人なんてまれでしょ。多くの人は普通に飲んで美味しいで終わりますし、それで良いわけです。

 知りたい人だけが調べればいいことなのに、なぜかメディア業界だけは「みんなが批判的に読解する力を身につけなければいけない」という話をしています。

ーー食べ物で例えると、外食業界が「食中毒の危険性のある店も多いですから、みんなリテラシーを高めて食中毒のお店は避けてください」と呼びかけることと同じで無責任ですね。

 そうなんです。読者に僕たちが発信したものを批判的に読解してくださいね、というのはやっぱりちょっとおかしくて、僕はきちんとしたものを作って届けるので、読んでくださいねで十分なはずです。もう少し欲をいえば、僕が届けたものを、お客さんが買ったり、アクセスしたりして読んで面白いな、読んで元気が出たなと思ってもらえれば十分じゃないかと思うのです。

 今、インターネットの業界でフェイクニュースが出てきているのは事実です。今のメディア状況で、デマやフェイクをゼロにするのは現実的な目標だとは思えません。それよりも、信頼できるニュースを継続的に発信してきたメディア、良いニュースを発信する側の書き手が市場を取っていないという問題もあるわけですよね。だから、大手メディアも僕みたいな小さなフリーランスも地道に読者を獲得していかないといけないと思うのです。

 読者を獲得するときに大事なものは、きちんとクオリティーコントロールされているとか、面白いことです。「このニュースは正しいから」「間違っていないから」だけで引きつけようとしてもしようがない。そんなのは新聞社だったら当たり前の話です。世の中にゼロリスクはないので、間違うことはありますが、日々発行する新聞で訂正を出すことのほうが圧倒的に少ない。

 逆にいえば、これだけ信頼ある情報を出してお客さんが取れていないなら、別のところに問題があると考えないといけないですよね。たとえば取材の質は高いかもしれないが、アウトプットの質に問題はないのかと。最近の新聞記事はやっぱり短すぎます。せっかく取材しているんだったら、もっと長く書きたいなと現役のときから思っていました。取材した出来事を最前線の記者が捨ててしまう功罪っていうのはもうちょっと考えた方がいいと思います。

 自分たちで改善できる部分をおろそかにして、「正しい記事を書いたから読め」とか、「自分たちは間違っていない情報を出しているから、読者も間違いのない情報を手に入れてください」というのはちょっと上から目線な感じがします。

ーー石戸さんのいう「良いニュース」を発信するにはどういった視点が必要でしょうか。

 本の中でかなりフィーチャーしましたが、新聞記者出身のアメリカの作家・コラムニストのピート・ハミルは「ニュースは動詞だ(News is a verb)」と言っています。その人間が有名であるか無名であるかは関係なく、その人間の動きの部分こそがニュースだということです。つまり人間が主役で、人間がやることに価値を見いだしていくのがハミルの流儀なわけです。「ニュースはオピニオンだ」、意見が主役だとは書いていません。

 歴史を振り返ると過去の多くのノンフィクションの書き手や、優れたジャーナリストも、人間が何をやるかということにニュースの価値を見つけていました。今は、誰かが何か「言った」ことについてあれこれいうけれど、何を「やった」かこそが大事なんだと先人は書いてきたし、実践してきたのです。

 僕はその歴史に連なりたい。「良いニュース」に、単純な意見は関係ないのです。書いている本人がどういう思想かは本来的にはどうでもよい。思想信条を超えて人々に届くもの、同じグループじゃない人たちにまで届くものが大事で、良いニュースにはそれが可能だと言いたいですね。

 忘れてはいけないのが、世の中の大多数は政治的な立ち位置は是々非々、もしくは気にしていないということです。僕は大多数にアプローチするためには良いニュース、クオリティがしっかりしているニュースじゃないと売れないし、届けられない。世の中には、政治的な信条とは関係なく、知的好奇心が旺盛な人は結構いると思っていますが、往々にしてそういう人は取り残されてしまうのです。

「ニュースは動詞に宿る。意見ではない」ノンフィクションライター石戸諭が語るメディアの問題点、そして“良いニュース”とは
『ニュースの未来』光文社新書

ーーニュースに携わる人間は今後、どうするべきだろうと考えていますか。

 それは難しい問題です。誰かがサボったら負けで、今以上に状況は悪くなることは確実です。ニュース業界への風当たりは強い。ニュースに価値があると思ってくれる人たちがどんどん離れ、スポンサーをしようという人たちもいなくなっている。だけど、全くやりようがないかというとそうでもない。だから、広範な読者に振り向いてもらうことから逃げちゃいけません。

 またニュースが、インターネットを含めたメディア環境に迎合しちゃいけない。その部分を忘れると短期的には成功するかもしれないけど、長期的なお客さんを手放すことになります。

 僕はインターネットよりも雑誌に記事を書く時間が多くなっています。雑誌での仕事は力もつくし、すごく大切な空間だけれど、もう少し読者を振り向かせられるかなともったいなく思う。僕もたまに書かせてもらっていますが、「文藝春秋」なんてあれだけの濃い内容なのに、よく1000円前後で売っているなと驚きます。

 このインタビューは、実際にライターの人も読むと思うんですが「クオリティの議論をしようよ」と言いたいです。まずはそこからだろうと。

ーーこの本自体は未来に向けた明るい内容なので、いろんな人に読んでもらいたい。

 大事なことは今、踏ん張ってでも前向きな話が必要だということです。自分たちがやっている仕事を斜陽、斜陽と言っている人の周囲にお客さんは集まりません。他のビジネスなら当たり前のことじゃないですか。自分たちで落ち目だと言っている人が作った商品なんて、買おうと思いますか。思いませんよね。

 そんな自虐ごっこを、いつまでもやっていてもしょうがない。メディアは今、優秀な人材が足りなくなっているとか言っていますが、斜陽産業と言っていたらいつまでたっても人は来ないですよ。

 ニュースの仕事はやっぱり面白いものです。悲観しなくても、自分の足元を見つめ直してみたら、面白い仕事をやってきたという経験を多くの人が感じるはずです。歴史が変わる瞬間、何かが起こる瞬間に立ち会えたり、面白い話を聞けたりして、それを書くことができる。まぁやっぱり面白いとしか言いようがないですよね。

 いつの時代もニュースは求められてきました。それはこれからも変わりません。市場規模は小さくなっても、ニュースの仕事は残る。これは忘れてはいけないと思います。

石戸諭(いしど・さとる)
ノンフィクションライター、1984年生まれ。大学卒業後、毎日新聞、BuzzFeedなどをへて独立。主な執筆媒体は「ニューズウィーク」「群像」「文藝春秋」「サンデー毎日」など。